「じゃあ、僕は奥にいるから、注文があったら呼んでね。」


 そんなことを言い残し、いつものようにマスターが、奥へと引っ込んで行った。


 親しみのある静寂が店内に訪れて、そして僕の視界には今、待ちに待った紺野さんの姿が収まっている。


「・・・・・・。」


「・・・・・・。」


 さて、どうしよう。


 僕がチラリと紺野さんの姿を窺うと、紺野さんと目が合った。


 その途端、目線を逸らす紺野さん。


 無言のコミュニケーション。4日前の続きとばかりに、今、僕と紺野さんの間には妙な緊張感があった。


 今日の紺野さんは明らかに僕を意識している。


 ドアの前でも僕の名前を呼んでいたし、何よりも、今日の紺野さんは本を持って来ていなかった。つまり今日の紺野さんは本を読みにきたわけではなく、僕に用があって来たんだと思われる。


 もちろん、僕の方にも紺野さんに用がある。紺野さんに『オナラなんて気にしなくていいよ』と、伝えたい。トラウマになる前にその傷を塞いであげたい。


 本来は『どんな本が好きなの?』とか、『普段何してるの?』とか、『家ってこのあたりなの?』なんていう話をしたかったんだけど、今の空気だと、それどころではないのだ。


 だがしかし。


 冷静に考えると、紺野さんがオナラをしてから実に4日間が経過している今、オナラのことを蒸し返すのもどうなんだろうか?


 むしろ何もなかったかのように接する方が、紺野さんのためになるんじゃないだろうか?


 紺野さんがオナラを繰り出した、まさにあの瞬間は、なかったことにすることなど不可能だった。しかし4日経過した今は、臭いなど微塵も残っていないわけで、夏が見せた陽炎、白昼夢のようなものだったことにも、出来なくはない。


 全てなかったことにする。


 何よりもそれが、僕から離れたところに座った紺野さんの意思なんじゃないだろうか?


 僕はそんな風に思い、今一度、紺野さんの様子を窺った。


 すると。


 紺野さんが謎の行動を繰り返していた。


 腰を上げ、そして何やら僕の方をチラリと窺い、そして座り直す。


 そしてもう一度、腰を上げ、チラリと僕のことを窺い、また座り直す・・・そんなことを繰り返していたのだ。


 その挙動不審な態度に僕は戦慄した。


 まさか紺野さん、またオナラをする気なんじゃ・・・。


 しかし今の紺野さんには、あのときにあった、いかにも何かを我慢していそうな感じはないし、あの妙に色っぽい声も出してない。


 でも、オナラでないとすると、あの不思議な行動は一体なんだろう?


 僕の方を窺いつつの行動だから、たぶん、僕に関係があることなんだろうけど。


 僕は紺野さんの奇行を観察しながら一生懸命に考えて。


 そして思い至った。


 そういえば、僕もずっと、あんなことを繰り返していたっけ。


 席を立ちあがり、相手を窺い、座り直すという、あの謎の行動。


 あれは、そう。紺野さんはきっと、僕に話しかけようとしているのだ。


『だったらなんで、そんな遠いところに座ったの?』と思うけれど、僕たちはなんだかんだで、もう三週間くらいはこの距離感をキープしてきたのだ。今さら近くに座るのは、何か躊躇いがあるのもわかる。


 僕なんて、この夏休みの間中、ずっともじもじし続けていたわけだし。


 ならばここは、僕が紺野さんの近くに行くべきか。


 そう思い僕は立ち上がる。


 でも、勘違いな可能性も、あるにはあるんだよね。


 そう思って、チラリと紺野さんを窺う。


 すると、紺野さんは立ち上がった僕をじーっと凝視したまま。


 こくり、と頷いた。


 僕は強く紺野さんに頷き返し。


 そしてついに。


 僕と紺野さんの同席が成立したのだった。

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