草を掻き分けて、走る。

 午前中に降り続いていた雨の名残か、草についた露が制服を濡らしても俺は構わずに走り続けた。覆い被さるような葉を透かして、紫の夕焼けが滲んでいる。輪郭を持たない雲は薄帛の緞帳のように地上のぎりぎりまで垂れ、落葉松の頂に掛かる頃には紫を帯びた霧となって森の風景を霞ませていた。


 昨日は笑っていた。一緒に、他愛のないことを語らって。

 最後まで笑っていた。


 最後まで。

 尋ねることができなかった。

 

「月が替わっても、まだここにいるのか」

「あんたがいう夏はいつまでなんだ」

「俺はまだここにいてもいいのか」


 この場所は。

 この時は。

 このなまえもない関係は。

 この夏は。


「終わるのか」


 青い夜が明けたら。

 青い月を跨いだら。


「終わっていくのか」



 尋ねられるはずが、なかった。

 それを尋ねたら、崩れてしまうとわかっていた。



 月が替わった。

 ただそれだけのことが、これほどまでに胸を焼いたことはない。

 例年ならば、せいぜい終わっていない宿題に手を焼く程度のことだった。それは、怒られはしても取りかえしのつくことだ。けれどいま、取りかえしのつかないものを失いかけている。それだけは確かだった。

 始業式なんて放りだしてくればよかった。いまさら後悔しても遅い。


 走り続け、ようやっと鯨の亡骸のような、あの工場跡が見えてきた。

 剥きだしの鉄骨からは、いまだにほたほたと雨垂れが群れをなして落ち続けている。それが蔦の葉を揺する。濡れた葉の簾をくぐり抜けて、俺は鉄と緑のなかに飛びこんだ。


 いつのまにか見慣れた人影はなく――――

 絵画だけが、樹木の下に飾られていた。


 見たことのない絵画だった。

 横長の、俺が両腕を広げても足りないほどに大きな画布カンバスに青の世界。近寄れば、海かと想われたそれが森だったのだとわかる。彼が夜ごとに描き続けていたものはこれだったのか。

 碧い森。瑠璃の青さが、目に浸みた。

 森は静まりかえっている。霧が森の稜線を曖昧に暈す。天地の境はない。生を歓ぶほどに若くはない夏の葉が、ひたすらに黙していた。時がそれでも移ろってしまうことを忘れようと試みているのを感じた。留まれぬならば、せめてただ無意味に朽ちていきたいとする抗いが、あまりにも静かなその渕には澱をなしていた。水底に身を横たえれば、逃れられるなんてそんなはずはないのに。

 森は沈んでいる。

 森は黙っている。


「鯨が」


 俺は絵の前によろよろと歩み寄る。


 碧い森には鯨がいた。

 一頭ではない。白鯨と、黒い鯨だ。二頭の鯨は互いにつかず離れずのところを穏やかに泳いでいた。碧い森を回遊する鯨。歌っているのか。啼いているのか。これまでとは違い、鯨は楽に呼吸をしている。

 

 けれど気がついてしまった。


 鯨は森を離れようとしている。

 森の外にも鯨の歌を愛するものはいるのか。鯨は歌えるのか。


「なあ」

 

 鯨は。それでも歌うだろう。

 歌えてしまうのだろう。肺で呼吸をするいきものだから。けれどそれは楽なことではない。鯨の声は陸では響かないのだ。意味のない歌は歌えない。もう二度と。


 俺は画布カンバスの表に触れて、まだ微かに濡れているような絵の具の感触に縋りついた。あんたの夏はいつまでだったんだ。尋ねる声は喉で潰れる。言葉になったところで誰が答えるというのか、この夢の終わった後の場所で。

 膝をついて崩れ落ちる。


 震える背をまるめて、俺はただ、絵が朽ちる時を想った。

 季節に曝されて、絵は段々と色褪せていくだろう。雨に穿たれた裏地からは、血が滲むように黒いしみが拡がり、赤い都会も緑の湖も紺碧の森もすべてが緩やかに侵食される。絵の具の鯨は鱗のように剥がれ、苔か、あるいは雪に埋もれて朽ちるに違いない。春まではもたない。まして来年の夏なんて。

 これらの絵は、誰の視線にも誰の思考にも侵害されることなく、なにひとつの意味もつけられることなく、この赤錆びた鯨の骨格のなかで滅びていくのだ。それはとても幸いだ。確かにそれは、幸いだ。

 なぜならばその終わりはひどく、美しい。


「……っふ……」


 喉からひとつ、あぶくのように呼吸が洩れた。

 塩辛い涙が、頬から顎まで垂れる。

  

 夏の終わった空をふり仰いで。

 俺はひとり。



 声もあげずに、ないた。

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鯨の骨が朽ちるまで 夢見里 龍 @yumeariki

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