8
ザーッという音が外から聞こえる。おそらく雨が降り始めたのだろう。
そういえば、この夏休みで雨が降ったのは初めてだなあ。僕は何となく外の方を向いてそんなことを思う。
思えば、この夏休み中、僕はずっと紺野さんを追いかけていた。友達の遊びの誘いもいくつか断ったけど、それに後悔はない。
この夏休みで後悔があるとすれば、それは、僕がずっと、勇気を出して紺野さんに話しかけることができなかったことだ。
結果論だけど、もしも僕が紺野さんに話しかけてさえいれば、そして、少しでも話せる間柄にさえなっていれば、あの日―紺野さんがオナラをした日にも、軽いフォローなんかを入れることができたのかもしれない。
「あ、あの件についてなのですが。」
僕が紺野さんの真向かいに座ってから、数分。下を向いてもじもじしていた紺野さんは、何故か敬語で、そう切り出した。声には緊張した響きがある。
『あの件』というのは、もちろんオナラのことだと思われる。
「う、うん。」
僕は鼻をスンスンさせながら、コクリと頷く。
こうして紺野さんと相席して、わかったことがある。
紺野さん、めちゃくちゃいい匂いがする。
「・・・嗅いだよね。やっぱり。」
「え!?か、嗅いでないよ!?」
「え?」
「あ!オナラのこと!?」
「う、うん。」
『オナラ』という単語を放った僕に、紺野さんは顔を赤くさせながら頷く。その姿もやっぱり可愛い・・・じゃなくて。
ちょうど鼻をスンスンさせているときに『嗅いだよね』なんて言われたのでビックリしたけど、やっぱりというべきか、今日の紺野さんは僕に、あの件についての話をしに来たらしかった。
「水野くん、嗅いだんだよね・・・?」
紺野さんはもう一度、同じ内容を僕にたずねる。オナラをしたことは誤魔化せないと悟っているようで『オナラを嗅がれたかどうか』が紺野さんの関心ごとのようだ。
さて。ここが僕の正念場だ。紺野さんが傷つかないように、対応しなくては。
僕はそう思いながらも、
「嗅いだというか、届いてきたというか・・・。」
ここは正直にそう言った。
何せ遅れて来たマスターすら気づく臭いだったのだ。僕がここで嘘をついてもバレバレだもの。
「・・・やっぱり、そうだよねえ。」
僕の言葉に紺野さんはと、がっくりとうなだれて言って。
「すごく臭かったもんねえ。」
と、何かを諦めたように、しみじみと続けた。
きっとそのことについて、この数日間いろいろと考えていたんだろう。そう言う紺野さんには、顔を赤くさせながらも、どこか達観した雰囲気があった。
「・・・・・・。」
「・・・・・・。」
紺野さんが口を閉じて、また店内には静寂が返ってくる。
さて、このいたたまれない雰囲気をどうにかしないといけないわけだが。
でも、どういう言葉をかければフォローになるんだろう?
『大丈夫だよ、紺野さん。オナラなんて誰でもするよ。』
『オナラを表現する英語のスラングは少なくとも261通りあるらしいし、それくらい一般的なことなんだよ。』
今となっては、これはちょっと違う気がする。だって今の紺野さんはオナラの臭いの方を気にしているのだし。
『紺野さんのオナラ、全然臭くなかったよ?』
これもダメだ。だってマスターがうんこみたいな臭いだと言ってしまったし。
僕は雨の音を聞きながら、頭をフル回転させ、紺野さんにかけるべき言葉を考える。
でも、どうにも思い浮かばない。
いっそ、僕もオナラを放ってしまおうか。そうすれば、とりあえず、紺野さんと僕はイーブンな状態に持ち込めるかもしれない。
ああ、でも。その放ったオナラがものすごく臭いものじゃないとダメか。あんなに臭いオナラを僕に放てるだろうか。いや、できる、できないじゃない。やるんだ。
僕がそんなことを思いながら、お尻に力を入れていた、その時のことだ。
急に紺野さんは僕の目を真剣に見つめて、ペコリと頭を下げて言ったのだ。
「ごめんね、水野くん。嫌な気持ちにさせちゃって。」
「・・・え?何が?」
僕は何のことかわからず、呆けて返す。
そんな僕に紺野さんは続けて言った。
「オナラ、臭くて、嫌だったでしょ?ずっと謝らないとって、思ってたんだけど、恥ずかしくて、なかなか・・・勇気が出なくて。わたし、あんなに恥ずかしかったの、生まれて初めてで。どうしていいかわからなくて、逃げちゃった。」
と、もじもじしながらぼそりと言う紺野さん。
「本当にごめんね、水野くん。」
僕は紺野さんの言葉に呆気に取られる。
「・・・もしかして、紺野さんって今日、僕に謝りに来たの?」
「う、うん。」
「・・・じゃあ、今日はそのために・・・僕に謝るために、ここに来たの?」
「う、うん。もう遅いかな・・・って思ったけど、い、一応・・・。」
顔を赤らめて、頷く紺野さん。
そんな紺野さんの様子に、言葉に。僕の心が温かくなる。
まさか、謝られるとは思ってなかった。紺野さんは間違いなく恥ずかしがり屋さんだ。それなのに、自分の恥ずかしさよりも、僕を不快にさせたことで思い悩んでいたとは。
なんて、思いやりがある子なんだ、紺野さんは。
この、表現し難い気持ちはなんだろう。
気にしてないって伝えたい。全然、嫌じゃなかったって伝えたい。好きって言いたい。紺野さんの全てを肯定したい、そんな気持ち。
「・・・じゃあ、わたし、今日は帰るね。本当にごめんね、水野くん。」
そう言って、用は済んだとばかりに立ち上がり、トボトボとカウンターへ向かう紺野さん。その後ろ姿はオナラをしたあの日のように元気がなかった。
ダメだ。このままじゃ帰らせちゃダメだ。
だって今日も僕は結局、紺野さんに何も伝えてない。
とりあえず、オナラを放ってイーブンに。そう思ってお尻に力を入れてみるものの、出る気配が全くない。
とりあえず何か言葉をかけないと。僕はそう思って。
「あの、紺野さん!僕、紺野さんのオナラ!全然、嫌じゃなかったから!むしろ紺野さんのこと、好きになったっていうか!」
紺野さんの後ろ姿に向けて、いつの間にかそんなことを口走っていた。
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