スカイブルー・オーバーヘッド!
水瀬
スカイブルー・オーバーヘッド!
バットを振った瞬間、「これは入った」と確信した。
ピッチャーのはるか頭上を飛び越えてスタンドまで一直線のスリーランホームランだ。
五点ビハインドという絶望的な状況で迎えた九回裏、ツーアウト、ツーストライク、ツーボール。ランナーは一、二塁。打席に立つバッターは打順三番、その名前は
野球経験者の間では常識として語られることだが、バットには『芯』と呼ばれる部位がある。物理には詳しくないので仕組みや原理は一切わからないが、不思議なもので、このバットの『芯』でボールを捉えると衝撃や手応えというものをほとんど感じない。まるで氷の上を滑るようにスルリと抵抗なく振り抜くことができ、その癖ものすごい長打になるのだ。もちろん簡単にできるような芸当ではない。何しろピッチャーだって上手く打たせないために必死なのだから。
けれどその時、その打席、夏の高校野球、県予選三回戦の九回裏。大きく右腕を振りかぶったピッチャーの投球フォームが、まるでスローモーションのように僕の目には映り、彼の背後でゆらゆらと揺れる陽炎が波打った回数すら捉えられると感じた。その右手指からボールが離れる瞬間まではっきりと覚えている。握りはストレート。球筋は笑えるほど素直な真っ直ぐ。ストライクゾーン真ん中低めに入るコース。
その全てをはっきりと見ていた。だから、僕のバットは誰が見ても完璧な角度と速度で振り抜かれた。衝撃はなく、手応えもなかった。寸分違わず『芯』のど真ん中でボールを打ち返した証拠だ。これで三点を返して二点差となれば逆転も夢ではない。バットを振り切る寸前にそんな思考が頭をよぎり、つい打球を見失ってしまう。一体ボールはどこに消えたのだろう。
「ストライッ!」
探すまでもなかった。バットをかすりもしなかった白球はしっかりとキャッチャーミットに収まっていた。まったく、何がバットの『芯』だ、馬鹿馬鹿しい。当たっていなければ衝撃も手応えもあるわけがない。ただそれだけの話だった。
「バッターアウッ!」
審判が高らかに宣言すると同時、二塁ランナーががっくりと肩を落とすのが見えた。試合が終わり、それと同時に僕の夏も終わった。
高校三年生の夏。最後の夏。あの夏を、未だに思い出す。
飛んだはずのボールを見上げた、あの日の空は抜けるような青色だった。
あれから、もう四年が経とうとしている。
*
右手にライター、左手に携帯灰皿、口に点火前の煙草をくわえてベランダに出た。外は思っていたよりずっと気温が高くて、ブコブコと妙な音を立てる室外機の上に置きっぱなしにしていた空っぽの植木鉢がまるで泥のようにひしゃげていた。
七月の東京は連日熱湯にでも沈んでしまったのかと疑いたくなるほどの猛暑が続いている。室外機に腰掛けるのは諦め、コンクリートの手すりに背中を預けて煙草に火をつけた。
時刻は十八時を回ったところで、住宅地の外れに位置するマンションの三階からは、広々とした河川敷のグラウンドがよく見える。どこかから出汁と醤油のいい匂いがして、朝から何も食べていないことをふと思い出した。寝坊して朝食を食べ損ねたのだ。
その時、室外機の奥、非常用の薄い仕切りの向こうで隣人がガタガタとガラス戸を開ける音がしたと思ったら、仕切りの向こう側から小さな手が突き出され、ひらひらと揺れた。
「トータぁ、飯行こうぜー」
深く煙を吸い、吐く。
「お前さぁ、俺がいない可能性とか考えねえの?」
「匂いでわかるんよ。マルボロくせーもん」
とにかく飯行こうぜ、と一方的に会話を打ち切り、隣人は出てきた時と同じようにガタガタと引っ込んでいった。
隣人の名はミーナという。本名はもう少し長い横文字で、『何とかミーナ・何とかかんとか』みたいな具合の、いかにも外国人らしい外国人の名前だ。彼女とも、いつの間にやらもう十年以上の腐れ縁になる。
