いろなしのてふ

カメジャ

読み切り短編 『いろなしのてふ』

 てふづる姫君の住みたまふかたわらに、按察使あぜちの大納言の御女、心にくくなべてならぬさまに、親たち、かしずきたまふこと、限りなし。

新潮社 新潮日本古典集大成 

堤中納言物語つつみちゅうなごんものがたり」より引用




 さて今となっては昔の事。平安京に一人、少女がいらっしゃった。

貴族である父母は少女を花や蝶やと愛で、家来の誰もがこれこそ音に聞く「なよ竹」の再来に相違ないともてはやす。

両親は少女の願いをなんでも聞いた。

てては少女に古今東西あらゆる知識を与えた。源氏物語から漢詩、歴史書、さらには西方から来たという哲学書まで、少女が望むものすべてをおのが資産を投じて与えた。

かかは目の覚めるような真っ赤なおべべも、唐来のも何でも与えた。

けれどただ一つ少女の外に出たいという願いだけは頑として聞き入れなかった。彼らは少女を閉じ込めた。穢れないよう、逃げないように。

きよらな少女の周りには人どころか獣でさえ離れた。

真を尋ねる少女は独り、「誰か」を少女の小さき唯一の友「虫」に求めた。

きっかけがいつかは忘れてしまったが、少女は虫を愛ではじめる。少女は裸足で庭を駆け、長い黒髪を土色に染める。虫を捕まえ少女は大音声だいおんじょうで叫ぶ。

「この子はいなごこちらは毛虫。蝗の伝える現世うつしよの理。変わらざる者ただ空掻くのみ。毛虫の伝える現世の真理。変わりたる者即ち飛ばるべし」

少女は虫を捕まえ、研究した。

既知のものはより深く、新種のものには名を与える。

身体を知るためその小さき体躯を切り開く。

精神こころを知るため虫の音を真似する。

コロコロリーリンチンチロリ。チリキリチリチリギーチョンシャルラン。

蝗に。蝸牛かたつぶりに。毛虫に。蝶に。螽斯はたおりめに。蟷螂いぼじりに。丸虫まるむしに。天道虫てんとうむしに。蜘蛛くもに。

少女は虫たちに囲まれ、夢の浮き橋を渡る。

虫を愛で虫に魅入られしその少女を人々はこう呼んだ。

虫愛むしめづるひめ」と……。




「つまんない」

 かつての少女、虫愛づる姫は誰に言うでもなく、そう言った。

手入れもせず乱れ気味の流れるような黒髪。普通ならば抜きそろえるはずの、伸び放題になった黒い眉。大きな藤色の瞳。年頃であるが歯黒もつけず、真珠のように輝く白い歯。姫は何の手入れもしていない。燦爛さんらんな着物も、清香も、何もつけてはいない。彼女は雪柳に似ている。

姫はしとみを開けて空を見る。

外は雨。重く暗い雲がのしかかるように空を覆っている。雲が東の方へ流れているのが見える。この分だと天気はすぐ戻りそうだ。

せっかくの桃の花も褪せてしまいそう。まあ桃の花なんてみんな地味だとか何とか言って、ちっとも愛でようとしないけれど。

どうでもいいけど雨ってどこからふるのだろう。何かの本には「神がお与えになる」と書いていたけれど、神様もずっと水を垂れ流しにしていたらいずれなくなってしまうだろうに。そもそもどうして祈るだけでわざわざ人に無償の恵みなんかお与えになるのだろう。

なんの得もないだろうに。

怖い。

そんな取り留めないことを私は考えてみた。

子供のころならそれこそ蟇蛙ひくさのごとく跳んで行っていただろうけれど、今はもう無意味に濡れたくない。まあ理由があったのなら喜んで濡れるけれど。

こんなときには世間の女性たちなら女房とともに物語でもするのだろうが、私のまわりには話せる友はいない。教養ある女性であれば白楽天はくらくてんでもそらんじ「いとをかし」などとのたまうのだろうが、白楽天に虫の関わる物はなく、「いと憂し」としか言いようがない。人も呼べば来るには来るのだが虫を捕まえてきて、謝礼を求めるばかりなので近頃はもう呼ばなくなってしまった。

