欠けない僕らは背徳を雨に隠す

小谷杏子

欠けない僕らは背徳を雨に隠す

『それじゃあコウの名前はとても広大でやさしい名前なんだね』

 その一文は、僕のくたびれた感情を叩き起した。優しい叱咤のようなものだった。

 彼が僕の名前の文字を知りたがったから教えたのだが、まさかこんな返事がくるとは思いもよらない。

『僕の国では、【村雨むらさめ耕一郎こういちろう】と書くんだよ。村に雨と書いて、地を耕す。よく見たらいかにも農家らしい名前だよね』などとおどけた調子で書いてみただけなのに。

 本来ならば、この村雨という字はにわか雨を指す。だが、彼は「広大でやさしい」ものだと感じたらしく、それがなんだか僕自身を讃えているように思えたのだ。

 どうしてこんな話になったのかはもう分からないが、二年以上は続いている文通だから話をするネタもどんどん深いものとなっていくのだろう。

 新聞の端にあった小さな広告に「ペンフレンド募集」とあり、なんとなく応募し割り当てられた文通相手。手紙を送ったからと言って報酬などないけれど、遥か遠い見知らぬ国の子どもとの交流は、日々繰り返される生活から切り離される新鮮さ、まだ知り得ない世界への憧れと探究心を得られる。今では、兄のおさがりであるボロボロの英和辞典を四六時中眺めながら文字を書く日々である。

 サンディは今年で十三歳になるという。僕らが「はじめまして」の会話をスタートさせた時は僕が十六歳でサンディは11歳。子どもだと思っていたけれど着実に成長しているらしく、不器用だった言葉は達者になってきた。それに、僕の稚拙な英語も安定してきたように思う。

 便箋はいつも互いに四、五枚を優に超える。次の紙に目を向けると、僕は待ってましたとばかりに鼻の穴を膨らませた。

 彼が綴る話の中には、雨の中で踊る少女が登場する。今日届いた手紙にも彼女のことが綴られていた。僕はそれが楽しみで仕方なかった。

『彼女はとても美しいんだ』

 最初にサンディはそう紹介した。

『でも、話せない。僕は彼女の言葉を聞くことはできない。でも、彼女が言いたいことはなんとなく分かる。それは、雨の日だけしか分からないんだけどね』

 話せない、ということに引っかかりを覚えたが、もしかすると彼女もその地では異人なのかもしれないとその時の僕は思った。違うらしい。深く聞いていけば、なんとその少女は本当に言葉を発することが出来ないという。

 すぐに思い立ったのは彼女がであることだった。けれど、幼かったサンディが伝える言葉ではそういったことは書かれていない。意思疎通が出来ずとも、彼はその少女のことをとても良く慕っているようだった。

『今年もね、雨がいっぱい降ったんだ。いや、毎日降っているけれどね。そうすると彼女は晴れやかに笑うんだ。どうやら、激しい雨が好きらしい。何も言わずとも分かるさ。僕は彼女の考えていることはなんでも分かりたいもの』

 サンディも隅に置けない。

 国は違えど、僕が同年の頃に抱いたレモンのような爽やかで酸っぱい、苦くもほんのり甘い香りがする時を走っている。

 それに、サンディは手紙の中ではとても心優しい少年だ。時にそれが羨ましく目も当てられないほどで、いかに僕の内側が汚いか認識させられる。札付きのワルとは程遠くも、たまに胸中に渦巻く黒いものが生み出されることくらいあるから、それが疎ましくなる。ただ僕も、手紙の中では彼にとって優しいお兄さんであろうとしているが。

 そんなことを考えながら読み進めていけば、僕の口角は次の文章によって一気に強張った。

『でもね、彼女はあまり周囲から歓迎されていないんだ。それが段々ひどくなってきて、僕は彼女を守りたいけれどどうにもできなくて困っているんだ』

『雨が降らなければ、村の人たちはいくらか穏やかなんだけれど、雨が降って彼女が笑顔になってしまったら棒で叩くんだ。お前のせいだって』

『それでも、彼女は笑っている。痛そうなのに、笑って、みんなから隠れて雨の降る道で唄を歌うんだよ』

「――歌う?」

 いや、そこに気を取られたわけじゃない。

 サンディがこうも暗い話をすることは今までになかったから、ということもあるけれど少女への攻撃には明らかに僕の神経を逆なでするものがあった。ふつり、と血管の内部が煮立つような怒りを抱いた。サンディが気に入っている少女もまた、僕の中では大きな存在となっていたのだ。