着替えるべきか否かなんて全く悩むことなくTシャツにハーフパンツにサンダルというラフな格好で玄関を出ると、ほぼ同時に左隣のドアが開き、似たような服装のミーナが出てきた。
彼女は色素の薄い金色の長髪をうなじのあたりで乱雑にひとまとめにしていて、頭一つ分背の高い僕の視点からは、その細く白い首筋がはっきりと見えた。
「暑いとラーメン食べたくなんねー? 中華行こうよ中華」
もたもたと鍵を閉めながら気の抜けた声でそう言って、ミーナは真っ直ぐに僕の目を見た。
「餃子も食べてー」
勝手に食え。
*
隣人、腐れ縁、多分、友達。
彼女、ミーナこと……何だったか。
「お前、名前なんていうんだっけ、フルネーム」
「ヴィルヘルミーナ・シストネン」
「長え」
「自分から聞いといてひどくねー?」
知らん。とにかくミーナことヴィルヘルミーナ・シストネンと僕との関係性を表す言葉はいくつかある。小学三年生の頃に同じクラスで出会ってから今現在に至るまで、特に馬が合うわけでもない僕らは、それでも何故かつかず離れずの距離で友達付き合いを続けていた。
ミーナの容姿はとにかく目立つ。彼女の両親はヨーロッパ出身だかアメリカ出身だか知らないがとにかく外国人、それもおおよそ僕らが想像するところの西洋人のイメージそのままの外見をしており、彼らの血を引いたミーナもまた、金髪碧眼の白人という、どこからどう見ても外国人という出で立ちである。何もしていなくても注目を集めるし、中高生の時分にはある種カリスマ的な人気を誇っていた。
しかし残念ながらと言うべきか当然ながらと言うべきか、彼女は外見以外の全てにおいて平凡な能力しか持たない日本生まれ日本育ちの普通の人間であり、カリスマらしいカリスマなど何一つ持ち合わせていないのである。
結果として何が起きたのかと言えば、多分、ミーナ自身には何も起きなかった。彼女を取り巻く人間の多くが、勝手にミーナに期待し、勝手にミーナに失望し、勝手にミーナから離れていった。ただそれだけのことで、彼女は何もしていない。
目まぐるしく入れ替わるミーナを中心とした人間関係の中にあって、唯一僕だけは定位置を動かなかった。何しろ小学生の頃からの付き合いだ。彼女がいかに平凡な人間であるかなんて十分すぎるほど理解している。だから別段何かを期待しやしないし、かといって毛嫌いする理由も特にない。つまりどうでもいい。
そう、どうでもよかったのだ。少なくとも、高校に進学してから数日後、僕が野球部に入部した翌日に、彼女が野球部のマネージャーとして僕の前に現れるまでは。
「そういやトータ、就活どーなの」
油臭い空気が充満した行きつけの中華料理屋で餃子をつつきながら、全く興味のなさそうな素振りでミーナが尋ねた。多分、本当に興味がないのだろう。僕だってそうだ。ミーナの仕事に興味なんてない。
「今日で二十……七? いや、八か。まぁ大体三十社くらい面接行った感じ。戦績は聞くな」
「うっへ、よくやるなー」
高校を卒業後、僕は都内の大学に進学し、ミーナは何だかよくわかない二年制の専門学校に進学し、卒業した。だから彼女は既に社会人として定職に就いているのだが、就職活動にはそれ程苦労しなかったようである。
「その前に書類で何社落ちたかはもう数えてねえけどな」
「トータはさー、負け癖っていうの? いい加減取らんと」
「余計なお世話だよ」
言って、ラーメンをずるずると啜る。負け癖とは、言い得て妙というか、何というか。
就活を始めたのが人より少し遅かった。業界研究が人より少し甘かった。集団面接で言うつもりだった志望動機が前の奴と丸かぶりした。焦り出すのが遅かった。努力が少し足りなかった。もう少し、あと少し、そんなことばかりだ。大学受験の時だってそうだった。もう少し早く勉強を始めていたら、もう少し努力していたら、もっとランクの高い大学に進学できたかもしれない。そうすれば就活だって今より少しは楽だっただろう。
