ザーッという音が外から聞こえる。おそらく雨が降り始めたのだろう。


 そういえば、この夏休みで雨が降ったのは初めてだなあ。僕は何となく外の方を向いてそんなことを思う。


 思えば、この夏休み中、僕はずっと紺野さんを追いかけていた。友達の遊びの誘いもいくつか断ったけど、それに後悔はない。


 この夏休みで後悔があるとすれば、それは、僕がずっと、勇気を出して紺野さんに話しかけることができなかったことだ。


 結果論だけど、もしも僕が紺野さんに話しかけてさえいれば、そして、少しでも話せる間柄にさえなっていれば、あの日―紺野さんがオナラをした日にも、軽いフォローなんかを入れることができたのかもしれない。


「あ、あの件についてなのですが。」


 僕が紺野さんの真向かいに座ってから、数分。下を向いてもじもじしていた紺野さんは、何故か敬語で、そう切り出した。声には緊張した響きがある。


『あの件』というのは、もちろんオナラのことだと思われる。


「う、うん。」


 僕は鼻をスンスンさせながら、コクリと頷く。


 こうして紺野さんと相席して、わかったことがある。


 紺野さん、めちゃくちゃいい匂いがする。


「・・・嗅いだよね。やっぱり。」


「え!?か、嗅いでないよ!?」


「え?」


「あ!オナラのこと!?」


「う、うん。」


『オナラ』という単語を放った僕に、紺野さんは顔を赤くさせながら頷く。その姿もやっぱり可愛い・・・じゃなくて。


 ちょうど鼻をスンスンさせているときに『嗅いだよね』なんて言われたのでビックリしたけど、やっぱりというべきか、今日の紺野さんは僕に、あの件についての話をしに来たらしかった。


「水野くん、嗅いだんだよね・・・?」


 紺野さんはもう一度、同じ内容を僕にたずねる。オナラをしたことは誤魔化せないと悟っているようで『オナラを嗅がれたかどうか』が紺野さんの関心ごとのようだ。


 さて。ここが僕の正念場だ。紺野さんが傷つかないように、対応しなくては。


 僕はそう思いながらも、


「嗅いだというか、届いてきたというか・・・。」


 ここは正直にそう言った。


 何せ遅れて来たマスターすら気づく臭いだったのだ。僕がここで嘘をついてもバレバレだもの。


「・・・やっぱり、そうだよねえ。」


 僕の言葉に紺野さんはと、がっくりとうなだれて言って。


「すごく臭かったもんねえ。」


 と、何かを諦めたように、しみじみと続けた。


 きっとそのことについて、この数日間いろいろと考えていたんだろう。そう言う紺野さんには、顔を赤くさせながらも、どこか達観した雰囲気があった。


「・・・・・・。」


「・・・・・・。」


 紺野さんが口を閉じて、また店内には静寂が返ってくる。


 さて、このいたたまれない雰囲気をどうにかしないといけないわけだが。


 でも、どういう言葉をかければフォローになるんだろう?


『大丈夫だよ、紺野さん。オナラなんて誰でもするよ。』


『オナラを表現する英語のスラングは少なくとも261通りあるらしいし、それくらい一般的なことなんだよ。』


 今となっては、これはちょっと違う気がする。だって今の紺野さんはオナラの臭いの方を気にしているのだし。


『紺野さんのオナラ、全然臭くなかったよ?』


 これもダメだ。だってマスターがうんこみたいな臭いだと言ってしまったし。


 僕は雨の音を聞きながら、頭をフル回転させ、紺野さんにかけるべき言葉を考える。


 でも、どうにも思い浮かばない。


 いっそ、僕もオナラを放ってしまおうか。そうすれば、とりあえず、紺野さんと僕はイーブンな状態に持ち込めるかもしれない。


 ああ、でも。その放ったオナラがものすごく臭いものじゃないとダメか。あんなに臭いオナラを僕に放てるだろうか。いや、できる、できないじゃない。やるんだ。


 僕がそんなことを思いながら、お尻に力を入れていた、その時のことだ。


 急に紺野さんは僕の目を真剣に見つめて、ペコリと頭を下げて言ったのだ。


「ごめんね、水野くん。嫌な気持ちにさせちゃって。」


「・・・え?何が?」


 僕は何のことかわからず、呆けて返す。


 そんな僕に紺野さんは続けて言った。


「オナラ、臭くて、嫌だったでしょ?ずっと謝らないとって、思ってたんだけど、恥ずかしくて、なかなか・・・勇気が出なくて。わたし、あんなに恥ずかしかったの、生まれて初めてで。どうしていいかわからなくて、逃げちゃった。」


 と、もじもじしながらぼそりと言う紺野さん。


「本当にごめんね、水野くん。」


 僕は紺野さんの言葉に呆気に取られる。


「・・・もしかして、紺野さんって今日、僕に謝りに来たの?」


「う、うん。」


「・・・じゃあ、今日はそのために・・・僕に謝るために、ここに来たの?」


「う、うん。もう遅いかな・・・って思ったけど、い、一応・・・。」


 顔を赤らめて、頷く紺野さん。


 そんな紺野さんの様子に、言葉に。僕の心が温かくなる。


 まさか、謝られるとは思ってなかった。紺野さんは間違いなく恥ずかしがり屋さんだ。それなのに、自分の恥ずかしさよりも、僕を不快にさせたことで思い悩んでいたとは。


 なんて、思いやりがある子なんだ、紺野さんは。


 この、表現し難い気持ちはなんだろう。


 気にしてないって伝えたい。全然、嫌じゃなかったって伝えたい。好きって言いたい。紺野さんの全てを肯定したい、そんな気持ち。


「・・・じゃあ、わたし、今日は帰るね。本当にごめんね、水野くん。」


 そう言って、用は済んだとばかりに立ち上がり、トボトボとカウンターへ向かう紺野さん。その後ろ姿はオナラをしたあの日のように元気がなかった。


 ダメだ。このままじゃ帰らせちゃダメだ。


 だって今日も僕は結局、紺野さんに何も伝えてない。


 とりあえず、オナラを放ってイーブンに。そう思ってお尻に力を入れてみるものの、出る気配が全くない。


 とりあえず何か言葉をかけないと。僕はそう思って。


「あの、紺野さん!僕、紺野さんのオナラ!全然、嫌じゃなかったから!むしろ紺野さんのこと、好きになったっていうか!」


 紺野さんの後ろ姿に向けて、いつの間にかそんなことを口走っていた。

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