1年目春 幸岡まこと
ぽとり、ぽとり。
ぽとり、ぽとり。
ぽかりと浮かんだ世界の中に、音が響く。
ぽとり、ぽとり。
まるで何かが落ちるように。
まるで何かに落ちるように。
ぽとり。
その音が、決壊したのは、小学校に通うようになってから、初めての夏休みの日だった。
まるで世界がシャッフルされたように、大きく何かが揺れて。
花が、降ってきた。
*
朝はいつも花の香りで目が覚める。
人の温もりの残った布団の中で転がる頃には、迷路が起こしに来る。
その前に何度か起こされたり寝ぼけながら会話したりしているようなのだけど、それはよく分からない。
中学校の最後の半年をほとんど病欠と言う名の不登校で卒業してから、朝が随分と遅くなった。中学時代の部活は厳しくはなかったが、所属しているテニススクールが朝からコートを開放しているので、軽い打ち合いをしてから登校する事がほとんどだったのだ。病欠と言う事になっていたので、半年以上もう通っていない。
「はあ……」
布団の中に花が転がっているのは久しぶりだ。
眠っている以上、感情が大きく起伏することはないので、よほど嫌な夢でも見ない限り無意識下で花が降って来ることはないはずなのだけれど。
視線を上げると、花瓶に活けられた花達。
足元には昨夜ゲームをした時に大量生産されたためか花畑状態となっている。
毎朝の光景だが、何だか妙にその事実が重い。
何か嫌な夢でも見たのだろうか、と自問するが、残っている記憶はない。
けれど、花が転がっている以上、何かを見たのだろう。
まことは、感情により花を生産する。
喜怒哀楽。
感情が大きく揺さぶられると、花が降って来るのである。
ただ普通に笑っていても、何となく重い気持ちになっていても、花が降って来ることはないが、楽しさが決壊して声をあげて笑ったり、突然人に驚かされたりすると、どんなに感情を押さえ込んでも取り返しが付かない。寸前で押さえ込む事は出来るが、耐えると言うそれ自体が感情を揺さぶるため、基本的に日常的にまことは感情を一定レベルに保っている必要がある。
奇怪と言える体質のことを知っていて受け入れてくれているのはこの家の四方内のみで。まことはこの世界の中でだけ、思う存分笑い、思う存分泣くことにしている。
ただ、1日感情を押さえ込んでいるためか、家の中では些細な感情の起伏で花が降って来ることもあるが。
「あ、おいしい」
さくりと口に含まれたパンのほろ甘さに声を上げた途端ぽろぽろと食卓に花が降ってきた。ため息をつきそうになったが、迷路は何でもないように花瓶を用意している。
起き立てのパジャマのままくつろいで食事をするのはその方が迷路が喜ぶことが理由であるが、実のところまことがかなりのめんどくさがりであったりする。
美味しいパンに、綺麗に詰め込まれた弁当箱。
迷路はてきぱきと食事を用意し、居間にあるまことの鞄に忘れ物がないかチェックをしている。
「ねえ、迷路」
「ん。どうしたの、ゆきちゃん」
「学校で、友達出来た?」
「まだはじまって1週間も経ってないよ?まあ、前後の奴と話をしたくらいかな。でも男だけの教室って思ってた以上に色彩がないね」
それは家の中に色彩があり過ぎるのではないかと言いかけて、その気持ちは何となく分かったので無言で頷いた。
「でも雰囲気とかは分かるでしょう」
「んー。どうだろうな。別に、どうでもいいし」
「よくないよ?」
「うん」
短く返された言葉が、まったく迷路の本音ではないことを理解しているので、まことは小さく息をはいた。
迷路は、まこと以外を大切にしない。
まことを1番に大切にすることそれ自体を重いと感じる事はないし、そうなって仕方がない事情を作ったのは他ならぬまこと自身であるから、否定する気もない。けれど、まことを1番と思うことと、まことだけを思うことは別である。
「……また、テニスしたいな」
「部活ないみたいだね」
「そうだね…」
「テニス好きなら、またコート借りたらいいよ。だって、好きなら、やりにくいでしょう」
振り返る迷路に軽く肩を竦める。
好きなことだから、押さえが効かず花が降って来ることが重なり、奇異の目で見られたのが中学時代。
感情を抑制する鎮静剤に近いものを打ってはいるが、度重なると身体にも負担がかかってしまうのだ。
「もう少し、考えるよ」
「そうだね」
別に学校なんて行かなくてもいいんだよと優しく語る迷路に、小さく苦笑を返す。
「高校で、いいことあればいいね」
そんな当たり前の台詞に、迷路は軽く笑ったが、振り向くことはなかった。
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