第33話 終章 さらば、美しき幻よ



「短い間でしたが、本当にお世話になりました」


 私が玄関口で深々と頭を下げると、早智絵が顔を寂し気に歪めた。


「瑠美さん、本当に辞めちゃうんですか?せっかく仲良くなって、これからいろいろ教わろうと思ってたのに……」


「ごめんなさいね。私なりにいろいろ考えて、そろそろ次の目標に向かおうって決めたの」


「これからは、勉強一筋ですか」


「ううん、そうとも限らないわ。また何かボランティアみたいなことに参加するかもしれないし……」


 私が言葉を濁すと寿子が「瑠美さん、よく頑張ってくれたわね。ここでの経験を次に生かせたらいいんだけど」と労った。


「それじゃみなさん、お元気で」


 私は最後の言葉を告げると、半年間通った施設を後にした。


 ――そう、私はここで一生に一度、あるかないかという得難い経験をしたのだ。人間の、想像を超える複雑な内面と真っ向から向き合うという経験を……


              ※


「やあ、こんにちは。……ええと、塚本さんでしたよね?」


 電車の中でふいに声をかけられ、私は思わず声の主を見た。


 振り向いた私の目に飛び込んできたのは、恰幅のいい中年男性だった。


「あ、ええと……江口先生……でしたか」


 私は慌てて記憶を弄った。たしかレストランで新井戸南美と一緒にいた、精神科医だ。


「はい。お久しぶりです。うちのクリニックに一度、診察に来られましたよね?」


「はい。一度しかうかがってませんが……そういえば、カウンセラーの新井戸先生は?」


 思わず口にした問いに、私は自分でどぎまぎしていた。一体、どんな答えが返ってくるのだろう。


「ああ、新井戸先生ね。辞められましたよ。あなたがいらっしゃった二週間後くらいにね。なんでも、違うことに挑戦したくなったんだそうです」


「あの、私が言うのもおかしいですけど……独特の雰囲気をお持ちの方でしたよね」


「ええ。どちらかというとカウンセラーとしての適性より、私はその独特の個性を買っていたんですが……なんというか、人の心を惹きつける魔力のようなものを持っていましてね、彼女は。……いや、いけませんな、医者が魔力なんて言葉を使っては」


 江口はばつの悪そうな苦笑いをこしらえると、頭を掻いてみせた。


「私も……あの人には不思議な魅力を感じていました。あの人のお蔭で、人にはいろいろな面があるということも知りました」


「……ほう、それは興味深いですね。時間があれば、是非その辺のお話をうかがいたいところですが、あいにくと次の駅で降りなければなりません。……またご縁がありましたら、その時にでもゆっくりと。……では」


 江口はそう言うと、ホームの階段に近いという隣の車両へと移っていった。

 やがて車両が減速を始め、緩やかにホームの中へと滑りこんでいった。車両の動きが止まり、窓の外から降車客の姿が消えると、反対側のホームに到着する電車を待つ乗客の背中が残った。


 ぼんやりと乗車待ちの人々を眺めていた私の目が、ふとその背中の一つに吸い寄せられた。すらりとした長い髪の女性の手には、サッカーボールが収まるくらいの銀色の箱が下げられていた。


 ――まさか、沙羅さん。


 私が窓に顔を近づけた、その時だった。女性の背後を、一つの影が横切るのが見えた。


 それはわたしがかつて見た「生首」――あるいは「災厄の王子」と呼ばれた人物そっくりの、美しい青年だった。


 ――沙羅さん、うしろ!


 私は窓に両手を押しつけ、思わず小声でそう叫んでいた。だが手から下げている箱が一瞬、ぶるっと震えたかのように見えただけで、青年が通り過ぎても女性が背後を振り返ることはなかった。


 ――沙羅さん……


 やがてホームに発車のアナウンスが流れ、私の乗った車両がゆっくりと次の駅に向かって動き始めた。遠ざかってゆく後ろ姿が消えかかる直前、女性がほんの一瞬、こちらを見た気がした。


 ――またね、瑠美さん。


 わずかに覗いた横顔の唇がそう動いたように見えた瞬間、女性の姿は飛び去る風景の中へと飲みこまれていった。私は目を閉じ、幻のような後ろ姿を打ち消すように頭を振ると、再び顔を上げて刻々と変わってゆく窓の外に目を向けた。


 ――またね、沙羅さん。


               エピローグ


 秋風が吹き始めた商店街の一角で、わたしはどこからか聞こえてくる歌声にふと、足を止めた。


 耳を澄ませて声の主を探ると、やがて数軒ほど離れた店の前で、閉じたシャッターの前でギターを弾いている女性に行き当たった。


 女性は俯き、胡坐をかいてギターをつま弾きながら、掠れ気味の声で歌っていた。


 わたしは歌を邪魔しないようそっと女性の近くに歩み寄り、しばらくその歌声に耳を傾けた。やがて女性が歌い終えると、わたしはその場で小さな拍手を送った。


「……聞いてくださったんですね」


 わたしの拍手に、それまで俯いて歌っていた女性がはっとしたように顔を上げた。見たところ、女性はわたしと同年代くらいに見えた。


「ええ。素敵な歌声だなと思って」


「そんな……お恥ずかしいです」


 女性はギターを地面に置くと、はにかんだような笑顔をわたしに向けた。


「よくここで歌っているのかしら?」


「ええ……でも子どももいるし、仕事のない日だけ。……私、シングルマザーなんです」


 女性はそう言うと「色々と大変ですよね、私くらいの年になると」と、少し疲れたような声で付け加えた。


「さあ……わたしには過去がないから、よくわからないわ」


 わたしがそう返すと女性は共感を得られなかったことが心外だったのか、一瞬、怪訝そうな表情を浮かべた。


「過去が……ない?」


「ええ。私にとって過去は風の中の幻のような物。すぐどこかへ消えてしまう」


「風の中の幻……いい言葉ですね。あの、今度歌を作る時、そのフレーズ使わせてもらってもいいですか?」


 唐突な申し出に、わたしは「ええ、どうぞ」と笑顔で答えた。


「いつかその歌が完成して、どこかで聞けることを期待してるわ」


 わたしは不思議そうな目でこちらを見ている女性に別れを告げると、再び歩き始めた。


 背後から女性のつま弾くギターの音色が再び聞こえ始め、わたしはふと、自分が柄にもなく感傷的になっていることに気づいた。


 わたしはなじみの薄い街の風景を少しだけ愛おしみながら、これから自分を待ち受けているであろう、次の物語に向けて振り返ることなく進んでいった。


               〈了〉

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生首探偵サロメ 五速 梁 @run_doc

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