「……ただ、知りたいだけなのに」

私はそうつぶやいた。

人は私のことを気味悪がる。

確かに世間の人々とは私は違うらしい。源氏、白楽天よりも歴史書や論語を読むほうが数倍楽しいし、化粧はそもそもする意味が分からない。ありのままの姿を隠し、まがい物の姿や自分を作り出したうえで人と話すなんてあまりにも不条理ではないか。だいたい歯黒なんて不気味でしかない。笑ったり怒ったりその他どんな表情をしていてもその口は深い穴が開いたように黒いのだから。気味が悪い。

私が虫を捕まえるのだって、ただ知りたいことがあるだけなのに、人はただ私を恐れるばかり。母様かかさまなどはこの前私が蛇を捕まえたのを見て卒倒なされた。しかもそのあと父様ててさまのおっしゃることといったら

「世間の目があるからこんなことはしないでくれ。家の名が下がるだろう」

 そのときは私も思わず叫んでいた。

「みんなが花や蝶やともてはやすのはなんでよ! 世間(みんな)がもてはやすからでしょうが。人っていうのは物事の本質を見極めようと努力するのがいいのでしょう。私はただ知りたいだけなのよ、どうして父様にはわからないのよ! 口を開けば世間世間。娘でさえまともに見抜けないのに!」

 そのあとの喧嘩は我ながらひどかった。障子はとぶ猫はとぶ。紙は舞い散り花瓶は割れる。終わった後には山風あらしが吹いたのかと思うくらいだった。父様はそれ以降私の部屋に近づこうとしない。

ただ、私は知りたい。

何を?

それが知りたい。

そのために私は父様に頼んで、色んな学問を教えてもらった。

源氏から白楽天、論語、老子、荀子、孟子、荘子、孫子、墨子さらには西洋から伝来したという希臘ぎりしあの哲学書まで。

 彼らは口々にこう言う。

「人は善である」

「人は悪である」

「上下乱れのない形こそ至上である」

「上下も何もない、ありのままの形こそ至上である」

「万物は水だ」

「万物は火だ」

「万物は空気だ」

「万物は回転だ」

「生は苦である」

「すべては無常だ」

「信じる者が救われる」

「すべてを疑わなければならない」

「私たちは何も知らない」

「私たちは何も見えない。何も知りえない」

「すべてを分析することで知ることができる」

 私はそのすべてに納得ができなかった。すべてが私の求めるものではなかった。

 私は何が知りたいのだろう。

 もしそれを知ることができたとき、私はどんな顔をしているだろうか。




「姫様」

自分を呼ぶ声にうつつに引き戻される。雨も止んだようだ。

大地ねのくにに戻り損ね、太陽あまてらすに晒されている蚯蚓みみずの死骸のような声。どうやら老女房らしい。彼女は理解がある貴重な逸材だ。決して私に共感はしないけれど理解はしてくれる。物事を相対的に見ることができる目を持っている。

御簾みすの外から声がする。

「父君と母君がお呼びでいらしてございます。今すぐご準備をなさってください」

あはははは。私を説教する気満々じゃない。しかも老女を使いに出すなんて、誰も私のところに来たくなかったのね。こんなもの、笑うしかないじゃない。父様は論語を見ていないのかしら。ほんとおかしい。

「わかったわ。今から準備するから、あなたは少し休んで頂戴」

私は彼女にそう言った。他の人が来たのなら行かなかったけれど、彼女を使わせてしまったのは申し訳ないし。

私は蔀を閉め準備する。めんどうだ。一人で着物を着るのは難しいのよね。馬鹿みたいに重いし。慣れたけれど。

脱ぎ散らかしていたひとえを着て、その上に、練色ねりいろ綾織あやおりうちきを着る。この前これを着ていたら女房たちにばばくさいとか陰口をたたかれていたっけ。いいと思うんだけどな。この薄い肌のような優しい色。私は好き。心がほっとする。後はこの上に小袿こうちきを羽織ったら完成。紋様はお気に入りの螽斯はたおりめ。ピョンピョン跳んで、ギイギイと鳴く、私の好きな一匹ひとり重袿かさねうちきとか表着うわぎを着ていない? なくても死にはしないでしょう。袴は当然、白一択。みんなは赤を着るけれど私、赤より白の方が好きなのよね。派手すぎなくていい。着飾ってばかりなんて、息がつまる。私は、私のままが一番いいと思う。

準備が完了したら私は離れを後にする。後ろから老女房がついてくる。

別に向こうで休んでくれればいいのに。大変ね。後で何かお礼でもするべきかしら。

父様のところへ着く直前、急にわらわら女房が後ろからついてきた。

はえみたい。そういえばどこかの女房が蠅の事をものすごく嫌っていたわね。「蠅こそにくく物のうちにいれつべく、愛敬なきものはあれ」とかなんとか。あれぐらいはっきり言ってくれたらいいのに。みんな。うじうじして、鬱陶しい。

