第一章
1年目春 花と狐
部員が帰宅した後、部長に指名されたまことと、補佐の2人が部室に残った。
補佐は中等部からの持ち上がり組がいる方がグラウンドの交渉に良いだろうということもあり、顔の広い薫と夜遅くても問題がない茶湖となった。
大体の基礎練習について話し合い、まことはペンを置いて軽く首を傾げた。何かを疑問に思っていると言うより周囲を軽く見回す癖があるようだ。
「それでね。基礎練習はもちろんなんだけど。練習試合とか必要かな、って」
「他校の情報がないからな」
「そうそう、それなんだよね。新設校に一番きついのは」
顧問や監督がテニス経験者ならば、新設であってもそれほど孤立しているわけではないが、今回の顧問はテニスにまったく知識がないため練習相手もない状態である。
むしろそのような状態で顧問を引き受けることに部員はまことがどのように依頼したのか気になっているのだが。この場にいる薫は基本的に興味がなく、茶湖は教師は生徒のために何かをするのは当然だと思っている節があるが。
「練習試合のツテはあるのか」
「んー。出来れば関東区レベルのところとやりたいけどそうなると相手にしてもらえないよね」
「テニススクールの知り合いに頼むのが良いだろうな。俺と茶湖は持ち上がりだから外に進学した知人はいないしな」
「2軍とか、1年だけとかなら承諾してくれるかなって。どうせ、来年のことを思えばその方がいいし」
「ふむ。そうなるとどの辺りになるのだ」
「川崎とか」
東京は数多くの高校があるが、強豪校もまた多い。特にスポーツ推薦枠や寮があるようなところも多く、新設高では交渉がなかなか難しい。
「ああ、あったな。私立校で」
「一覧はこっちなんだけど」
まことは綺麗にファイリングされた首都圏の高校の一覧とそのテニス部の昨年の主要メンバーの一覧を机に広げた。
もちろんめんどくさがりのまことが作ったものではない。
「……詳細だな。これは?」
「迷路が作ってくれたの。データ収集とか得意なんだ。練習メニューとかも頼めば個人全部別で作ってくれるよ」
「それはまことの分だけではないのか」
あるいはまことが頼めば、か。
「ううん。自分の身体測定とかそういうの全部渡せば。コンピュータ処理みたいに」
「ほんっとに『処理』って感じでやりそうじゃな」
「あ、水谷川くん」
風通しのため部室の扉を開けておいたためか、閃は気配も音もなくまことの後ろからファイルを覗きこんだ。
「おー。遅うまでお疲れさん」
「お前こそどうした。もう皆と帰ったのではないのか」
「差し入れ」
声と共に可愛らしくラッピングされた袋が机の上に投げ出された。
「カップケーキ?」
「校門で女子にもらったんよ」
だとしても部室を出てから小一時間は経っているのだが薫は特に聞くこともなく、茶湖は気づくこともなく、袋を持ち上げた。
「それは水谷川宛ではないのか」
「いやそれもあるけど『テニス部の皆さんで』って顔赤いのがいたからたぶん他に目当てがいるんじゃろ。俺、水気の少ないもん苦手なん。食って」
基本的に閃は偏食気味である。
それはこの後、茶湖や悟琉辺りから口うるさく説教されることになるのだが。
「んー。僕も飲み物ないときついなあ。あ、コーヒーメーカーとか備品で頼めないかなあ」
「それは無理だろう」
「じゃあ、電気ポット。ほら、お湯使うでしょう」
「それならば保冷パックなどの方が良く使うだろう」
至極真っ当な茶湖の意見にまことは多少頬を膨らませたが、まあいいや、と呟いた。
本当にコーヒーが飲みたければ、いつでも迷路が用意しそうなものである。
「…そういや、柳沢残っとらんの」
「迷路? うん。夕飯作るから帰ったよ」
「意外だ」
それは夕飯を作ることにではなく、当然先に帰ったことにである。
