1年目春 柳沢迷路

 隣の家のゆきおかまことくん。

 やさしくていつも一緒に遊んでくれるお友達。


 おとうさんは家にいなくて。

 おかあさんも忙しくて。

 家でうろうろしていると、いつも遊んでくれた優しいゆきおかまことくん。


 おなかがすいて、でもおかあさんがいなくて。

 のどがかわいて、でもおとうさんはいなくて。

 家でころころしていると、いつもおいしいおやつの時間に招いてくれたゆきおかまことくんのおかあさん。


 あったかくて。

 とてもとても大切で。

 とてもとても大好きで。


 だから。


 だから。


 そのしあわせは、『世界』なのだと、思っていた。





*





 ぽとり。


 朝日が差し込む布団の中に、何か冷たいものが舞い落ちてきた感覚にふと目を開いた。

 少し癖のある黒い髪がぱさりと身じろぐ。


 ぽとり、ぽとり。


 互いの体温によって温められていた布団がどんどん淡い色の花に侵食されていく。

 淡い色ならば、まあ良いだろうと、迷路は軽く背伸びをした。

「あで」

 がんと、腕が天井に当たる。

 正確には2段ベッドの上段に当たったのだ。

 子供部屋にある2段ベッドの下が迷路の場所で、上の段がまことの場所である。

「でー。何で、上で寝てないのゆきちゃん」

「……」

「起きてるでしょー」

「…眠い時に、……上るの、めんどくさい」

「自分で上が良いって言ったんでしょー!」

 2段ベッドの上段と言うのは子供の目から見てとても魅力的なものだったので、部屋があてがわれた時、当然お互いに主張をしたのだ。と言っても、まことにこれ以上ないほど甘い迷路なので、当然のようにまことの場所になりはしたのだが。

「迷路は俺が怪我をしても良いって言うんだね……」

「しないから。落ちないから。もう、いい加減狭いよ」

「んー。冬は良いんだけどね」

「良くはないよ。まあ、あったかいけどさ」

 もぞもぞと布団に入り直そうとするのを引き剥がすと、ぽろぽろと淡い色の花が転がった。

「ゆきちゃん、何か夢でも見たの」

 まだ半分以上眠っているだろうまことは丸まったままかけ布団を手繰り寄せていく。

 微かに見える頬の色は悪くはない。

 それならば悪い夢を見たわけではないだろう。

 それに。

「起きるのやだなーって」

 悪い夢は、


「……」


「迷路?」

「……ご飯作ってくるから早く着替えるんだよ」

 妙な沈黙に迷路は頭を軽く振る。

「うー」

 まことは基本的にめんどくさがりなので、すべて用意してあげることを告げるとようやく動き出す傾向にある。それを正そうとせず甘やかすだけ甘やかす迷路にも問題はあるのだが。

 布団に溢れている花を花瓶に移そうかと視線を動かしたが、昨夜ゲームをしたせいかすでに床が花畑状態となっている。まとめて掃除する事にしようと1階に降りていった。



 迷路の朝は早い。

 朝一で必ず花の掃除をすることからはじまり、2人分の朝食と弁当の支度、そしてまことの起床を促して忘れ物がないかをチェックする。食事は祖母が用意してくれると言うのだが、2人の食生活と祖父母の食生活が大きく異なる為、おかずについては各自用意となっている。公立の中学だった頃と違って、私立の高校はバスを利用するため、更に朝が早くなり、基本的に6時前には起きるようになっている。ちなみに、まことは7時過ぎまで寝ているが、遅刻しそうにならない限り、迷路が文句を言うことはない。

「なのに学校では俺の方がちゃんとしているように見られるよね」

 朝は洋食派のまことに合わせて用意されたコーンポタージュを飲みながら、未だ台所で弁当を詰めている迷路にまことは小さく笑ってそんなことを言った。

 パジャマそのまま食卓に座るまことは制服よりも非常に幼い。それはまことの子供の頃からの習慣で、高校生になっても治らない。別に気になるわけではないが、1度だけ着替えてからにしたらどうかと迷路が提案したことがある。その言葉にまことは少し不思議そうな顔をして、曖昧な顔で笑った。あの時、花は降らなかった。

「ゆきちゃんがきちんとした子だと見られるなら全然構わないけど」

「修学旅行の時とかめんどそうだよね」

「行かないからいいじゃない」

「そうなんだけどさ。あ、美味しい」

 ぽろぽろ、とテーブルにピンク色の花が転がる。今日は朝からチューリップが多い。

 新しく出来たベーカリーのパンが気に入ったのかにこにことまことが齧るたびに、ひとつふたつと増えていく。

「気に入った? ちょっと高かったけど、今度からここのベーカリーにしようか?」

「うーん、高いのは困るね。バイトでもする?」

「するなら俺だけね」

「それはどうなんだろう…」

 家事やってバイトやったら遊ぶ時間ないじゃない、とまことはぶつぶつパンを齧っている。

 朝食は大体済ませたので、居間にある通学鞄を開いて忘れ物がないか確認をしようと背をかがめると背後から少し低い声音が響いた。

 振り向くと、パンを嬉しそうに齧っていた表情は消えていた。

「ねえ、迷路」

「ん。どうしたの、ゆきちゃん」

「学校で、友達出来た?」

 妙に低い声でまことが不思議なことを言う。

 たまに、まことはこんな風に低い声で話し始めることあある。

 それが何なのか、迷路にはよく分からない。真面目な話とはまた違うような気はするが、それを分かる必要は、きっとない。

 だって花は降らないから。

 だから迷路が心配するようなことは、何もないのだ。

「…また、テニスしたいな」

「部活ないみたいだね」

「そうだね…」

「テニス好きなら、またコート借りたらいいよ。だって、好きなら、やりにくいでしょう」

 中学時代、世界はまたまことの敵に回った。

 優しい時は世界によっていつも剥奪される。

 背に響く低い声にぼんやりと答えながら、


「高校で、いいことあればいいね」


 高校で、どうやってまことを守ろうかとそれだけを、考えていた。



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