「ただいま参上いたしました。父様、母様」

私は御簾の向こうにいる父様と母様に呼びかけた。

「よく来ましたね。まあお座りなさい。」

父様の声がする。自分で呼びつけたくせに。私のところに行きたくなかったくせに。

「お前を呼びつけたのは他でもありません。お前に聞きたいことがあったからです。何故なにゆえお前はそこまで虫を愛でるのですか?お前にはこれまで様々なものを与えました。ですがそれはお前を世間に馬鹿にしてもらうためではないのです。」

この前とは口調が違う。そんなので親の威厳が出るとでも思っているのだろうか。理解する気なんて毛頭ないくせに。

「私はお前に清原きよはらの娘や源氏の女房のような才女になってもらうために与えたのです」

今でも相当な役職を賜っているのにまだ求めるのか。私は父様の人形じゃない。

「せめて蝶を愛してください。毛虫など汚らしいものを愛でるのは世間的にあまりにみっともない。蝶の方が美しいなんて、言うまでもありませんよ」

汚らわしい?

毛虫なんか?

蝶のほうが美しい?

黙っていられない。

「お言葉ですが父様。毛虫が汚らわしいと言ったこと、撤回してください」

私は身体がはちきれそうになるのを感じながら静かに言った。

「だって毛虫は気味が悪いではありませんか。色といい形といい。想像するだけで鳥肌が立ちますわ。そうでしょう」

今まで父様に任せっきりだった母様が口を開く。蚕の様に細い声。

何かが切れる音がした。

「二人とも何にも知らないのよ! 一切本質を見ようともしないで、気にすることはうわべばかり。簡単なことじゃない。すべての事には理由があるなんて当たり前だもの。何で理解しようとしてくれないのよ!」

「何だと」

父様が口を開いた。ほうら。すぐ口調が戻った。やっぱりうわべだけ。

「何故私がお前のおかしな話につき合わねばならんのだ」

「別に共感しろとは言ってないでしょう! 私はただ、理解してっていっているの」

燃えている。身体が、心が、燃え盛っている。

「毛虫っていうのは」

目が熱い。お気に入りの小袿の袖が濡れる。

「毛虫っていうのは!」

私の事を悪く言うのは構わない。

ただ虫たちは。あの子たちは。

「父様がだぁい好きな蝶が必死に生きるため、自分たちで考えた姿なのよ! まだ幼くて右も左もわからないのに、生きるため、ただ生きるために。鳥に襲われないよう日向を恐れて陰に集まって、自ら毒針にくるまって必死に抵抗して。それでも彼らは空に憧れて、自分を変えるために糸を紡いでまゆをあんで。

自分を変えようとしたその努力を汚らわしいと言うなんて私は許せない!」

私は立ち上がり、御簾を大きく上げて懐から毛虫君を出してあげる。扇子に乗せ、父様と母様に突きつける。

見なさい。これが、この子が、毛虫君よ。

「何かに一途に努力できる姿はそれだけで美しいのよ! 汚らわしいのは家柄におんぶに抱っこの私たちよ!」

私は何にも知らない。

なぜ私は存在しているのだろう。

なぜ私はここに立っているのだろう。

知りたい。

私は毛虫だ。必死に繭を作っている、ただの毛虫だ。

私は、自分の生まれた意味を知りたい。

眼下の父様は、唇を噛み、猿のような顔をしていた。

ひどく小さく見えた。




 父様と母様は私に何も言わなかった。何も言ってはくれなかった。

私は割れた薬玉くすだまのようになって自分の離れへ向かった。後から女房がついてくる。「御可哀想な旦那様」「少しかたちがいいからって」「頭おかしいんじゃないの」「気が狂いそうよ」次々に羽音が聞こえてくる。

 うるさい。いや五月蠅いうるさいかしら、蠅だけに。聞こえていないとでも思っているのかしら。それとも知ったうえで話しているのかしら。いずれにしても性質たちが悪い。

 さて帰ったら何をしようかしら。そういえば丸虫君の実験がまだだったわね。私の仮説が正しければ丸虫君の動きには規則性があるはず。虫についての書物は全くないから全て自分でやらなきゃいけないから大変なのよね。いつか実験結果をまとめて考察しないと。