 それにしても、話せない少女が歌うというのは不思議な話である。

『これ、言ったかもしれないけれど、彼女は雨の日に美しく舞うんだよ』

 確かに、そのことは何回か聞いた。その舞いを見てみたいとも返した。

『その時、彼女は雨粒に打たれながら歌うんだよ。とても繊細で美しい音色を奏でてくれる』

「ははぁ、なるほど」

 彼よりも大人な僕はつい邪推を働いてしまう。そして、彼の真っ直ぐで純粋でストレイトな思いに僕のほうが恥ずかしくなる。

 女子に対してそれほどに強く焦がれたことなど一度もなく、あったとしても簡単に言葉へ換えるのは難しい。男児たるもの、寡黙でいるべきだと父の背よりそう説かれている。しかし、戦後三十五年を迎えたこの時世。父のような堅物思考は流行っていないのだ。まぁ、戦地から五体満足で戻った父は紛れもなく猛者であるのだから脳みそも堅物でしかるべきだろう。

 やわで腑抜けだと揶揄されてしまう愛情。そんな環境で育ってきた僕だが、この異国の少年からささやかな愛を学ぶ機会を得た。こうも素直になれたらどんなに素敵なことだろうか。

 ただ、根付いた文化はそう容易く覆ることはないし、素敵だと思う半面、僕もそのうちに出来るだろう恋人へみだらに愛を囁やこうとは思っていなかった。

 文化と言えば、サンディのいる村はどうも差別的思考を持っているようだ。いや、我が国もそう大差ないのかもしれないが、耳と会話が不自由な少女に暴行を加えるなど人として許しがたいものだと僕は思う。

 もしかすると、サンディは僕に助けを求めているのかもしれない。はっきりとはそう書いていないが文面から伝わる。

 僕は手紙の続きを読みながら、手はすでに鉛筆を握っていた。芯を削り、便箋に文字を認めていく。

『もうすぐ僕も学校を卒業する。その時は、君のところへ遊びに行こうと思うんだ。どうだろう? 素敵な話だと思わないかい?』

 同意を求めてしまうのは、僕が彼らに会いたがって気を逸らせているからだろう。


 ***


 進学しないと決めても両親は何も言わなかった。末子の僕に甘いのか関心がないのか、ともかく気楽でいいことに変わりない。

 高校の教師が「旅をしろ」と言っていたこともあり、世界を見てみたいという野心は常に持ち合わせていた。道路の整備をするだけの仕事をし、好きにしながら旅費を貯めていく。

 サンディから『コウに会えるのを楽しみにしているよ』と返事が届いて早数ヶ月は経過しているが、彼の国へ行くにはまだまだ十分な金はない。ただひたすらに手紙を出し続けているだけで、資金の調達は厳しいものであった。それでも、真面目にコツコツと働けばそれなりに金は作れたし、そんな僕を両親は黙って見てくれていた。

 幾度か雨が降れば、僕はサンディの手紙にある少女を思い浮かべる。僕が住む地が雨でも、彼らの地は雨ではないだろう。けれど、たおやかに美しく舞う異国少女の姿を浮かべるのはそう難しくないのだ。

 畑の柔らかい土の上で、ステップを刻む。雨を喜び、水で頬を濡らしながら、その絹の如き滑らかな髪の毛を振り乱す。それを楽しげに見つめるソバカスの少年。そんな画を思い浮かべれば、一刻も早く彼らに会いたいと願うのだ。

「世界は広くて楽しい。視野を広げろ」と教師がしきりに外国を勧めるが、まさにそうだと思う。流れるテレビの中は灰色の景色しかない。カラーテレビも魅力的ではあるが、小さな箱よりも己の目で確かめたい。


