Ⅳ
久し振りに構えたヴァイオリンは変わらず、指に馴染んだ。革袋に収めて抱えてきた時にはこんなに重かっただろうかと首を傾げたが、構えてみれば程よい重さがずんと肩に掛かり、音楽が頭のなかを廻りだす。
目を閉じ、頭を傾けて、ヴァイオリンを支える。
棹をしっかりと握り、弓を弦に乗せると、いんと弦が震えた。
鼓動が跳ねる。
弾けるのか。と誰かが囁いてきた。啼くんじゃないのか。
目蓋を持ちあげれば、色素の薄い瞳と視線が絡む。彼が頷く。意味のない絵画を描く、鯨のような彼。彼はじっと、聴いている。
俺の弦が震えるのを待っている。
音を奏でることを意識して、ひとつ、弦を鳴らす。
びいいいと強張った音が、静寂を裂いた。啼いてはいない。けれど音が硬すぎる。燕の嘴を抓んで囀れとうながすような、あるいは鯨を陸にあげて歌わせているような、ひどい響きだ。弦を握り締める指が震える。押さえつける癖がついているのだとがく然となる。
啼くこともできないヴァイオリンは押し殺した嗚咽ばかりを零す。
「違うな」
そういったのは彼だった。
穏やかに首を横に振る。
「僕は、君の音が、聴きたいんだよ」
それは君の音じゃないだろう。
弓を構え、弦を指で押さえたままで数秒、呼吸をとめる。目を閉じる。
彼は俺を待ってくれている。ヴァイオリンもまた、俺が昔みたいに音楽に寄り添う時を待ち続けているのだと思った。弓の構えを解いて、木製の、つるりとなめらかな楽器の表板をなぜる。鯨の肌みたいな手触りに熟れない果実のようなかたち。本格的な羊の弦ではなく、金属の弦が張られた指板。
俺の相棒。
啼いてもいいんだと、俺は語りかける。
思う存分啼けばいい。母親が我が子に言い聞かせるように、俺は相棒たる楽器に囁いた。
ふたたびに弓を添える。
鎖骨に乗せたその重みを愛おしむように、俺は四弦を弾き始めた。
影が差すように。
音が、産まれた。
柔い鉄の響きが、波紋のように拡がる。
呼吸するように身体ごと傾けて、ゆったりと弦を奏でた。歯車の檻からなにか輪郭の曖昧なものが逃げだして、緑の繁茂する廃墟を回遊する。
枝葉が揺れる。鉄骨が震える。さわさわと梢の噪ぐ潮騒が、弦の旋律に悲しく寄り添った。鉄骨と壁から剥きだしになった鉄筋が音を砕き、ゆがめて、反響させる。氾濫する寂莫の音は肌に浸み、骨を痺れさせた。
音はとうとうと流れ、苔むして硝子の散乱した地をしとどに濡らす。
前触れもなく、弦が撥ねた。
鉄を裂くような、高音域の音波が爆ぜる。
ああ、やっぱり。
啼いた。
けれどそれは、指導者の叱責と重なるようにじりと記憶に焼きついているものほどには、耳障りな絶叫ではなかった。異質であることに違いはない。だが急に劈いてなお、旋律の流れそのものを壊すことなく、ただ感極まるように弦は啼く。
指も腕もなめらかに動き続ける。啼くならば、もっと啼けばいいと。
弦の激情を指の腹が吸いあげる。獣の、目を覚まさせるように。
俺も目蓋をあげた。
視界に拡がる、朽ちた人工物。誰にも顧みられることのない、されど確かに人間が造りあげた文明の残骸。雨風に叩かれ続けた鉄はなにも語らない。ぽつぽつとならべられた絵画の群とあわさると、ひとつの悪夢のように美しかった。
繁る緑。夏という季節に根を張り、殷盛を極める植物は鉄をも易く侵す。崩れかけた壁には複数の罅があり、そのすきまにさえ雑草が繁っていた。養分も碌に取れないであろう環境でも、草は青い。苔と草と樹木の織りなす緑の明暗が、風が吹き抜けるごとに柔らかく呼吸する。
まばらに差す光の筋が、地に残留する錆と埃を吸いあげていく。それらは枝葉の天蓋に濾過され、細かな光になり揺らめく影になり、ふたりの頭上に降りそそいでいた。まるで泡沫。だとすればここは海の底なのか。
響き渡る演奏は、水の膜を透しているように遠い。それでいて、憂いを帯びた音響はいんいんと骨を震わせ、あまい痺れを残す。重い、水の響き。人間の身体は水で出来ている。俺と彼の身体にはいま、音楽が流れている。
ああ、音を。意味のない音を。
満ち潮のように音が飽和する。
