誰もいない、どこかにいきたかった。


 その廃墟を訪れたことに理由があるとすれば、ただそれだけだ。気紛れといってもいい。ようするに疲れていたのだ。


 森の奥に工場跡があるという噂は聞いていた。普段から通っていた国道を逸れて、自転車で雑木林を進んだ。夕暮れをひかえてもまだ蝉はうるさく騒いでいる。鼓膜が痺れるような音だ。道幅はどんどん細くなり、倒木や石が増えてきた。諦めて落葉松の根方に自転車を置き、草叢を掻きわけて轍の跡を踏んでいくと、急に雑木林が途切れ、大きな建物が前方に現れた。

 コンクリートと鉄骨で造られた、無機質な廃墟だ。

 ふり仰ぐほどの大きな建物が人に棄てられてなお無言で建ち続けている様子は、なにか巨大な生物の死骸を彷彿とさせた。どうしてか、こんな森のなかに打ちあげられてしまった鯨の骨が、赤錆びて横たわっている。

 いつの間にか、あれだけ賑やかだった蝉が静まりかえり、死のにおいを漂わせた静寂がその場に鬱蒼と立ち込めていた。

 草を踏む自分の靴音だけが耳障りに響いては、静寂に吸い込まれていく。

 工場跡の壁は剥がれ、崩れ、青々とした蔦に覆われていた。赤い根を無数に喰いこませて蔦はどこまでも伸長している。天井を突き破り、木が育っていた。緩慢に、だが確実に自然へと還っていく人工物の骨格。いつ閉鎖されたのか。なにを製造していたのか。すべてが撤去され、外郭だけが残されている現在では、想像もつかない。

 壁が崩れているので、どこからでも内部に侵入できる。瓦礫を跨いで、俺は廃墟のなかに踏み込んだ。

 緑と錆に侵食された鯨の体内。がらんとしているが、折れた鉄骨から垂れさがる蔦が視界を遮る。腕で払い、くぐり抜けた。そうして視界に入ってきたものに一瞬、目を疑った。


 誰もいないはずの廃墟のなかに人がいた。


 男だ。制服は着ていないが、おそらくは俺とおなじくらいの歳。彼は木製のイーゼルを立てて、絵を描いていた。ばきりと俺の靴が瓦礫の破片を踏み抜く。その音に驚いた様子もなく、ゆっくりと人影が振りかえる。

 一瞬、石膏の彫像かと思った。或いは、幽霊かと。

 すっと通った鼻筋に猫のような目のかたち。日暮れの陰影が薄絹のように被さった頬。産まれてこのかた、日に曝されたことがないのではないだろうかと疑うほどに白い肌。体格は不健康に痩せていて、肩幅だけみれば女みたいに華奢だ。かといって、教室の隅で教科書に齧りついて勉強だけに執心するお堅い学生みたいな、貧相さはない。痩せぎすの、その輪郭はなぜか柔い。そうして、どこまでも透きとおっている。

 あ然とする俺をみて、男は微笑んだ。


「やあ」


 不思議な響きを持った声が、静寂にぽかりと漂った。

 声変わりを経ずにおとなになったような。遥か遠くから響いてくるようで、鼓膜の側で囁かれているような。

 親しみすら滲ませて掛けられた声にどうかえせばいいのかわからず、俺はただ突っ立っていた。


「いいところだろう? 静かで、暗くて、何にも侵害されない。あたりまえか。ここはすでに終わった場所なんだから」


 彼は腕を広げて、廃墟と青く繁る樹木の天蓋をふり仰ぐ。

 つられて、俺も視線を持ちあげる。

 苔と蔦に覆われた幹。奔放に伸び続けた枝は、天井ぎりぎりにある横長の窓を突き破っている。とはいっても、さすがに枝が窓硝子を割るはずはない。一昨年あたりにひどい嵐があったので、その時に割れたのだろう。窓枠に乗った空の巣は住宅地から盗んだとおぼしき針金のハンガーで出来ている。

 折れて宙ぶらりんになった鉄骨に巻きつく蔦からは、盛りを終えた花の残がいが垂れさがっていた。秋になれば、種を結ぶのだろうか。それとも、このまま枯れるのだろうか。

 そんな朽ちた鉄と葉蔭の額物から降りそそぐ、白い黄昏。床に落ちては割れた硝子の破片にあたって、拡散し、コンクリートの壁に白濁が散る。濁った万華鏡。霞んで遠い光が、何故だか優しい。海の底から、地上を眺めているみたいだ。


「なんの意味もない場所だ。あらゆる価値をはく奪されて久しい場所。後はただ、緑に還っていくだけ」


 俺が黙っていても、男は気にすることもなく喋り続ける。

 酔いしれているようでいて、言葉の端々は冴えていた。


「ひどく落ち着くと思わないか。気持ちがやすらかになるといってもいい。緑と鉄くずと、曖昧な光のなかにたたずんでいる時、僕らは確かに自由だ。呼吸することにも、指を動かすことにも、なにひとつの意味もなくて、いい」