 なんとかサンディの元へ行く目処が立ったのは翌年の春だった。サンディとの文通は絶えることはない。しかし、あの少女の話は減ってしまったように思える。

『会いに行ける日が決まったよ。五月十日に発つ』

 だから、彼女にもそう伝えておいてくれないか、と書こうとして手を止めてしまった。彼女の話をしても良いだろうかと躊躇われる。

 村からの迫害を受けているという告白からサンディはそれきり暗い話はしなかった。それに訊いてもはぐらかされていた。ただ、昨年の雨季に彼女の舞いを見たという報告だけはあった。

 僕はなんとも嫌な予想をしてしまうので、彼女の近況を聞くことすら出来ない。仕方なしに、最近の僕について話をしておくだけにとどめた。

 この手紙が届く頃は、僕がちょうど彼らの住む地に降り立つ一週間前となる。


 その国は、カラリとした空で気温は低いものの冷涼ではなかった。行き交う人々の肌色は皆それぞれ違う。こんなにも混在しているのか、と驚きを隠せずに僕は不安定な足取りで道を歩く。

 彼の住所は知っているから行けるだろうと安易に考えていたもので、旅がいかに大変で困難を極めるか予想だにしていなかった。

 そもそも、東京オリンピックの後に海外への渡航が便利になったからこの無謀とも言える計画を立てたのだ。

 公用語が英語ではない、という知識はあるものの僕が培った言語能力で伝えれば、若干の意思疎通ができ、どうにかサンディの住む地へ足を運べた。まる一日を要したから、出国前の自信は僅かに削られているが。

 そこは街から遠く離れた村であり、また僕の田舎と変わらぬ農耕の土地であった。ただ、違うとしたら育てる作物の形状と気候だろう。土から仄かに立つ雨の匂いもくどくない。昨日は雨が降ったのだろう。

 では、サンディがしきりに恋い慕う少女が喜びに舞いを披露していたのかもしれない。是非ともこの目で拝みたいところだが、今日の天気は生憎の晴れである。自国のような燦々と降り注ぐ太陽はないものの、白い光が今の僕に憂鬱をもたらす。

 村の入り口に足を踏み入れれば、その地に住まうのっぽな人たちが僕を物珍しげに眺めていた。それもそうだろう。大荷物の旅行者が大街ではなく、小さな農村にいるのだから驚くのも無理はない。その奇異の目はなかなかに新鮮であり、いくらかの不安は掻き立てられるものの、サンディに会えることの楽しみが膨らむ一方だった。

 開けた大地は土だらけで、まさに耕野である。泥の轍が伸びる小道を行き、彼が送ってきた写真から景色を照らし合わせれば、白壁と赤い屋根の家が見えてきた。あれだ、と確信を得たのは、ひょろ長くもあどけない顔をした少年が家の前に佇んでいたからである。

「コウ!」

 彼は確かめる間もなく僕の元へ駆け寄った。

「やぁ、君がサンディかい? 『はじめまして』」

 直に会うのは初めてだからと、僕は覚えたての彼の言語を使ってみた。すると、彼も合わせて『はじめまして』とはにかむ。僕の予想通り、鼻から頬にかけてソバカスが目立つ少年だった。

「会いたかったよ」とサンディは腕を広げて、小柄な僕を包むように抱きしめる。テレビで見たことがある。外国人はこうしてフランクに接するのだと。僕もぎこちなく抱擁を交わし笑い合った。

「何度も話をしているから初めて会った気がしないね」

 彼は流暢な英語を話した。対する僕は情けないことに言葉を詰まらせる。ボロボロの英和辞典はデイパックの中だ。

「コウと話をするために勉強したんだ、どう? 上手?」

「ああ、とても。僕はあまり上手く話せないから、とてもすごいよ」

 身振り手振りで立ち話を繰り広げる。サンディは「コウは不真面目なんだね」と生意気にも冷やかしの笑いを向けてきた。

 僕らが打ち解けるのに時間は必要ない。四年来の友人であるのだから気兼ねは不要だ。

 彼は僕の手を引いてあちこちを案内した。ブドウ畑は見事なもので、これが後に酒に変わるのかと思えば口の中が酸味を含んだように唾液が溢れる。しかしブドウ酒はまだ飲んだことがないから、おそらく甘くふくよかに美味い酒なんだろうと勝手に解釈した。麦やトウモロコシなんかを見せてもらい、僕も自国の作物について彼に話して聞かせた。

