「社会の歯車って言葉を知っているかい」


 前触れもなく、彼がそんなことを言いだす。いや、彼の言葉に前置きとか脈絡があった試しがない。


「あんた、俺のことを馬鹿だと思ってないか?」

「そんなつもりはなかったのだけれど……気に障ったのなら、謝るよ」

「いや、実はいうほど気にしてない」


 あれから俺は幾度となくこの工場跡を訪れ、彼はかならずそこにいた。繁る枝葉と錆びた鉄にかこまれて、彼は絵を描き続けていた。知らずに打ち解け、夏も中頃に差し掛かるいまでは、こんなふうに気兼ねなくたわむれられるほどにまでなっていた。彼の散漫な会話にも慣れていたし、適度な沈黙にも気まずさを感じることはない。俺は文庫本を片手に、彼は画筆を握って、無意味な時を過ごす。


「社会の歯車と言えば、否定的に受け取られがちだ。けれど人の本能は、常に歯車であろうと働き続けている。人は役割に準じることでみずからの価値を認識する。ふだをつけられることで満たされ、ふだをつけることに安堵する」


 そう語る彼にも、それに頷く俺にも、等しくふだはついている。

 

「歯車ではない人間なんてどこにいるというのだろうね。どんな落伍者であっても、ふだはつくものだ。社会の役には立たずとも。命があって、社会に管理されている段階で歯車であることに違いはない。逆に言えば、どんな偉人だろうとしょせんは歴史の歯車にすぎないんだよ。クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸を発見しなくても、やがては他の誰かがその偉業を遂げただろう。ビートルズがいなくとも、いつかはそれにかわるロックバンドが現れた。もちろん、ヘイ・ジュードやレット・イット・ビーが歌われることはなかっただろうが」


「前者はともかく、後者はファンからすれば、かわりが利かないんじゃないのか。ビートルズの不在は音楽界においては大きな損失だろう」


 俺が嘴を挿むと、彼はこまったように髪をかきまぜた。


「ああ、そうじゃないんだ。僕のいっている、かわりがないというのは前提からの話だ。はじめからビートルズがいなければ、その喪失を嘆くものはいない。ヘイ・ジュードの旋律を恋しがるものもいない。そういう話なんだ」


 目のない深海魚が、視界というものの欠落を嘆くはずもないように。喪失は、存在があってはじめてに喪失たりうる。


「考える歯車か、考えない歯車か。違いがあっても、その程度のものだ」


 喋りながらも画筆を握る指は細かく動き続けている。青に、紫に、緑に、筆の先端が移ろう。透明な硝子瓶に満たされた水に画筆をつけると、ぶわっと彩が拡がり、雑ざり、渦を巻く。雑ざりすぎた絵の具は黒になる。それが俺には納得がいかない。これだけ綺麗な絵の具が、なぜどす黒く変わり果てるのか。


「僕らは、ふだの提げられた歯車のなかにいるんだよ。廻り続ける。一生を掛けて。死に絶えるまで廻り続ける。そのことに意味なんて言葉を宛がえてみせる、人生の意味だなんて綺麗な言葉を。嘆くべきは、その歯車のなかにいるのが僕じゃなくても、君じゃなくても、構わないということだろうか。いや、違う。嘆くべきことなんてほんとうはないんだよ。なにひとつ、ないんだ」


 青黒い汚濁に紫が落される。黒が濃くなる。


「だから僕は、嘆くことすらないことを、ひたすらに嘆いている」


 鯨の声が、茫漠と響く。

 いまにも崩れ落ちてきそうな鉄骨が、いんいんと震える。蔦の根がかろうじて、鉄骨が地に落ちることをふせいでいる。だが、赤錆の孔に喰いこんだ根は、いつそれを喰いちぎってもおかしくはない。

 ぱらぱらと散る錆のかけらに睫毛をふせて、俺は曖昧な言葉をかえす。


「存在しないものの喪失がありえないのなら、意味なんてなかったことに気がつきさえしなければ、その虚無に憂うこともなかったのか……」


 俺の声は響かない。苔むした地に転がって、鉄に吸い込まれる。

 それでも彼は俺の声を拾いあげる。


「意味というものの無意味さを。他人からつけられた価値の無価値さを。認識しながら、僕らは生きていくことができる。わかってしまったら、おしまいだと君はいったけれどね。そんなことぐらいで終われるほどに、人生は優しくはないんだよ」