時に激しく、時に穏やかに。
最後にしめやかな音の波を残して、演奏が終わる。
弓をおろして、俺は空を振り仰いだ。満ち足りた心地だった。
拍手も喝采もなく。
「綺麗だった」
言葉をもって、賛美される。
彼は余韻をかみ締めるように一拍沈黙を挿んでから、もう一度口を開いた。
「鯨の声みたいだ」
「鯨……あんたの絵のか」
俺は驚いて、絵画に描かれた鯨に視線を移す。どの鯨も息も絶え絶えで、それでも嘆きも恨みもせず、静かに死の到来を待ち続けている。その鯨の、声。陸にあがった鯨の。
「そう、鯨だよ。誰にも聴こえないはずの25ヘルツの鯨の歌がいま、君の演奏を透して、聴こえたと思った。そんな音だった」
「そう、か。それは、うん、嬉しいな」
それは、きっと無意味なものだ。
陸に響かせるには、いや海であってもきっと、なにひとつの意味もないもの。それが、俺は嬉しい。例えば金糸雀のようだと言われたら、あるいは優雅な、清らかな、そんな演奏だと言われたら、俺はきっと落胆しただろう。けれど鯨。
「鯨か」
頷いて、彼は優しく瞳を細める。石膏で象られたような頬が、微かに持ちあげられた。整いすぎた貌が緩む時、さほど深くはないが口の端にえくぼができる。その僅かな隙が、彼をどうしようもなく孤独にみせる。
鯨はあんただろうと言いたくなる。
だが、ここにいるかぎり、俺もまたそうであることは否定できない。彼もまた、俺のどこかに、例えばなんでもないような癖の端々に、どうしようもない孤独を感じ取っているに違いなかった。
俺から彼に、言えることはひとつもない。彼もまた、俺になにかを尋ねることはしないだろう。それは、暗黙の約束ごとなのだから。
ただ言葉がなくとも、理解しあえるものは、確かにある。
確かにあると、思いたかった。
ふと息を抜き、ヴァイオリンを瓦礫に立て掛けた。
久し振りの演奏を終え、相棒は静かに眠りにつく。俺もまた穏やかな疲労を感じ、硝子の散乱していないところに腰をおろす。柔らかな苔の絨毯に背を預けるように寝転がった。視界には青。雲ひとつない夏の青さは鯨が泳ぐのにふさわしい。彼は隣にやってきて、俺とおなじように身を横たえる。ほんとうに座礁した鯨にでもなったみたいだ。
「夏ももうすぐ終わりだね」
彼が言った。
どくりと胸が騒めく。
「まだもうちょっと暑さは続くだろ」
曖昧に答えて、視線を逸らす。
ほんとうは知っていた。
気がつけば、八月も下旬に差し掛かっていた。蝉は段々と衰え、舗道に蝉の死骸が転がっていることも増えてきた。ちからなく肢をまるめて静まりかえる蝉の静寂を見掛ける度、胸が締まる。月が替わるまで残り一週間。小学生の頃ならば、夏休みの宿題が終わっていないことに気がつきながらもずるずると怠けていたくらいの。
彼の決めた夏がいつまでを指すのかはわからないが、さほど長くはない。
絵は増え続けていた。崩れた瓦礫の頂、かろうじて割れていない窓枠の片隅、晴れた日には光が差す抜けた天井の真下、羊歯の生い繁る草叢、割れ硝子が散乱する窓際――その数、二十四枚。
「あと一枚だ」
寝返りを打ち、背を向けた彼がぽつりと零す。
「一番大きな絵画になる。はじめに描き始めたのが、実はその絵だった。他の絵と同時に描き続けていたんだ」
「気がつかなかったな」
「夜に描いていたからね」
「夜もこんなところにいたのか」
確かに、彼が帰るところは見たことがなかった。
夜の廃墟は昼とはまた違った様相だろう。俺も夕方から晩に差し掛かるくらいまでは滞在していたが、さすがに森が暗闇に落ちてなお、廃墟に留まるのは難しかった。彼は夜のあいだにその絵画を描き続け、いつ、描き終わるのだろうか。
夏は終わる。どれほど惜しんでも。
時が流れ続けることは、この廃墟の有り様がなによりも雄弁に語っている。
俺たちには。
その不安定さに縋り続けた俺が、どうしていまさら、その事実を悲しめるというのだろうか。悲しいと思ってしまうことがただ、ひたすらに悲しかった。
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