「今年もたくさん雨が降るのかい?」

 問うと、サンディはそれまで晴れやかだった顔を曇らせた。

「いいや、今年は昨年よりも雨は少ないね」

「そうなのかい。じゃあ、君のガールフレンドはさぞ寂しいことだろうね」

 これが常々聞きたくてたまらなかった。ただただ好奇心にかまけて言えば、彼はますます顔を俯ける。そして、唇を小さく動かした。

「……マルゴーは、もう、いないんだ」

 僕の嫌な予想が的中してしまった瞬間である。


 少女はマルゴーという名を持つ。深く聞けば、サンディよりも二つ上らしく、やはり、ろうあ者だった。

「コウにも紹介したかったんだけれど、彼女、遠い場所へ行ったんだ。どこかの一座に引き取られた。確かに、彼女が雨を願えば雨が降る。だから、村の人たちが疎んだんだ」

 彼は悲しげに嘆いた。

「ブドウは雨に弱いから、だから雨はあまり歓迎されない。マルゴーが雨を願えばみんなが怒る……でもね、彼女が雨を呼び寄せているわけじゃないんだ」

「どういうこと?」

 にわかには信じ難い話だが、その神秘的な言い回しには興味をそそる。僕らはサンディの家に戻り、事情を聞いた。彼は段々と瞳を潤ませて、唇を噛み締めながらポツポツと話す。

「マルゴーは雨を待つだけだ。雨だけは、彼女に音をもたらすんだって。大地を穿つような音を聞くことができる。雨が歌うから彼女も歌う。僕にその感覚は分からないけれど、それはとてもとても美しく、特別なものに思えるよ」

 サンディは伏し目がちに言った。あどけない14歳の少年は、僕なんかと違って遥かに大人な表情を浮かべる。哀と憂い。自覚はないのだろうが、その白肌にのせる感情がただの恋ではないと思えてしまう。ただ、僕はこの感情をなんと表現したら良いか分からない。凡人な僕なのだから、母国語でも外国語でもどんな言葉を探せど見つかるわけがなかった。

 強いて言うなら、彼も彼女も僕にとって大事な人であることか。ろくに深入りしない家族や、ふざけあうしかしない友人とはまた違う特別な存在……サンディは目の前にいるのに、彼がやはり僕とは違う世界の住人であるような――

「サンディは、彼女に会いたい?」

 彼の思いを汲みたいと、僕の口は先走った。サンディがパッと顔を上げる。

「そりゃ、もちろん。僕は彼女が大好きだから、今すぐにでも会いに行きたいよ。そして、君にも見せてあげたい。彼女の素晴らしさをね」

「じゃあ、僕が彼女を探してくるよ」

 思わず無鉄砲な提案をしてしまった。しかし、サンディの明るい瞳が光を帯びてしまえば、その目が涙に溢れてしまえば、僕だってそれに溺れてしまうのだ。


 ***


 一時帰国した後、また金を作るために僕は実家を離れて職に就くこととした。情報を扱いやすいだろうということでジャーナリストになろうと安易な考えで出版社を駆けずり回った。とにかく我武者羅に走ればなんでも出来たから、ただひたすらに「彼女を探す」という一心で仕事に打ち込む日々だった。