 細い指がいったん画筆を置き、木製のパレットに絵の具を絞る。

 彼の手は青ざめている。筋張った指の関節は鯨の骨格標本を想わせた。

 鯨の骨格標本は、子供の頃に博物館で観たことがある。頭部や胴体は恐竜に似ていて、それなのに鰭の骨格は人の指の骨と大差がなかった。綺麗に接がれた幾つもの細かな骨をみて、幼かった俺ははじめて鯨が魚ではなく哺乳類だということを理解したのだった。

 痩せた彼の指は、もしかすると鰭だったのかもしれないと、時々に思う。平らな画筆を振るっている時などはよけいに。

 こんなに綺麗な手なのに、指のあちらこちらには筆胼胝たこがある。親指のつけ根、人差し指、薬指にも。その硬い突起物の微かな赤みが、生を証明している。彼もまた生きものなのだと、教えている。


「意味がないことでも、続けていくことはできるんだ。悲しいことにね」


 彼の手掛ける風景にまたひとつ、色彩が増える。紫に染められた雲のあいまから一筋の赤。いま彼が描いているのは夕暮れの摩天楼だった。無機質なタワーの先端部につき刺さった鯨は、ぐったりと腹をそらしてあおむけになっている。鋭利な鉄に貫かれても、鯨は血を流さない。涙を流さない。畝をあらわに息絶えた鯨に、夕焼けの赤が滲む。

 

「勉強とおんなじだ。二次方程式の解の公式は義務教育のうちに勉強するけれどね、将来一般の会社に就職して、或いは主婦になって、あんな難解な公式を持ちだして計算をする機会がどれくらいあると思うかい?」

「まあ、ほとんどないだろうな」

「けれどそれを習得することには意味がある。その根幹がどれほど無意味であっても、だ。すくなくとも、進学や就職という岐路では、それらに意味が持たされ、価値を決められる。数学の成績はいいに越したことはないんだよ」

「あんた、勉強できるの」

「それなりには」


 彼は曖昧にぼかす。たぶん、優等生なんだろうなと察するが、深入りはしない。どこの高校だとか、どんな家庭に育ってきたとか、兄弟がいるのかとか、画家になるのかとか。気になっても尋ねてはいけない。

 だって、俺も彼も、ここにいるかぎりは誰でもないのだから。

 いっさいの素性を持ちこまないのが暗黙の規則だ。


「意味のある無意味、というものが僕らにはつきまとっている。そこから逃れることはできない。そのふだにすがって、僕らは生きていかないとならない。けれどいまだけは」


 俺は深く頷いた。


「そうだな、ここにいる時だけは」


 人生のなかでぽっかりと切り取られた空白の時。カメラのフィルムでいうならば、連続して撮られた陰画ネガのなかにレンズの蓋を外さずにシャッターを切ってしまった真っ黒な写真が紛れているようなもの。現像されることなく棄てられる無価値で無意味な、黒い空白。

 それはひたすら静かな安堵だった。


 筆を拭いて、彼はこちらに歩み寄ってきた。

 瓦礫に腰かけ、彼が俺の手もとを覗き込む。表紙の外された素っ気ない文庫本を眺め、著者と題名を復唱するように唇が声もなく動いた。日本の、ひと昔前の作家の、さして売れてもいない文学だ。彼が知っているはずもない。首を傾げ、なんだよとうながせば、彼は予想だにしていなかったことを言った。


「君は、バイオリンを弾くんだね」


 驚いて、本から視線をあげる。


「はじめは顎のところに跡があるのが気になった。髪を伸ばしているのはそれを隠したいんだと思った。この頃になって、指に胼胝たこがあることに気がついた。それに頁をめくる音が硬い。指の皮膚が硬いからだ」


 まさか、そんなふうに観察されているとは思わなかった。降参だ。


「よくわかったな」

「それくらいはわかるよ」


 なにがそれくらいだ。そんなことに気がつくのはあんたぐらいだと思いながらも、肯定してしまったからにはなにか喋らないといけない。


「弾いてた。春の終わりごろまで」

「いまはやめたのか」

「そう、やめた。というか、急に弾けなくなった」


 色素の薄い瞳が細められた。


「啼くんだよ、弦が」

「啼いたら、いけないのか?」


 確かに弦が啼くという表現はよい演奏のように言われがちだ。けれどそれは、楽器と音楽による。あたり構わず啼く俺の楽器は、さかりの猫と変わらない。あるいは手綱の取れない暴れ馬だ。


