1年目春 月宮悟琉

「テニス部にはいらないかい」


 およそ、図書館での勧誘に相応しくないそんな声がかかったのは、4月も終わりかけた頃だった。

 少年の顔は知っていた。

 品行方正で容姿端麗。高等部からの編入生だけあって成績も優秀と聞いている。

 ただかなり人見知りするのか、同じく編入生である他クラスの生徒以外と親しくしているところは見たことがない。

 そんな少年、幸岡まことが、突然話しかけてきた上に内容が内容なので、一瞬脳を停止させてしまった。

「あれ、テニス嫌いだった?」

「……あ、いえ。運動は嫌いではありませんが、ええと…」

 この学校にテニス部はなかったはずである。新設の話も聞いていない。

「あ、ごめんね。俺は幸岡まこと。よろしく、月宮つきみやくん」

 名前を聞かれたと思ったのか丁寧に頭を下げられ、思わずこちらも軽く会釈を返す。高校生にしてはずい分と物腰が穏やかである。

「いえ、名前は知っています。テニス部、ですか?」

「うん。俺達で作ることになったんだけど、人数足りなくてね。月宮くん、テニス好きでしょう?」

「…何故?」

 クラスはちょうど反対側で、今まで何か接触があったわけでもない。むしろ名前を知られていることすら驚きだというのに、何故テニスが好きだと思うのか。いや、確かに好きではあるのだが。

「ふふ。月宮くん、3丁目の反物屋のお子さんでしょう」

「ええ」

「俺のおばあ…祖母がいつもそこで仕立てしているんだよ」

「ああ、なるほど」

 何かを教えている人でない限り、個人で着物を仕立てにくる顧客は限られている。大方、両親が同じ高校ということで話題にでものぼったのだろう。

「どうかな? それとも図書委員忙しい?」

「いえ、それは問題ありませんが…。ちなみに他にどなたが?」

「えっと。俺と、迷路…C組の柳沢、A組の金谷くんと木咲桃きさとうくん、D組の…水谷川くん」

 水谷川という名前に軽く眉を寄せる。不良と言うわけではないが、あまりウマが合わなそうなクラスメイトである。真面目に授業を受けているところを見たことがない。編入生である以上それなりに成績は良いはずだが、素行が良くない人物は不快である。

「テニスはやろうと思ったら2人から出来るけど、部として続かせるには最低6人部員が必要と言われてね」

「顧問はもう決まっているのですか」

「うん。日比野先生」

 悟琉さとるのクラスは担当していないが、確か日本史の教師だったはずである。

 新任の教師で入学式に挨拶をしたのを覚えている。

 非常に、事なかれ主義のように見えたのだが、新部設立の力になると言うことは元テニス部であったりするのだろうか。

「どうかな」

「そうですね…」

 テニス部に入部すること自体に躊躇いはない。テニススクールなどに通うよりは金銭的にも楽であるし、新部ということであれば体育会系にありそうな先輩後輩の序列関係も薄そうである。現在では同学年しか集まっていないこともあるだろうが。

「少し考えさせていただいてよろしいですか」

「もちろん。あ、でも。週明けに顔合わせをしようかなと思ってるからそれまでに教えてもらえると嬉しいな」

「分かりました。それまでには必ず」

「ありがとう」

 あ、それとこれ貸し出しお願い、と差し出されたのはパンの作り方の本。

 料理をするのか、と思いながらそもそも誰がこんな本を図書室にいれたのかと妙に首を傾げる。図書館ならまったく不思議ではないのだが。カードに貸し出し記録を書き、手渡すとまことはくるりと身体を回転させ。

「おまたせ、迷路」

「別に」

 そんな風に、笑いかけるような声が響いた。

 その声に一瞬びくりと肩が竦む。

 ここは図書室で、それに相応しい静かな抑えた声であった。

 けれど。

「あ、ごめんね。あんまり私語はよくないよね」

「あ、いえ…」

 幸岡まことと、正面を向いて話していたはずである。

 図書室のカウンターのすぐ脇の入り口の他に奥にも扉はあるが、立て付けが悪く現在修理中である。とすれば、迷路と呼ばれた少年は、カウンター脇から入って来たはずだ。

 けれど。

 けれどまったくその物音はしなかった。話をしていた時には、確かにその視界の中に少年の影も形もなかったはずなのに。

「それじゃあね」

「はい…」

 にこやかに頭を下げるまこととは逆に、少年はまったく悟琉に視線を向けない。まるで、その視界の中に悟琉の存在など影も形もないかのように。

「……ああ、彼が柳沢君でしたか」

 人見知りするのは、恐らくまことの方ではなくて迷路の方なのだろうと、妙に乾いた喉をならして、無理矢理に納得することにした。何となく、それ以上思うことを停止させたほうがよいと視界の奥で警告が聞こえた気がした。



*



 図書室でのことが気になりつつ、さてどう返答したものかと居間で和菓子を食べていると店を閉じたらしい母が表から戻ってきた。

 そう言えば、と幸岡の名前を上げると母はすぐに知っていると頷いた。

「ああ、あの幸岡さん? お母様の代からいらっしゃってるわよ。お花でもしていらっしゃるんでしょうね。よく桔梗や菊をいただくのよ」

「そう言えば、とても色々な花の香がしましたね」

 不快な香りではないごく自然なものだったので、香水ではないと思っていたが。それでも生け花などとはまた違うのだろう。どちらかと言うとガーデニングなどをやっているようなそんなはっきりとした香りだった。

「多分、温室も持ってらっしゃるのね、季節以外のお花もいただくわ」

「そうなんですか」

「お孫さんと暮らしているとかで、身体がたいそう弱いから気をつけてあげて欲しいと頼まれたわ」

「え」

 母の思い出したような言葉に顔を上げる。

「公立高校を受けるのをやめたのはいざと言う時に、レポートとかで単位が取れるからとかおっしゃってたわ」

「…そうなんですか? テニス部を作ったので入部しないかと誘われたのですが」

「あらそうなの?」

「確かにかなり華奢でしたけど」

 それでもわざわざ新設するくらいであるから、仮に身体が弱いのだとしてももう落ち着いていると言うことなのだろうが。

「特にね、大きな音とか驚かされたりすると、発作が起きたりなさるんですって。男子校なんて騒がしいこともあるでしょうから、気にかけてあげなさいね」

「ええ、それは……私もそう言うことは不快ですから、何かありましたら注意はしますが」

 確かに線は細かった。酷く物腰が穏やかで、けれどどこか。

 薄い膜のような、綺麗に引かれた境界が、あるように思えた。

 あの柳沢迷路のような、徹底的な他者の排除ではなく、静かな静かな薄い膜。

 病気を抱えている為に人との接触を避けるタイプだと言うことだろうか。

 テニス部に入部すると言うことは、あの徹底的な拒絶と徹底的でない拒絶に向かい合うと言うことである。

「……あまり、面倒ごとは好きではないのですが」

 ぼんやりと呟きながら居間を出て自室へ戻ろうと渡り廊下に出たところで、ふと、店先に飾ってある菖蒲が目に入った。

 鮮やかな色で咲くその花が、妙に寂しげに見えて足を止めた。

 そう言えば菖蒲の季節だっただろうか。

 花のことはよく分からないが、あの少年が図書室の入り口に活けてある花を酷く悲しそうに見ていたことを何となく思い出し、


「入部、…してみますかね」


 するりと、そんな言葉が滑り出たりしていた。




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