1年目春 木咲桃薫

 薫は人から冷静だと言われる。

 それは確かに事実だろうが、同時に事実ではない。

 正確に言うのなら、薫は人から『冷静に見える』のである。

 でもそれは、冷静であることと同義だ、と少年は言った。

 人は、結局のところ相手の内面など分からないのだし、それを外に吐き出してしまえばそれは内面ではなくなる。

 だからそう見えることは、そうであることと同義だと。

 少年は、笑った。

 薫は、その笑顔を『冷静に』見つめ。

 笑ったように見える、と呟くと。

 少年は、じゃあきっと僕は笑ったんだろうな、と胸にそっと手を置いた。

 楽しかったかい、と。

 己の中に語りかけるように、もう1度少年は笑った。




*




 薫は、5時限目が早く終わったため、LHRロングホームルームの前に屋上へ向かった。

 基本的に屋上は立ち入り禁止である。

 けれど鍵がかかっているわけでもないし、柵は身の丈より高く上部は内側斜めに傾いているため、危険がないとみなされているのか比較的自由に出入り出来るようになっている。

 しかし屋上へ行ける鍵のない扉は特別棟の1番奥の階段のみとなっているためか、昼休みのように長い休み時間であっても人が来ることは少ない。まして、LHRの前の小休憩であれば、無人であろう。

 薫は特に深く考えることもなく、がちゃり、と屋上の扉を開けると、

「あへ、かほるふん、ろひらの」

 テニス部の部長が、口元にガーゼをくわえ注射器を持って座っていた。



「あ、大丈夫だよ。病気じゃないから。ちなみにドラッグとかもでないからね。普通の薬だよ」

「……病気、だったのか。でもテニス」

「うん、してる。そういうのじゃないから。って、だから病気じゃないってば」

 手際よく注射器を仕舞い、ガーゼを当てる。

 普段、両手にテーピングをしていると思っていたら、どうやら注射器の跡を隠すためのようだ。

「普段は保健室借りてるんだけど、誰もいなくてさ。保健委員の前じゃさすがに嫌だからさ」

「…しかし。自ら注射器を使うなど、そう簡単な病気で」

「だからー。病気じゃないの。敢えて言うなら、予防? んー。未病対策?」

「……」

 まことが身体が弱いというのは悟琉が何時か漏らしていたし、迷路の神経質なまでに過保護なことにはきっと理由があるのだろう。目の前で注射器をあまりにも慣れた手つきで扱われて、薫にしては珍しく言葉が続かず沈黙することとなった。

 病気ではないと言い切られれば、毎日当然のように皆の先頭に立って部長と言う立場をこなしてくれている少年にそれ以上詰め寄るのは失礼であろう。

「ねえ、打ってみる?」

「は」

「だから、これ。ただの安定剤」

「安定剤? トランキライザーのようなものか」

「んー。医学的には違うけど多分一般の認識としては間違ってないと思うよ。僕ものすごく凶暴だから薬で抑えているんだ」

「……」

 ふふ、と穏やかに笑うまことに小さくため息をつく。

 聞かれたくないのなら聞くこともない。むしろそこまで踏み込めるほどではないだろう。

「何か注意すべきことはあるか」

「……」

 問い詰めることもなく、かと言って冗談のようにかわす態度に不愉快な表情も見せず淡々と聞く薫にまことはきょとんと目を開いた。はっとしたように慌てたように視線を落とされる。

「大きな、音とか苦手」

「そうか。気をつける。それから、ひとつ」

「ん?」

「茶湖にはばれないようにな」

「……あー。騒ぎそう」

 了解したようにくすくすと笑い出す。茶湖はいじめの一件でまことをひどく気にかけている傾向にある。中身はともかく一見誰よりも小さく弱く見えることも原因だろうが。

「ごめんね」

「何がだ」

「色々」

「それでは分からない。分からないことでの謝罪は必要ない」

「じゃあ迷路ににらまれると思うから」

「…それはもらっておこう」

「あはは」

 迷路のまことへの過保護溺愛ぶりは既に周知の事実である。とは言えテニス部以外ではそこまで大袈裟にしていないようなので、ある種あの凶暴な敵意はむしろ心を許されている証拠なのかもしれないが。