「迎えにくるけど」
「想像通りじゃな!!」
続いた言葉に思わず閃は突っ込みを入れる。
和は乱さないが比較的人の輪に入らない閃には珍しいことであるが。
「練習試合の話ではなかったのか」
「あ、そうだった。ねえ、水谷川くん。ツテとかない?」
「さすがにこっちは無理じゃ」
「ああ、そうか。そうだよねぇ」
交友関係がなくとも妙な顔付き合いはありそうな雰囲気があり、実際それはその通りなのだが、引越しをしたばかりではさすがに難しい。
薫は珍しく少し困ったように、片手を挙げた。
「…ひとり、いるが」
「え、本当。薫くんの知り合い?」
「知り合いというか、ちょっと変わったやつでな。テニススクールの経営者の息子だ」
「おぼっちゃんじゃな」
「典型的な『おぼっちゃん』だ」
その声に微妙に疲れが混じっていて、まことは軽く首を傾げた。
「1年生なの?」
「ああ」
「打診できる?」
「してみても良いが…。場合によってはレギュラー入りしているかもしれないので本人は不参加になる可能性がある」
その言葉にまことは納得したように手元の資料に目を落とした。
「…
「よくわかったな。知り合いか」
「ううん。データ的にね、1年生でレギュラー入りしそうな子ってそれくらいかなと思って」
「ふむ。……事前情報のみでこれか、データは」
覗き込んだデータには昨年の試合に出ているレギュラーだけでなく、テニススクールでのジュニアの成績も並んでいた。
今年、当たりそうな人材である。
「そうだよ。迷路得意だもん。高校野球並に情報集められるよ」
「む…。あまりそういうものは好かんな」
「情報戦がか。対戦校のことを調べるのは大会において当然だぞ、茶湖」
「いや、そうだが。純粋に強ければ問題あるまい」
「…まあ、そうじゃな」
茶湖の言葉に閃も軽い賛同の声を上げた。
「あれ、水谷川くんもそっち派?」
「いやいや、大会となれば情報戦は当然やと思っとるよ。ただ、強さ的に勝利確定で補佐的に情報というか、な」
「まあ、補佐的に必要ではあるだろうが…」
「…練習のパターン分けに対戦校の情報は役に立つよ。少なくとも今年はね」
そもそも1年のみの新設では1回戦のみとなることも十分に考えられる。
試合のための下準備と言うより、練習の応用のためと言えよう。
「――と」
薫は、まことが小さく口の中で何か呟いたことに気づいたが、特に何も言わなかった。
「ふむ。パターン練習か、それはそうだな」
「まあまずは申し入れてみなくては分からないだろう。5月中をめどに時間をとれるか聞いてみよう」
「了解」
「そうだね。こっちも通常の練習あるし…。あ、土日の練習ってどうする」
「片方にするか」
既に上のいる部活ならともかく、新設でいきなりすべて埋めると言うのも難しいだろう。
まことは少し目を伏せたが、小さくう頷いた。
「…土曜日は練習日で、日曜日は自主練のためにテニスコートを開放しておくってのでどう?」
「そうなると誰かが鍵当番ということになるな」
「うん。だからぼ…俺と薫くんと金谷くんが3交代で」
「それは構わん。むしろ俺は参加する予定だ」
「では通常の時はそうするか」
大体の書き込みが終わり、ふとまことは顔を上げた。
「あれ。水谷川くんは?」
「さっき出ていっ…」
茶湖が答える前に、ひらひらと片手を振って閃がまた部室に入ってきた。
もう片方の手にはお盆が乗っている。
「あ、まだやっとる。これコーヒーじゃ」
「…ビーカーに入ってる」
「大丈夫じゃ。洗って入れたし。ホウ酸だんごしかはいっとらんかったから」
「それ劇薬がはいってたより嫌だなあ…」
大体終わりと判断し、まことは軽く肩の息を抜いた。
ほんの僅かだが、張り詰めたような空気が消えた気がして。