「きゃ!」

バスン。

 何かが足元に飛んできた。どうやら袋らしい。文が結び付けられている。とりの方から飛んできた。土塀の向こうから投げ込まれたらしい。私の目の前ちょうどのところに投げてくるなんて中々のやり手ね。そういえば物を投げる時に回転をかけたら安定するわね。あれを利用して矢を射る時に矢に回転をかけたら安定するんじゃないかしら。

 そんなことを考えていたら横にいた若い女房が私に話しかけてきた。

「姫様。いかがいたしましょう」

文がついている以上無視はできない。

「ここに持ってきて頂戴」

彼女はつぶした御器齧ごきぶりを拾い上げるように近づく。そのとき袋の紐が解けた。

「えっ? きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

彼女は袋を放り出した。見ると袋の中からくちなわが首をもたげている。

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!」「たすけてぇぇぇぇぇぇ!」「だれかぁぁぁぁぁぁ!」

そこかしこから悲鳴が上がる。逃げ惑う女房たち。みんな父様の方へ逃げていく。

全く。仮にも侍女なのだから私をおいて逃げるなんて。いざというとき何もできないのだから。

「まあまあそんなに騒がないの。落ち着きなさい」

私は周りの女房に声をかける。

「もしかしたら私の前世の親かもしれないわ」

「なにをおっしゃっているのですか! 姫様!」

みんなは仏典をまじめに読んでいないのかしら。すべてのものは輪廻りんねの輪にのって形を変えるって書いてあったじゃない。これだからうわべだけしか見られない人たちは。すべてのものは回転して、移り変わるのよ。

とはいえ、さすがに蛇を入れるなんてどうかしている。悪戯にしては悪質よ。とりあえず毒があるかさえわからない以上うかつに近づくのは危険ね。

私は懐から扇を取り出し、蛇に近づいた。寄ってみても蛇はピクリとも動かない。見てみるとただの帯を蛇に似せていただけだった。ふふふ。おかしい。中々器用な人ね。

「大丈夫よ。ただの帯だったから。蛇じゃないわ」

私の声に女房たちはほっと胸をなでおろす。

「本当に大丈夫なのですか」「虫に詳しい姫様のおっしゃることなら心配ないわ」「全く誰なのよ! こんなことするのは!」

私は女房たちを放っておいて件の蛇の袋に結ばれていた文を開ける。文にはこう書いてあった。


『はふはふも君があたりにしたがはむ

長き心のかぎりなき身は』


ふふふ。なかなか学のある人のようね。

這ふ這ふ、長きだから蛇ね。蛇ということは男性かしら。確か三輪山の伝説で蛇になった男の人が美女の前に現れるっていうものがあった気がする。いつまでも私を離さない、なんて中々ロマンティックじゃない。まあむしってところが私向けでちょうどいいわ。さて歌を詠まれた以上返歌するのが礼儀よね。そう思い私は近くの書斎にあった紙をさっとつかみ出す。

あれ? あんまりよくない紙だったわ。まあいいか。私は片仮名で歌を詠む。平仮名、苦手なのよね。うねうねしていて書きにくい。また父様に男の真似事ばかりするな、と言われそうね。さてと。

私は歌を詠んだ。


『契リアラバヨキ極楽二行キアハム

マツワレニクシ虫ノスガタハ』


うん。歌は苦手だけど何とか詠めた。さっき私が言った輪廻のくだりをしっかり詠み込めた。待つ我憎し、でちゃんとお断りも入れておいたし、部屋に戻りましょうか。

これは面白いから部屋に持って帰ろう。私は偽蛇を抱いて部屋へと戻った。

今度は蠅一匹たりともついてこなかった。


離れについた。私は小袿と袿、単を脱ぎ捨て袴姿になる。ふう。すっきりした。でも少し寒い。雨のせいかな。

さてなにしよう。そうそう丸虫の実験。蛇のせいで忘れていたわ。

私は丸虫の籠から一匹ひとり選び出す。

よし、じゃあこの子で……。

「よう」

「きゃうん!」

急に背中から声が響いた。男性の声。すぐ後ろにいるみたい。驚いて私はビクンとのけぞってしまった。

ガン。

「うおっ!」

のけぞった時に頭が相手の鼻に当たったらしい。後ろからバタバタとのたうち回る音がする。後頭部が少し痛い。いやいやこんなこと考えている場合じゃない。私は急いで蛇の籠に向かう。良かった。上着を全部脱いでいて。走りやすい。蛇の籠から取り出すのは青大将君。この子に毒はない。頭と尾をもって一気につかみ出す。そしていまだ悶えている侵入者に仁王立ちで蛇を向ける。