 サンディとの文通は欠かさない。また季節が巡れば、彼からその年に出来たブドウ酒が贈られるようになった。想像とはかけ離れた、酸味が強く深い味わいの果実酒だった。

『晴れは嫌いだけれど、美味いブドウが出来るから憎めないね』

 彼はどうやら両親と同じブドウ農家になるという。自分で作るようになれば、幾らかは村人の気持ちが分かるようになったということも綴られていた。

 僕は毎年、金がまとまれば国を飛び出して、雨を願う少女を探しに出ていた。最初はサンディの住む国全域を。それから徐々に国境を越えて。

 雨が降る度に、僕はその降り注ぐ雫の隙間を探してしまうのだ。それは自国でも、異国でも。

 直に話したことも見たこともない少女を焦がれて、何年も、何年も、何年も……しかし、その情熱も次第にくすぶっていく。日常がそうさせる。

 叶わなければ、僕にとって彼女の存在は既に神々しい手の届かない何かへと変貌していくのだ。

 僕は幻を追っているのではないか、そんな気さえしてしまう。なんせ、サンディが彼女の美しさをしきりに語るから、そのマルゴーという少女を僕は勝手に創造してしまうのだ。

 見つからなければ、彼女は僕の中で神格化されたままで生き続けるだろう。


 だが、僕が選んだ仕事は予想通りに事を運んでくれるもので、アジアの小国に滞在する大道芸の一座に「雨女」という女性がいるらしいことが分かった。

 サンディの前からマルゴーが消えて、実に12年の歳月が流れていた。サンディも当然、立派な大人へと成長し、最近ではマルゴーの話もしない。ガールフレンドも何度か変わったし、彼はあのもどかしい思いを吐露することはなくなった。

 マルゴーを見つけたかもしれないと報告をした後にきた返事はつれないものだ。

『あの頃は、平凡から外れたかったんだ』と彼は言う。

『だからなんだろう。生まれた瞬間から平凡を禁じられた彼女に強い憧れと羨望を求めていたし、平凡でいることが嫌だったから、僕は異国人の君に手紙を出したりしていたんだよ。それが優しいことだと驕っていたんだ。まったく嫌なヤツだろう?』

 心優しい少年は、無邪気で無垢で下心を隠し持つ平凡な男であった。しかし、実は僕も同じだったのだからお互い様だ。

『彼女がいなくなって僕は平凡に染まることを受け入れた。でも、君への友情は薄れることはない。君に教えてもらったことは後世に伝えるつもりだよ』

 彼はもう、幻を追いかけようとはしない。今を生きることを楽しんでいる。それは確かに良いことだが……では、僕はどうなる。彼に与えられた「平凡から外れた世界」を追い続ける僕は。

 サンディが諦めても僕は諦めが悪かった。

 だから今、雨が降りそそぐ石畳の広場に、水音をかいくぐって笑う女性を目の当たりにしている。

 彼女は飛沫を飛ばしながら、くるりくるりと回る。雨粒を掬い、それに耳を澄ましながら。

 ふっさりとしたまつ毛から雫が流れていく。つややかな黒髪はしっとりと濡れそぼり、顕になった褐色の肩甲骨に張り付いている。

 彼女は雨粒の声を聴いて、その音を自身の唇で奏でた。

 ポッと唇を鳴らし、それを繰り返す。楽しげに笑う彼女はまさしく、サンディから聞かされていたものであり、僕の幻想である。

 雨の中で傘も差さずに見蕩れる僕に、彼女はようやく気がついた。

『はじめまして』と唇を震わせてみる。しかし、彼女は僕の声を聞いてくれやしなかった。ただ、手のひらに落ちる雨粒を差し出して笑う。

 何の音もないのに、『はじめまして』が返ってきたような気がして、僕の体は言い知れぬ不可思議さに身震いした。そして、出会ってしまった以上はこの感覚から抜け出せない。

 雨もおそらく、彼女を好いているのだろう。奏でてほしいから雨は彼女に魅せられる。

 僕も一つの雨粒でしかないし平凡である。けれど、サンディも抱いた背徳の感覚を味わいたくなるもの。そうした綺麗ではない感情を雨に隠してもらいたくなる。

 彼女は自身が奏でる音色を理解しているのだろうか。それを知りたくて僕は一歩ずつ歩み寄る。

 手のひらを握ってみれば、雨粒の振動こえを感じた。

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