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「じゃあ水野くん。僕は奥にいるから。用があったら呼んでね。」
マスターは僕にアイスティーを差し出してそう言うと、いつものように奥のゲーム部屋へと引っ込んでいったので、店内には僕と紺野さんしかいない。
夏休みも半分ほどが過ぎ、8月17日。
今日も雲ひとつない青空が外には広がっていて、ドアに付いている明かりとりの窓からは、青白い光が薄暗い店内へと差し込んでいる。
僕も紺野さんも、夏休みの間中、毎日欠かすことなく喫茶店『ベーグル』に通い続けている。
マスターには『せっかくの夏休みを毎日喫茶店で過ごしてていいの?』なんて言われたりしたけれど、紺野さんの本を読む姿を見るよりも価値のある時間の使い方なんて、今の僕には全く思いつかない。
そんなわけで、静寂に包まれた空間で紺野さんがページをめくる音を聞きながら、今日も僕はアイスティーを飲んでいる。こんなことに幸せを感じるなんて、恋ってすごい。
紺野さんが楽しそうに読んでる本のタイトルを盗み見ると『テントウムシ』と書かれいて、僕はそのタイトルにハッとした。
その本は以前に紺野さんが読んでいた『死神の温度』という小説と同じ作者の小説で、僕がこの一週間の間で読んだ本のひとつだったのだ。
僕はこの『死神の温度』という小説がとても気に入ってしまって、同じ作者の小説を漁るように読み耽る一週間を過ごしてきたのだ。
これは話しかける千載一遇のチャンスかもしれない。今こそ。今こそ話しかけよう。
そう思って腰を上げる。
ああ、でも。読書の邪魔をするのって、紺野さん的にはどうなんだろう?やっぱり嫌だよね、たぶん。
そう思って座り直す。
そんなことを何度か繰り返し、そして僕は結局、いつものように何をすることもなく、ただ紺野さんの可愛いらしい横顔をチラチラと窺い続けるのであった。
まあこんな時間だけでも十分、幸せなんだけれど。でも毎日、一言だけでも。例えば『おはよう』とか『また明日』とか。そんな会話が出来たらどんなにいいだろう。
まるで乙女のように、僕が悶々とそんなことを考えている間にも幸せな時間は過ぎていき、気がつけば差し込む光が橙色に変化していた。
ああ、結局、今日も何事もなかったな。
僕がそんな風に思ったときのことだ。
「あ・・・んぅ。」
読書に集中していたはずの紺野さんが急に艶やかな声を上げた。
思わずどきりとした。なんだろう。今の色っぽい声は。
横目で窺うと、声を出した紺野さんは本を閉じて、なにやらそわそわしていた。
席を立とうとしたのか、一度腰を浮かせたが、もう一度席に座りなおした。本を閉じて、遠くの方を見つめて、何かに耐えているように見える。
「あ・・・うぅん。」
そしてまた、妙に色っぽい声を出した。よく見ると額には脂汗が浮かんでいて、紺野さんはいかにも具合が悪そうだった。
どうしたんだろう?具合でも悪いのかな?でもこれ、もしかしたら話しかけるチャンスなんじゃ・・・?そうだ。今こそ話しかけよう。というか、普通に心配だもの。
そう思って、僕がついに覚悟を決めて立ち上がりかけたとき、僕と紺野さんの関係を塗り替える事件は起きた。
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