「にゃっ、にゃにやつ!」

噛んだ。もういいや。

「今すぐ答えなさい! さもないと」

そう言って青大将君の頭を少し持ち上げる。

ようやく痛みが引いてきたらしい。侵入者は向き直って胡坐をかき、私の顔を見上げてにやりと口角を上げた。整った顔立ちに豊かな黒髪。よはひは私と同じくらいだろうか? 肌は浅黒く、よく外出することがわかる。何より特徴的なのは彼の悪戯味を帯びた眼と口元。例えるならばそう、匂宮にほふのみやだろうか。

「いやいや。そんなに驚かすつもりはなかったんだ。許してくれ」

からかうような顔。けれど不思議と不快じゃない。少し持ち上がった口元には愛嬌があって、少なくとも敵意は感じない。私は青大将君の頭を少しおろす。

「ありがとう。いくら毒がないといっても青大将を向けられるのはあんまり気分がいいものじゃないからねぇ」

私は少し目を見開く。この人、この子の事知っている。毒がないことから名前まで。この人何者なのだろう。侵入者は続ける。

「俺は芥川の上達部かんだちめの息子。お前が虫愛づる姫だな」

「そうよ」

私は答える。青大将君はおろさない。

「貴方は何故こんなことをしたの?」

「はっはっは。面白そうだったからだよ」

「面白そう?」

私は首をかしげる。

「だってそうじゃあないかい? お前を追って離れにこっそり入ってみたら後ろの俺に全く気付かない可愛い女の子がいたのだもの。そりゃあ驚かしたくなるだろう。まあ流石に蛇で脅されるとは思わなかったけどね」

この人は何を考えているのだろう? 可愛いなんてそんな恥ずかしい言葉を恥ずかしげもなく。けどこの人の目に偽りはない。私は青大将君を籠に戻した。ありがとう。青大将君。さて。

「言い訳はわかったわ。で、貴方の本当の目的は?」

彼はからから笑う。

「いやいや、だから言っただろう。お前を驚かすことだってな。せっかく蛇で驚かそうと思ったのに全然驚かないのだもの」

「あれ、貴方だったの? みんな大騒ぎしたのだけれど」

「ははは。知っているよ。見ていたからね。いやあ面白かったよ。君以外は」

「ふふふ。それは残念だったわね」

「だから直接驚かそうとしたのさ。いやぁまさかあんな可愛い声を出すとは思っていなかったけど。ぷっ。『にゃ、にゃにやつ!』って最高だったよ」

「それは忘れなさい」

「まあ本当に驚かしたかっただけなんだ。許してくれよ。俺の虫が騒いだんだよ、絶対におもしろいって」

「で、何故私なわけ? 私なんかよりも可愛い娘なんていくらでもいるでしょう」

「風の噂で聞いたのさ。堤の按察使あぜちの娘に変わった娘がいるって。なんでも虫に取りつかれた美しい姫君だとか。日がな一日ひたすら虫と本を眺めて暮らしていて恰好は乱れてひどくみっともないし、髪はぼさぼさ。歯黒はしない。眉毛も抜かず毛虫のよう。化粧もなし。着物はばばくさい。おかしな姫さんだって」

いちいち癇に障るやつね。私の噂とはいえこんなにずけずけと言われるとむかつく。

すると彼は突然立ち上がり私の前髪のをつかんで私の目を覗き込んだ。彼の黒い瞳が私の眼前を満たす。胡坐あぐらではわからなかったすらりと高めの身長。

近い。

頬が熱くなる。

「けれどそんなもの、気にならないね。こんなに透き通った瞳、俺は見たことがない。他の誰も持っていない、綺麗な瞳だ。……お前の眼には、火がともっているよ」

そういって彼は私の髪から手を放して、背を向ける。この人、ほかの人とは違う。私とも違う。何だろう。こんな体験初めて。

「さて、俺は戻るよ。もうそろそろ騒ぎ始めるころだ。今日は楽しかったよ、ありがとう。また来るよ」

そう言い残して彼は庭へ駆け出し、慣れた動きで外塀を上っていった。私は一人誰もいなくなった部屋にへたりこむ。

本当に時雨みたいな人だ。私の指にさっきの丸虫君が乗っかる。

私がピンと軽く指先ではじくと、彼はまだ熱の残る床の上をコロコロと転がった。




それから芥川の君は私の部屋をよく訪れるようになった。彼は私に何をするでもなく、ただ話をした。内容といえば虫のことと本のことだけ。私自身のことや、まして彼自身のことについては何も話さなかった。