「……もっと早めに準備してたらちょっとはマシだったかなぁ」
もしもそうなっていたら、と僕は考える。もしも人よりもう少しだけ早く就活を始めていたら。もしも今よりランクの高い大学に進学できていたら。もしも受験勉強をもっと頑張っていたら。
――もしも、あの時ホームランを打っていたら。
「もしもなんてねーよ」
ポツリとミーナが言う。
「あるのは今だけだ、トータ。君、いっちょまえに後悔する癖になんかポイントずれてんよねー」
煽るなよ、と言い返そうとして、すんでのところでこらえることに成功した。
「まー、知らんけど」
ミーナはへらへらと笑い、僕は煙草に火をつける。
いつもならテーブルの上に置いてあるはずの灰皿が見当たらず、僕は少しだけうんざりした。
食事を終えて店を後にし、二人並んで川沿いの遊歩道を歩く。
気温は少しばかり下がったが、たまに吹く風は生ぬるい湿気に満ちていて、まとわりつくようなそれがどうにも不快だった。
僕とミーナの住むマンションはこの道を少し歩いた先にあって、川に面した立地であれば夏の暑さも多少はマシになるかと思っていたのだが現実にはそのようなことは特になく、それどころか窓から直射日光がそのまま降り注ぐため日中は地獄のような環境と化すのだった。
大学進学と同時に始めた一人暮らしもいつの間にか三年が過ぎた。それはつまり、ミーナと再会してから一年以上が過ぎたことも意味する。
高校卒業後の進路が分かれたことでようやく途切れた僕らの腐れ縁は、しかし就職を機に上京してきたミーナが隣室に住み着いたことで、僅か二年で修復されたのである。
「そこのグラウンドでさー」
河川敷のグラウンドを見下ろして、ミーナが口を開く。
「たまに野球やってんの。草野球。小学生からおっさんまでごちゃ混ぜでさー」
グラウンドで草野球をやっていることは、ずいぶん前から知っていた。何しろベランダから見える距離だ。何ならたまに観戦もしている。けれど、それにミーナが参加しているというのは初耳だった。
「よくそんな時間あるな。暇なのか」
「まー三十連敗中の就活生よりはなー」
まだ結果が出ていないところもあるのだから三十連敗呼ばわりはやめてほしい。
「もうすぐ試合やるんよ。トータも出ねー?」
「出ねえよ」
即答する。それは自分でも驚くほど強張った声になった。
「何せ三十連敗中の就活生だからな。暇じゃねえんだよ」
皮肉たっぷりに言い返すと、ミーナはこれ見よがしにため息を吐いた。
「負け癖は勝たなきゃとれねーぞ」
パワプロかよ。仮に負け癖がついていたとして、そんなにシンプルに、簡単に、まるでゲームの中のマイナス技能のようにあっさり取れるようなものだとは到底思えなかった。だって、筋金入りだ。特に僕のは。
それきり、二人の間に会話はなかった。
ミーナとの間に流れる沈黙はいつも不快ではなかった。僕たちは互いに互いを好きでも嫌いでもなかったし、特別に興味があるわけでもなかったから、その少し不思議な距離感は、時に一瞬にして僕らを赤の他人にすることができた。
そういう時、僕らは決してそれ以上会話を続けることをしなかったし、次に会った時にはまたいつものつかず離れずの関係に戻っている。そういうものだった。
「……何でもいいからさ、勝たんと」
つい先程の僕よりも余程硬く重い声色で、ミーナが沈黙を破る。
「何だって競争じゃん。負けていい勝負なんてねーよ。言い訳に聞こえるかもしれんけど、前に私がトータを三番に推したのだって、勝てると思ったからだよ。勝ちたかったからだ。……勝とうと思ってない奴はさ、やっぱ勝てんよ」
わかるよ。当たり前だ。勝とうと思ってない奴は勝てない。負けてもいいと思いながら勝負することには何の意味もない。わかってるし、僕はそうじゃない。
そう言おうとして、結局僕は何も言えなかった。
今度こそ本当に会話は終わって、僕たちの間には、いつもより少しだけ重く湿気った沈黙が訪れた。