「バイオリンの弦が啼くのは褒められたことじゃない。押弦しているはずなのに、開放弦の音になるんだ。そんなのは技巧じゃない。弦が暴れてるだけだ」

「ふうん」


 そう、いつからか、俺の楽器相棒は啼き始めて。

 奏者である俺がどれだけなだめても、啼きやむことはなかった。

 ほろほろと涙を零すかわりに、神経質な声をあげて軋む。砂をかんでしまった歯車のような、耳障りな開放弦の音。狂ったように絶叫するみずからの楽器を前に、俺はどうすることもできずに逃げた。


 いまだって視線は、文庫本に印刷された文章の群の真上を彷徨っている。

 逃げている。逃げ続けている。

 彼はなにを思ったのか、俺の指からすっと文庫本を抜き取った。戸惑い、顔をあげると真剣な瞳が飛びこんできた。


「聴かせてよ。君の演奏が聴きたい」


 驚愕して、言葉を失った。

 数秒の沈黙を挿んで、俺は首を真横に振る。「弾けないんだよ」言いわけじみた呟きが喉から溢れた。「弾けないんだ」


「弾けなくていいんだ」


 彼はなおも食いさがってきた。


「弦を震わせて、音を発するだけでも構わない」

「そんなの騒音だ」

「騒音でいいんだ。音楽にさえなってなくても」

「は……なんだよ、セロ弾きのゴーシュの真似事でもさせるのか」


 矜持を傷つけられ、俺はぎゅっと鼻に皺を寄せる。


「俺には、才能がなかった」


 吐き棄てた。態と攻撃的に。

 やっと、諦めたのだ。桜が散る頃に。

 意味とか価値とか。つけられても、きゅうくつなだけだった。勝手に期待されて、勝手に失望された。ただそれだけのことが、こんなにもひどい傷になるとは思いもよらなかった。俺はただ好きなだけだった。楽器と演奏が好きなだけだったのに。


 思いかえせば、その頃から時々相棒が啼くようになった。

 歯車が軋むような、高すぎる音をあげて。


 けれど、俺の拒絶にも彼はひるまなかった。


「違うよ。そんなことはどうだっていいんだ。才能があろうがなかろうが。そんなものは誰かが勝手に言っていればいいことだ。僕が聴きたいのはもっと無意味なものだ。童話みたいに綺麗には収まらないもの。どれだけ奏でても、上達ひとつしないような。そんな、意味のない演奏が聴きたいんだよ」


 鯨の細波が、俺を揺さぶる。こころの澱を洗い流すように。 

 

《意味のない演奏》短い言葉が頭のなかを転がり、すとんと腹に落ちてきた。押しだされるように肺に詰めていた酸素が、唇の端から零れた。様々な葛藤があぶくになって、光のなかを巻きあがっていく。一瞬の、幻視だ。理解している。葛藤が喉から溢れるはずはなく、きらきらと瞬くはずもない。乾いた埃か、錆が風にもてあそばれただけの。

 けれど確かに。

 強張りがほどけた。


「そうか」


 俺はなにを恐れているのか。うまく演奏できないことか。才能が枯れたのかと、またも叱責されることか。それとも、無意識に彼の凄絶な絵画の才能とおのれを比べていたのか。

 

「そうだったな」


 窒息ぎりぎりまで息を吐いてから、すうと酸素を吸い込む。

 濡れた緑と絵の具と鉄錆のにおいが肺を満たす。よい香りとはいえないそれらが、ひどくこころを落ち着かせてくれる。


「…………わかった」


 ここにいる俺は、いまここにいる俺であって、他の誰でもない。挫折した時の俺も、褒められた頃の俺も、この俺と重なることはないのだ。ここにいるのはただ、人差し指と顎の端に音楽の跡を持った、ひとりの男だった。

 

「近いうちに聴かせるよ」


 彼は瞳を輝かせて、「約束だ」と屈託なく笑った。

 



 蝉は騒いでいる。ひなたの鉄骨は熱を帯びている。郭公かっこうは囀り続けている。

 夏はまだ終わらない。まだ。

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