「どういう意味だよ、それ」


 なんとかそれだけ、言葉にする。

 男は笑った。


「どういう意味もないんだよ」


 男はこちらに近寄ってきた。磨かれた革靴がぱきんと割れ硝子を踏んだ。彼は気にとめない。ぱきぱきと硝子を割る音をひき連れて、彼はゆっくりと俺の側に踏み込んでくる。


「君も疲れたんだろう? 意味を持たされることに」


 声が響く。遠く近く。


「だからここにきたんだろう」


「……、そうかもしれない」


 現実から逃げたかったわけじゃない。逃げ続けるだけの勇気も、すべてを棄てる気概もない。現実のなかでしか暮らしていけないことはわかっている。ただ、ほんのちょっとだけ、息を吸う間だけでも。


「どこかにいきたかったんだ。誰もいない、どこかに。誰も、俺を俺だと知らないところに。たぶん、俺であることに疲れたんだと思う。誰かの認識のなかの俺であることに」


 ぐったりと瓦礫に腰掛ける。無意識に顎に手をやった。掻こうとして癖になっていることに気がつく。所在ないとつい、顎に指を掛けてしまう。

 落ち着いて息を吸うと、草いきれでもかき消せないほどに強い絵の具のにおいがした。そういえば、こいつは絵を描いていたのだと思い至る。彼の指には、いまだ画筆が握られていた。


「僕はここで絵を描いているんだ」

「ああ、それか」


 木製のイーゼルを指差すと、彼は頷いた。


「そう、なんの意味もない絵を描いている」


 ここからでは画布カンバスの裏側の木枠が見えるばかりで、彼がどんな絵を描いているのかは見えない。彼は「君になら、みせてあげる」と絵の表側に俺を誘った。興味がないわけではなかったので、彼につられて画布の表にまわる。

 

 息を呑んだ。


 描かれていた絵が、あまりにも凄いものだったからだ。凄い、というよりは凄まじいというべきか。美術には詳しくないし、絵画なんてせいぜい有名な古典画家の絵をいくつか知っている程度だ。それでもわかる。彼の絵は凄まじい。

 

 黒い風景画だった。

 黒地に立ち枯れた木々が描かれているのだが、その木々がことごとく叫んでいる。とがった枝の先端から、乾いた幹の質感から、それが見て取れる。悲嘆か。絶望か。憤怒か。それでいて、木々の雄たけびは静かだ。大地を割ることもなく、空を落とすこともなく。背景に渦を巻いた雲からは、一縷の青い絵の具が流れていた。曇天の裂け目から青空が覗いているのか。木々の絶叫に涙を流しているのか。あるいは血を、流しているのか。ただ漠然と、濡れた青だ。

 一枚の絵画にこれだけ圧倒されたことはない。

 木々のひずんだ反響が聴こえてきそうで、俺は耳を塞ぎたくなった。

 青ざめた木が根を張る大地には、一頭の鯨が打ちあげられていた。どこから漂流してきたのか。乾いた大地に放りだされた鯨は静かに、ただ死を待っている。ただ、死を待っている。

 なんとか視線をひき剥がす。

 

 絵は、廃墟のあちらこちらに飾られていた。

  

「凄い絵だな」


 他にどんな言葉も思いつかなかった。綺麗だともこわいとも思ったが、そのどれもが適切ではないことはわかっていた。

 彼はにっこりと笑い、絵の具の乾き具合を確かめるように画布の表に指を乗せた。


「夏のあいだに描けるだけ描くつもりだ」

「いまでいくつ、描いたんだ」

「十二枚。これを書き終えたら、十三枚だよ」


 朽ちた工場跡にならべられた絵画の群。それらはあまりにも場違いであるはずなのに、風景によく馴染んでいた。

 荒廃した風景ごと、彼の芸術のようだ。


「他の場所で描いた絵には意味がつけられてしまうから」


 彼はそれをひどく悲しいことのように語る。


「意味っていうのはつまり価値だろ。絵なら、価値がつく方がいいんじゃないのか」

「そうだね。必要なものだ」


 否定はしなかった。


「絵筆を握り続ける為には、価値のあるものを描かないといけない。それが現実で。けれど僕はそれをわすれたかった。なにひとつの価値も、意味もない、絵画を描きたかった」


 色素の薄い瞳をすがめて、彼は薄く微笑んだ。長い睫毛が痩せた頬に影を落とす。


「夏が終わって、僕がここを離れても、ここにある絵画はそのままにしておくつもりだ。嵐に曝され、じけじけと憂鬱な秋を越えて、冬を迎えれば雪も降る。野ざらしの画布カンバスなんて春を待たずに朽ちるだろうね。それでいい。それがいいんだ。誰にも知られず、朽ちていければ、僕は嬉しい」