まとわりつくようなそれは、どうにも不快だった。
*
高校野球部で初めてレギュラー入りを果たしたのは二年生の冬のことだった。あれは確か他校との練習試合で、守備位置はレフト、打順は七番だった。
その試合で僕は四回打席に立った。結果は三打数二安打二打点。初試合としては驚異的な結果だったと今でも思う。
以来、幾度かの入れ替わりを経て、高校生活最後の大会でクリンナップの一人を任されるまでになった。つまり、チームでもトップクラスのバッターとして評価されるようになった。そのオーダーには、当時スコアラーを務めていたマネージャーであるミーナの意見も少なからず反映されていたけれど、彼女の意見は様々な局面で正鵠を射るものだったから、監督も部員も皆その采配を信頼していた。
とは言え、所詮は部員数二十人そこそこの弱小野球部だ。クリンナップと言っても別段大したことはない。現に僕らは予選すら突破できなかった。
県予選の三回戦で僕らは負けた。僕らを破った学校は、次の四回戦であっさりコールド負けした。悲しいかな、それが勝負というものだ。生存競争は弱肉強食ではなく適者生存だと言われるが、スポーツの世界で勝ち上がるのは適者ではなく強者である。
結局のところ、どう足掻いても勝てないものは勝てないのだ。
何社目かもわからない企業の面接を終え、広々としたビルからオフィス街に出ると、そこは灼熱地獄だった。
マナーモードにしていた携帯がメールの受信を伝えていて、そのメールの件名には『選考結果のご連絡』という文字があり、詳細は割愛するが、最終的には今後のご活躍をお祈りされた。この世界の人事部には祈祷師しかいないのだろうか。
チリチリと胸の奥が痛むのがわかった。もう何度目かもわからない敗北だ。最後に時刻を確認してからポケットに携帯をねじ込み、最寄り駅に向かって歩き出す。現在時刻は午前十一時過ぎ。次の面接まで二時間弱といったところだが、移動時間を考えると呑気に昼食を取っている時間はなさそうだ。
重い足取りで駅にたどり着くと、改札前は人でごった返していた。電光掲示板には『全線運転見合わせ』という赤々とした文字が流れていて、それだけでおおよそ何が起きたのかを僕は理解した。
迂回ルートを探すか、タクシーを捕まえるか、それとも復旧するまで待ってみるか、いくつもの対処法を思い浮かべるが、どう頑張っても間に合いそうな気がしない。
最終的に、僕は最も簡単な方法を選択した。
訪問予定の企業に電話をかけ、電車が止まってしまったために面接に行けなくなったと正直に伝える。ただそれだけだ。ほんの数分のやり取りで午後の予定はすべて消滅し、運転再開の報が流れるまでの一時間と少しの時間を、僕はファミレスでのんびりと過ごした。
数日前のミーナの顔が微かに脳裏をよぎり、また少し胸の奥が痛んだ。
運転を再開した電車に揺られて自宅の最寄り駅についたのは十四時ちょうどで、駅を出ると幾分暑さは和らいでいた。空を見上げれば灰色の雲が太陽を覆い隠していて、この様子では夕方頃には一雨来そうだ。
駅前を離れ、川沿いの遊歩道を歩く。少し歩いた先にある河川敷のグラウンドに結構な人数が集まっており、声の様子から野球の練習中であることがわかった。もしあれがミーナの言っていた草野球チームだとしたら、少しくらい見ていってもいいかもしれないな、とふと思う。
それは本当にただの気まぐれだった。とにかく勝ちにいけというミーナの言葉を思い出し、そこまで言うならお前のチームはどうなんだ、という子供じみた対抗意識が芽生えたのだ。
グラウンドを一望できる階段の最上段に腰を下ろし、頬杖をついて練習風景を眺めることにした。どうやらミーナの姿はないようで、僕は何故か少しだけほっとした。
ちょうどこれからバッティング練習が始まるところのようだ。外野に二人の選手を残し、ほとんどのメンバーがバックネットの裏に集まっている。