むしろ今までほんの僅かでも張り詰めた空気があったのだと気づいて、閃は不思議そうに天井に視線を向けた。
「そう言えば、幸岡は中学時代部活にはいっていたのだろう。いないのか、近くの高校に」
「……」
茶湖の何でもないその問いにまことはほんの一瞬だけ停止した。わずか半秒にも満たない停止だが閃は何かに気づいたように視線をまことに向けた。
ぽとり、と何か音がした気がして周囲を見回すが、特に変化はない。
まことは閃のその伺うような視線を気にせず極当たり前にいつもの笑顔を向けて、ついで首を傾けた。
「んー。そうだなあ。正直、迷路とばかり打ってたから。それと、…ちょっと3年の時、家の事情で学校休んじゃってね」
「む、そうなのか。それはすまない」
堅苦しい茶湖の謝罪にまことは軽く笑う。聞いてはいけないことだと思ったのか茶湖はそれ以上聞いてこない。
「あー、あと。ちょっと、迷路が、喧嘩、を」
あははは、と乾いた笑いを浮かべれば3人は何となく事情は分かったというように手を振った。
*
「あ、迷路。自転車で来たの」
校門の前に迷路は赤い自転車にまたがった状態で停止していた。
後方には、リアキャリアがついている。
「バスが来ない時間だから。後ろに座って」
「うん。…ねえ、僕あの立ち乗りしてみたいなあ」
サドルは並行型だが、所謂買い物自転車のような形になっているそれにまことは苦笑した。
実際買い物に使うのは確かなのだが、リアキャリアがついているのは荷物のためではくまことのためだ。
「だめ。危ない」
「座っても危ないよ?」
「はい、ヘルメット」
「うーん…」
2人乗りそのものが危険ではあるが、迷路にはまことに運転させると言う思考はない。
「早く車の免許取るからね」
「それもどうなのかなあ」
そもそもそれは20歳を越えてからの話である。
「あー、そうだ迷路」
「動いちゃ駄目だよ」
「今日ね、対戦校の話になってね」
前後に分かれている上、自転車走行中のため、声は自然と大きくなる。
「データ集めるなら日曜日出かけてくるけど」
「うん、それはすごく助かるけどそうじゃなくてね。…中学で部活やってたでしょう。他の子、大会に来るかなって」
ワントーン声を落としたまことに、迷路は何でもないように頷いた。
「来れないようにしておけばいいの?」
「駄目だから!違うから!」
ぽとり。
「…あ」
腰に回した手に黄色い花が落ちてきて、まことは慌てて言葉を止めた。
まことが呼吸を小さく整えるのを確認して迷路は回りに目を向ける。
「…暗いから大丈夫だよ。風強いし」
「うん、ごめん。家帰ってから話す」
「うん」
まだぎりぎり4月だからだろう。
辺りには散りかけてはいるものの、まだ桜が残っている。
自転車の車輪に目を落とすと、たくさんの花びらの中に黄色い花が1輪落ちている。
「ねえ、ゆきちゃん」
「何?」
数分の沈黙の後、迷路はぽつりと言葉を漏らした。
背中にまことがいるため、十二分に注意を払って運転をしようとする迷路にしては珍しいことである。
「ダブルスじゃないからね」
「え」
「シングルスだからね。俺は、ゆきちゃんの打ち返せるところしか返さないし。ダブルスじゃないからね」
「迷路?」
「ゆきちゃんがテニス出来るように、テニスするだけだから」
声に抑揚はない。
「……迷路」
「俺はプレイヤーじゃなくて」
「迷路」
まるで感情のない声は、けれどただまことへの優しい声音だけは残り。
「アバターだから」
だから。
花が咲かない範囲でシングルスをするための、ただの手足だからね。
迷路は、極当たり前に、
笑うこともなく、
花が咲くことも当然なく、
ただただ、語った。
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