「それは」


 想像する。

 これらの絵画が、朽ちる様を。

 

 九月。一ヶ月程度ならば、さほど変わらない。絵の具のにおいを嫌って、鹿などの動物が近寄ってくることはないはずだ。十月。秋も本番になり、埃の積もった画布に落ち葉が被さる。落葉松の嵐は絵画の表に張りついて、乱雑な落書きを施すだろう。幾筋もの細い落葉は筆の跡に似る。やがて夏を終えてもまだまだ勢いの衰えない蔦が木製のイーゼルに絡みつき、赤い根を喰いこませる。季節はずれの台風がきても、その硬い蔓は最後までイーゼルを大地に繋ぎとめてくれるはずだ。

 秋雨前線はあざやかに描かれた風景を霞ませる。乾いた絵の具は水を弾くが、数えきれない雨筋が画布を伝えば、劣化は避けられない。雨が亜麻の繊維に浸み、裏側に黒いしみが浮かびはじめる。黴だ。黒い斑紋は侵食し続け、ついに絵の表にも及ぶ。

 十一月。冬になれば、寒さにやられてとうとう絵の具が罅割れる。雪はさほど積もらないだろうが、脆くなった絵画には霜ですら大敵だ。その頃には剥落した絵の具のかけらが、割れ硝子や落ち葉と一緒に散乱しているかもしれない。はらはらと、色彩の破片が木枯らしに吹かれて巻きあがる。

 緩やかに朽ちていく絵画。誰の審美に曝されることもなく。

 

 そうして、ようやっと、彼の芸術は完成する。

 とても無意味に。


「………………いいな」


 ぽつりと、言葉が零れた。

 きっと凄く、美しいだろうと思った。


 知らず、笑みすら浮かべていたのだろう。彼は俺を見つめて、嬉しそうに頷いた。異境の土地でやっと言葉の通じる相手を見つけた、放浪者の表情だった。


「鯨」


 飾られた絵画すべてに描きこまれた白い身躯を指差す。都会の夜景に、枯れた大地に、星の瞬く夜の帳に、鯨は物言わず横たわっている。それらの異境に鯨が従えるべき潮波はなく、王者の風格を残しながらも孤独に息絶えようとする鯨の姿からは、憐れむこともおこがましいほどの悲愴が見て取れた。


「好きなのか? 嫌いなのか?」

「どちらだろうね」


 こまったように彼は肩を窄める。


「それなら尋ねたいのだけれど、君は君のことが好きかい。それとも嫌いかい」

「ちょっと待てよ。いまの質問とそれに、どういう繋がりがあるんだよ」

「おなじことさ。君が君自身を好きか、嫌いか、断じられないように、僕はこの鯨を好きとも嫌いともいえない。確かなことは、僕が筆を走らせているとこの鯨がかならず打ちあげられる」


 芸術家のいうことはよくわからない。もっと言えば、彼の言っていることで理解できたと想えたことはひとつもないのだが、なぜだか伝わってくる。彼の失意。彼の倦怠。それは、俺の疲労とおなじものだとわかる。おなじかたち、におい、濁りをたたえたものだとわかる。


 彼もまたそうであろうということも。


「あんたは」

「僕は誰でもないよ」


 問いかけはかたちにするまでもなく否定される。


「君は、誰かなのか」


 意味のある、なまえがあるのかと、尋ねかえされる。「俺は」と言いかけて、ああ、違うと考えなおす。


「俺も。誰でもない」


 すとんと、俺の発した言葉が、鼓膜ではなく瞳のなかに落ちてきた。

 そう思ったのは一瞬で、実際には日が傾いて廃墟が影に落ちただけだった。相手の顔が影に覆われて、表情ひとつ汲み取れなくなる。俺の言葉を受け取って、どんな顔をしたのか。安堵したのか。笑ったのか。空にはまだ昼の名残があるのに、無秩序に繁る枝葉のせいか、地上は布でも被せたみたいに暗い。

 こんなに暗くなってしまって、帰り道はわかるだろうか。

 急に置いてきた自転車のことが気にかかり始めた。


「帰る」


 背をむけて歩きだす。

 足もとは暗く、折れた鉄骨に引っ掛からないように気をつけて進む。彼は追い掛けてくることなく、声だけが俺の背に触れた。


「僕はここにいるつもりだよ。夏が終わるまで」


 錆びた鉄が声を拡散するのか、澄んだ声が廃墟に反響する。

 弦の奏でが海の底から響いてくるような、奇矯な音の波長だ。

 ふと思い至る。彼の声は、鯨に似ている。52ヘルツの。

 どこまでも響くのに、誰にも響かない。海の端から端までを彷徨っても、その鯨が同族の群に逢うことはない。彼だけが、他とは違う声で叫んでいるから。俺はその声を拾ってしまった。だからたぶん。


「君を歓迎する」


 またここにくるのだろうと思った。

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