しばらくすると小柄なピッチャーがマウンドに上がり、続いて中年のバッターがバッターボックスに入った。
二言三言バッターと言葉をかわした後、ゆったりとした投球フォームから放たれたボールはなかなかの速球だった。体躯の割に球威のありそうな良いストレートだ。バッターは三回の空振りの後、四球目を何とか捉えたものの、ボテボテのファーストゴロとなった。
「ピッチャー、うめーっしょ」
突然背後から声をかけられて振り返ると、いつの間に現れたのか、Tシャツにウィンドパンツを履いたミーナが立っていた。
「近所の中学生。野球部がないからあれで文芸部だって。もったいねー」
視線を戻したところで二人目のバッターが短いフライを打ち上げる。
ミーナの言う通り、確かに文化部に置いておくには勿体ないセンスだ。と言うよりも。
「……バッターの方が駄目って線は?」
「それはあるなー」
即答だった。まるで容赦のない彼女の言葉を証明するかのごとく、三人目の青年バッターは空振りを繰り返す。三度、四度、五度……。腕だけでバットを振り回すような無様なバッティング。あれじゃあ駄目だ。
しっかりとバットを振るために必要なのは腰を中心とした軸足の体重移動で、腰を入れて打つ、なんていう表現もある。厳密に言えば腰の運動というよりも下半身の使い方の話になるのだが、とにかく誰も彼もバッティングがイマイチなのだった。
「あれじゃ勝てないんじゃねえの」
「じゃー、どれだったら勝てると思うんよ?」
訊かれ、しばし黙考する。
バッターボックスには次のバッターが入り、彼は一球目をきれいに打ち上げた。結果は浅めのセンターフライだ。次も、その次も、僕はじっと黙ってバッターを観察した。
それから七、八人のバッティングを見た。頬杖をついたまま、僕はYシャツの胸ポケットから煙草を取り出し、一本咥えて火をつける。
「三番はフォーム矯正しないと腰やりそう。早めに直したほうがいいと思う」
息を吸い、吐く。煙が舞い、すぐに消えていく。
「あとは……いや、悪いけど、どうやったら勝てるかは全然わかんねえわ」
「あっはっはっはっは! だよなー!」
正直に思ったことを口に出すと、ミーナは思い切り笑い声をあげた。バシバシと僕の肩を叩きながらひとしきり笑った後、彼女は小さく「でもな」と前置きして。
「勝てないからって戦わねーのは、やっぱダセーんだよ」
僕はグラウンドから目をそらし、傍らに立つミーナを見上げた。曇り空の下、彼女は堂々と立っている。堂々と、誇らしげに、眼下の弱小チームを見つめている。
「それに、どうやったら勝てるかわかってるならハナから勝負する意味ねーしなー」
遠くで雷の音がした。僕たちは揃って空を見上げ、すぐそこまで迫っているであろう雨の強さを想像した。
「おーい! 撤収すんぞー!!」
ミーナが大声で叫ぶと、グラウンドからは「うーす!」という野太い返事が返ってくる。
「トータ、こないだ言ってた試合、明日なんよ」
「断る」
「控えの選手いなくて困ってんの。いーじゃん、出てよ」
「出ねえよ」
それは自分で思っていたよりもずっと強い拒絶を示す声だった。靴底で煙草の火をもみ消し、吸い殻を携帯灰皿にねじ込む。ため息混じりに立ち上がると、頭一つ分低い位置にあるミーナの両目が、強く僕を見つめていた。
「……帰るわ」
ミーナが何かを口にする前に、僕は彼女に背を向けた。直後、大きな雨粒が鼻先を叩いて、僕はまるでそれを言い訳にするかのように小走りでその場を立ち去ったのだった。
*
夕方過ぎから降り出したゲリラ豪雨は一時間足らずで上がり、その日の夜は蒸し暑い熱帯夜になった。
僕はどうにも何かそれらしいことをする気になれず、かと言って眠ってしまうには時間が惜しくて、買い置きのカップラーメンで夕食を済ませてからの小一時間、ベッドの上で天井を眺めて過ごした。
