鯨の骨が朽ちるまで

夢見里 龍

「僕はとにかく、意味というものをつけられることにうんざりとしてるんだよ」


 そういいながら画筆を動かし続ける横顔は、細い木洩れ日を受けて石膏の彫刻みたいにとがっていた。色素の薄い瞳は画布カンバスだけを見つめ続けている。変声期を迎えることなく、おとなになったような柔らかい声が静寂の膜を震わせて、紡がれる。


「人生の意味だとか命の意味だとか。生きているかぎり、どんなものにでも価値があるとか。そんなことはあるはずがないのにね。いや、どんなものにだって、等しく価値なんてものはない。ただ死という終着にむかい、直線を描いて進み続けるだけ。そのことを受けいれられず、綺麗事で塗りかため、なかみのない意味を後づけして、さもはじめから価値があったような顔をしている。そんな世界にほとほと愛想がつきたんだ」


 君にはわかるだろうと、彼は睫毛をふせて言い添える。


「それはわかるけど。……わかったら、おしまいだろ」


 絵画を描いている彼とは違って俺はなにもすることがないので、そのあたりに群生していたすすきをひとつ摘んで、くるくるともてあそぶ。まだ若いすすきの穂がきらきらと光と影を散らす。

 俺の言葉に彼はちょっとだけわらって。


「なんで」

「だって意味がないことなんて続けられない。意味があると誤解しているうちは続けられる。けっきょくはそういうことだろ」

「だからって、無意味なものに意味というふだを提げることにはたえられないんだ」

「それはあんたが、潔癖なんだよ」


 そうかもしれないねと彼は筆を洗い、水気を拭きとってから新しい絵の具に浸す。あざやかな緑が筆を染め、画布に描かれた枝の先端に葉が繁る。細かな葉の一枚一枚に息吹を吹きこみ、枝の季節を冬から夏に変えてから、彼は振りかえった。

 異境の偶像めいた貌で彼は笑いかける。俺に。


「けれど、君だってたえられなかったから、ここにきたんだろう?」


 さああと廃墟に風が吹き渡る。

 崩れたコンクリートの壁に折れて垂れさがった屋根の鉄骨。鉄骨を折り、天を目指し続けた名も知らない木が屋根のかわりに枝葉を広げ、この空間をかろうじて屋内に留めている。鉄骨や葉に切り取られた幾筋もの細い光が、草に覆われた地面に紋様を描いていた。光と影の絨毯だ。日が傾く度にその模様は刻々と移り変わり、黄昏が過ぎれば暗闇に落ちる。木製のイーゼルの足もとには雑草の白い花がさわさわと揺れていた。

 錆びた鉄と絵の具と草いきれがまざった、重いにおいがなぜか心地いい。

 すべてが緩やかに滅んだ景色のなかで、俺とあんただけが呼吸をしていた。

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