「そう言えば薫君はこんなところにどうしたの」

「ああ。テニスコートが気になってな」

「…えーと、答えになっているようないないような?」

 思ったことをそのまま言葉にすればまことは納得いかないように首を傾げた。どうやら屋上にはそう来るわけではなさそうだ。

「裏側に回るとテニスコートがよく見える。この前、打ち合っている時にラインが歪んでいるような気がしたのだ」

「ああ、そういうこと。急造だったからね」

「そうだな」

 そもそもどういう経緯で急造出来たのか、部員は非常に気にしているようだが、薫は現在において問題が起きていない事象については特に意識を向けない性質をしている。

「それにしても、東京なのにこの学校敷地広いよね」

「東京と言っても23区からははずれているからな。…ふむ、やはり少し歪んでいるか」

「そうかなぁ。あんまり分からないけど。でも歪んでるなら直さないとね」

 自分の目線では分からないと言いながらも極当たり前に直すことに同意するまことの態度に、自然口元が緩んだ。

「月宮くん辺りが神経質に直してくれそう」

「結構大雑把なところがあるとの本人談だが」

「それは大雑把のラインがそもそも人よりはるかに上にあるんだと思うよ」

 それはその通りだろう。するべきことはきちんと行うことが前提となっている人間の『大雑把』申告は、するべきことをそもそもやらない人間と比べるまでもない。

 そう言う意味で。

「大雑把…いや、大らか、か」

 まことは、非常に『大雑把』である。

 するべきことをしているかのように思えるが、自分の役割を人に任せることに長けている。

 部長としては、間違っていないのかもしれないが。

 他人の洞察に長けているのは閃であろうが、他人の『役割』を見抜けるのはまことなのだろう。

「そう言えば。ダブルスの話だけど。早速月宮くんと水谷川くんが面白いことになってるから、控えとしてダブルスを」

「茶湖とか?」

「あ、ううん。控えとして、出来ないようになっておいてね」

 まことはそれはそれは可愛らしく、愛玩動物のような仕草で、冷徹に言い放った。

「………了解した」

「薫くんって動じないよね」

「比較的動揺しすぎているところだが」

「コツを知りたいなあ」

 ぶらぶらと柵に寄りかかりながら笑うまことの表情は、あながち口先だけのものとも思えず、軽く首を傾げた。

 恐らく、誰よりも精神を乱していないのはまことであろうから、そんなことを言い出す理由が分からない。逆ならば、まだ分る。素直に感情を出すにはどうしたら良いのか、と。

「性格だろう」

「うーん。でもさ。性格とかと関係なく、ほらテニスコートとかだとスイッチが切り替わったりしない?」

「仕事上感情を消すとかそう言うレベルの話か」

「まあ、技術だよね。感情なんてさ」

 まことは笑う。

 作り笑顔とは思わないが、常に一定レベルの笑顔であるように見えることは確かだ。

 感情は技術だと言い放つ人間の笑顔が、本心からのものとが思えないのは当然だろう。

「テニスコートでの、話だよ」

「どうだかな」

「ふふ」

 比較的、まことは薫に対して『舞台袖』を隠さない。

 それは薫が事実を事実としてしか認識しないからか、あるいは、そういう『役割』に向いていると思われたか。

「……よく、先を読むだとか、予測するだとか、心構えだとかあるがな」

「うん?」

「ただ目の前の事実をそのまま認識することには、しているな」

 ふぅん、と呟いて。

 まことは、何度か空を仰ぎ。


「例えば、花が降ってきても?」


 そんな、不思議な言葉を呟いた。









*



「ああ、そう言えばな」

「ん?」

「あの茶湖にやった花だが」

「うん」

「今度から、せめてピンクや赤い花はやめてやってくれないか」

「可愛いのに」

「あれは事実をそのまま認識出来ない」

「似合うのにー」

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