多分、後悔していたんだと思う。採用面接をキャンセルしたことも、草野球を見物したことも、ミーナに対する拒絶の言葉も。
ただ生きているだけで、どうしてこんなにも息が詰まるのだろう。どうしてこんなにもバツが悪いのだろう。
枕元に放置していた携帯を手に取ってロックを解除すると、すぐさまメーラーが立ち上がる。就活サイトからの未読メールが三通。その下には昼にもらった不採用通知が残っている。正直なところ、悔しさも辛さもなかった。ただ僕の負けが知らされただけで、それはいつものことだ。
思えば、最初はそうではなかった気がする。敗北に慣れた。麻痺してしまった。
こういう思考はよくないな、と思う。自省しているようで先がなく、翌朝にはきれいさっぱり消えてしまう類の自己嫌悪だ。
思い切って起き上がり、煙草とライターを手にベランダへ出た。冷房の効いた室内から一歩出た途端、まるで空気の重さが変わってしまったような感覚に陥るのは、きっと高すぎる湿度のせいだ。
煙草に火をつけ、大きく煙を吸い込み、吐く。対岸の街の灯が僅かにぼやけて見える。ふと、ここにいたくないな、と思う。同時に、行きたい場所も特にないな、と思う。
隣の部屋の窓が開く音がして、いつかのようにミーナの気配がした。その気配は動かず、ただじっとそこにあるだけで、煙草を一本吸い終わってもまだそのままだったから、どうしていいのか僕はわからず、仕方がないので二本目の煙草に火をつけたのだった。
「トータ、何連敗よ」
第一声がそれか。ため息と同時に肺の中の煙を吐き出し、答える。
「もう覚えてねえし、負け前提で話始めんなよ腹立つ」
すまんすまんという軽い謝罪の後、僅かな沈黙。
煙草のものとは異なる煙臭さを感じ、すぐに蚊取り線香の匂いだと気づく。ミーナのものか、それとも他の部屋のものかわからないが、あえて話題にするようなことでもないか。
「……トータはさ、いつも大事なとこで手を抜くでしょ」
それは、普段のミーナからは全く想像もつかない、聞き慣れない穏やかな声だった。
「わかるよ。勝ち負けが怖いんだ。だから大一番で勝負を諦めちゃう。……それが一番痛くないことだって、君は知ってんだ」
僕は答えない。
「永遠に勝ち続けられる人間なんていない。どんなにすげーバッターでも打率はせいぜい三割そこらで、打席に立てば七割は負けちまう。そんな恐ろしい世界だから、勝てば勝つほど負けるのが怖くなる。登れば登るほど落ちた時の痛みが大きいってことも、君は知ってる。……全力で戦ってぶっ飛ばされるより、諦めて自分から降りたほうが傷が浅く済むってことを、君は知ってる」
ミーナから見た僕は、だから負けが前提なのだろう。見られているわけでもないのに視線が泳いだ。反論したいと思い、思っただけで、僕は口をつぐむ。
「覚えてるよな、高三の夏。トータは三番バッターだった。私が推して、監督が決めた。わかるだろ? 打順の三は最高のバッターって意味だ。君は誰よりも強かったんだよ」
一息。
「けど、どんなに強くても勝負を降りたらそれは負けなんだ。だってそうだろ。あの頃私たちがやってたのも、今トータがやってるのも、負けたら終わりの競争だろ。だったらやっぱり、勝とうとしなきゃ駄目なんだよ。……駄目だったんだ。なあトータ」
そうして、ミーナは言った。
「あの時、君はどうせ勝てないって思ったんだ」
*
翌日は腹立たしいほどの晴天になった。
その日のカレンダーに登録された予定は一つもなく、だったらいっそ何もしないぞと固く心に誓った僕は朝から延々とスマートフォンのパズルゲームに打ち込み、それに飽きたらニュースアプリの最新記事を上から順に一つずつじっくりと読み、それにも飽きた頃にはもう時刻は午後一時を回っていて、昨夜と同じカップラーメンで昼食を済ませた後、とうとうやることがなくなり、ベランダに出て煙草を吸った。
河川敷からは賑やかな声が聞こえてくる。見れば、いつの間にかグラウンドでは例の草野球チームの試合が始まっている。
気にならないと言えば嘘になる。ほんの少しの後ろめたさを感じながら、僕はぼんやりとその試合を観戦し始めた。
と言っても、スコアボードは既に半分ほど埋まっている。今は五回裏で得点は三対一。ミーナのいるチームが二点差を追いかける攻撃側のようだ。
彼らのバッティングは相変わらずひどいものだが、ピッチャーを始め守備に関してはそこそこの実力を持っているらしい。おかげで点差はそこまで開いておらず、とは言え追加点は見込めそうにないというジリ貧の状況なのだろう。
スコアボードからバッターボックスに目をやると同時、大柄なバッターが大げさなバッティングフォームで豪快に空振りした。この打席はそれで三振だったようだ。小走りでベンチに戻った彼と入れ替わりにバッターボックスに入ったのは、昨日目にした青年だった。
一球目は空振りのストライク。二球目は一塁側に外れるファール。そのどちらも昨日と同じひどい姿勢で、それでも全力でバットを振っていることはよくわかる。だからこそ身体への負担が大きいのだ。彼は続く三球目のボール球を見逃した後、四球目を空振った。
どうやらそれがスリーアウトだったらしく、すぐさま慌ただしい攻守交代が始まる。ベンチから飛び出した選手の中、一際小柄なミーナの姿はすぐに見つけ出すことが出来た。彼女はレフトに向かって走りながら一瞬だけ目線を上げて僕の姿を確認し、小さく何かを呟いたように見えた。
陳腐な表現をしよう。彼らの野球は懸命だった。
守備においてはどんなボールにも全力で食らいついたし、攻撃においてはアウトが見え見えの内野ゴロであっても全力で一塁まで駆け抜け、運良く出塁したランナーは果敢に盗塁を狙った。それら様々なプレーに対して、ベンチからは常に熱い声援が飛ぶ。彼らの野球はお世辞にも上手いとは言えない。しかし、だからこそ実力以上の力を出そうと必死になるのだ。必死にならざるを得ないのだ、勝つためには。
『負けていい勝負なんてねーよ』
いつだったか、ミーナが言っていた言葉を思い出す。
彼らは弱い。弱いから、多分これまでたくさん負けてきたのだろうし、弱いから、懸命で、必死だ。何故なら、勝ちを諦めていないからだ。勝負を降りていないからだ。彼らは自分が弱いことを自覚しながら、弱く在ることに抗い続けているのだ。
いつの間にか燃え尽きていた煙草を咥えたまま、僕は思う。
それはもう、最高にかっこいい、強さじゃないのか。
煙草の吸殻を携帯灰皿にねじ込み、額に浮いた汗を拭って空を見上げる。
雲ひとつない晴天の空は抜けるような青色だ。あの日と同じ青。僕が勝つことを諦めた日の青。弱い自分を受け入れた日の青。勝負を降りた日の青。
飛んだはずのボールを見上げた、あの日の空は抜けるような青色だった。
嘘だ。本当は飛ぶわけないと思ってた。バットになんて当たりっこないってわかってた。もし当たったとして、それがホームランになったとして、続くバッターが九回裏ツーアウトから二点を取れる可能性なんてこれっぽっちも信じられなかった。もう十分頑張ったと思った。三回戦まで勝ち上がれただけでもよくやった方だと思った。これだけ頑張ったんだから、もう負けてもいいじゃないかと思った。
そんな、心の底で渦巻いている諦めの感情に蓋をするかのように、あの日の僕は出来るだけ幸せな未来を想像した。鮮やかなスリーランホームラン、五点差から始まるドラマティックな逆転劇。あまりに白々しいご都合主義。
そんな胡散臭い展開を真顔で信じられるほど、僕の頭は柔らかくない。
つまりはミーナの言う通り、僕はこう思っていたのだ。
この試合はどうせ勝てない。
*
そうだ、あの時僕は諦めたのだ。勝とうとすることを。戦うことを。
最後の大会だった。多分、最後の打席だった。それをわかっていて、わかっていながら、負けることを受け入れた。
あの日の僕は、弱かった。
なら、今はどうだ?
ミーナたちの試合は終盤戦に入っていた。
九回表、二死満塁から右中間を抜けるタイムリーヒットで点差は一気に広がり、六対一の大差でいよいよ九回裏、最後の攻撃が始まろうとしている。
バッターボックスに入った中年バッターは一球目を大きく空振りよろめいた。誰が見ても疲労を隠しきれていない。あっさり三振に終わり、続くバッターは例の青年だ。
僕は祈るような気持ちでその光景を見ていた。ただ身勝手に、彼らに勝ってほしいと願っていた。僕が勝てなかった分だけ、僕が諦めた分だけ、僕の代わりに勝ってほしいと。
ピッチャーが大きく振りかぶり、一球目を投げる。ぎこちないフォームでバットが振り抜かれ、キャッチャーミットが音を立てて白球をキャッチ。審判がストライクを宣言した。
その直後。
バッターの手からバットが転げ落ち、彼はその場にうずくまるようにして倒れこんでしまう。
「タイム! タイムだ!」
ベンチから叫ぶ声はミーナのものだ。
すぐに数人のチームメイトが駆け寄り、倒れ伏したバッターを介抱し始める。何が起きたのかはよくわからない。ただ、あのバッターがすぐに試合を続行できるような状況ではないことだけはわかった。何しろ立ち上がる気配がない。
その光景を、僕は見ていた。それは彼らの敗北が確定する一部始終だ。
あのチームには補欠がいない。つまり代打が使えない。野球においてプレー可能な選手が九人未満になった場合、通常はその時点で敗北となる。
だから、この試合はここで終わりだ。
どう足掻いても、もう勝てない。
「トータぁぁぁぁぁぁーーーーー!!!」
その時、声が響いた。
グラウンドからマンションのベランダまで一直線に届いたそれは、他ならぬミーナの声だ。
彼女は振り向き、まっすぐに僕を見上げている。
「来い! トータ!!」
それは確かに僕を呼ぶ声だった。まだ負けていない。まだ僕がいる。ミーナはきっとそう叫んでいた。
その時、世界の全てがまるでスローモーションのように僕の目には映り、ミーナの声に驚いて後ずさったチームメイトの足音も、マウンドから立ち上る土煙の一粒も、彼女の額に張り付いた髪の一本すら、はっきりとわかった。
そうして、その全てが驚く程に美しいと気付いた時、僕はもう走り出していた。
力任せに玄関を開け放ち、転がるような勢いで階段を駆け下りる。薄暗い廊下を走り抜け、ロビーを出ればグラウンドはもう目の前だ。
バックネットの向こうではようやく担架が到着し、チームメイトが倒れた選手を担ぎ上げようとしているところだった。
そして、その混乱を背にミーナだけがグラウンドの外を見ている。
不敵な笑みを浮かべながら、彼女は堂々と立っている。
わずかな距離とはいえ全力疾走を経た僕の呼吸は微かに乱れていて、足を止めると途端に額から汗が噴き出した。
「なあ、おい、勝てんのかよ、こっから。最終回で、五点差で、バッターぶっ倒れて、控えもいねえ。……こっからでも勝てんのか」
僕は訊ねる。
ミーナの答えなんてわかりきっていた。けれど、僕はそれを聞かなければいけないと思った。彼女の口から、そのオーダーを。
彼女は一度だけ足元を見てから腰に手をあてて苦笑し、それからはっきりと答える。
「もちろん。全力でやれば」
僕は頷く。
ミーナの肩越し、バックネットの向こうから担架に乗せられたバッターが運び出されてくる。どうやら腰を痛めたようで、そこまで深刻な怪我ではなさそうだ。
「代打、行こうぜ、トータ。まー大して難しくねーよ。何しろあいつら、この試合はどうせ勝てる って思ってるぜ」
言って、彼女はニヤリと笑う。
「そんなん、フラグだろ?」
*
五点ビハインドという絶望的な状況で試合再開となった九回裏、ワンナウト、ワンストライク。ランナー無し。打席に立つバッターは代打、
ふと、あの日のことを思い出す。夏の高校野球、県予選三回戦九回裏。今マウンドの上に立つ投手はあの頃戦った高校球児とは似ても似つかないけれど、だからこそわかる。僕もまた、あの頃のように力強い三番バッターなどではない。
けれどこの日、この打席、大きく右腕を振りかぶったピッチャーの投球フォームが、あの日と同じ精細さで僕の目に映り、彼の背後でゆらゆらと揺れる川面が波打った回数すら完璧に捉えられるように感じた。その右手指からボールが離れる瞬間まではっきりと僕は視認し、だから、僕のバットは誰が見ても完璧な角度と速度で振り抜かれた。
衝撃はなく、手応えもなかった。
真っ白なボールが、鮮やかな真夏の青空を切り裂くように飛んでいく。
スカイブルー・オーバーヘッド! 水瀬 @halcana
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