彼はよく私の研究について聞きたがった。

「で、お前はいま何を研究しているんだ?」

彼は私の前に座ってこう問いかける。指で丸虫君を軽く弾いて遊んでいる。さっきまで桜を見ていたのに。私は作業を続けながら答える。

「丸虫君の行動規則についてよ」

「行動規則?」

彼は丸虫君をいじる手を止めた。

「私の仮説が正しければ、この実験は成功するはず……。

っと、できた!」

私は大きな声を上げる。彼は私の手もとをみる。

「何だこれ? 箱か? なんだか敷居がいっぱいあるみたいだが」

私の手元にはできたばかりの実験装置がある。

「ふふーん。これはね。迷路よ!」

「迷路?」

「ここに貴方がさんざんいじめていた丸虫君を連れてきて頂戴」

私は箱の隅、黒く塗ったマスを指さす。

「いじめてはいないよ。一緒に遊んでただけだよなぁ。丸くん」

そういいながら彼は丸虫君を優しく包み、マスの中に入れる。

「よし! じゃあここの板を取り除いて頂戴。私の仮説が正しければ丸虫君はこの板の壁を取り除いたら後は無事この迷路を抜けてこの赤いマスまでたどり着くはずよ」

そういって私は黒いマスの対角線上、赤いマスを指さす。

「本当か! それじゃあいくぞ」

彼は目を輝かせ、板を取り除く。

丸虫君が歩き出す。壁にぶつかる。すると彼は方向を転換する。

右へ、左へ、右へ、左へ。

彼は何度も壁にぶつかる。そのたび彼は歩き出す。自分の足で。自分の意志で。

右へ、左へ、右へ、左へ。

私たちは彼の歩みから目を離せなかった。彼が壁にぶつかるたびに息をのむ。

遅い歩み。けれど彼は前へ進む。

着実に。確実に。堅実に。

そして半刻はんこくかけて彼は目的地にたどり着いた。

彼の小さな触角が細かく揺れた。




「いやぁ、面白かったな。まさか、本当にたどり着けるだなんて。なかなか複雑な迷路だったのに」

丸虫君の壮大な旅からしばらくして彼は口を開く。

「本当に。ほんとうにそうね」

何も言葉が出てこなかった。胸から太鼓の声がする。

「……実験は成功だな。よくやったぞ。丸くん」

そういって彼は丸虫君を迷路から救い出し、彼の甲殻を優しくなでる。

「……私の仮説では丸虫君は障害物に当たると右、左、右、って交互に曲がるの。だから赤いマスへの道は交互に曲がったらたどり着くようにしたのだけれど。本当に、ほんとうにおめでとう。丸虫君」

今は私の表現力の乏しさにただただ後悔するだけだった。こんなことならもっと和歌の勉強しておくのだった。人はこんな時に和歌を詠むのだろう。

いや、今の気持ちは和歌にしてもダメな気がする。別に和歌を悪く言うわけではないけれど、そんなもので言い表したくない。和歌を詠んだら天地あめつちおにがみ、父様に母様まで心がうごいてしまう。

ここにいる三人だけで。心が動かされるのはここの三人だけで十分だ。

彼は私の手を握る。私は彼の手を握り返した。

 



その日、私はいつものように静かに本を読んでいた。

うららかな、包み込まれるような春の日。

この時期が来ると、私は人目も気にせずひさしにうつ伏せになり、目の前に本を広げて読むことが多くなる。そんな時間が好きだ。

鳥のさえずりと、虫の羽ばたきがかすかに聞こえる中で、思うがまま、感じるままに、過去の文人たちと触れ合い、悠久の時を感じる。そんなことをしていると、誰かが頬を優しくなでて、白い紙の上に一輪、目の覚めるような色を添えてゆく。私がハッと顔を上げると、ふわりと優しい花の香りが広がる。風が光る。

風はいつも、私に花を添えてくれる。


「……お前の目には、火がともっているよ」


そんなことを考えていると、急に彼の顔が思い浮かんだ。私はとっさに頭をふる。何を考えているのかしら、私は。恥ずかしい。

あれ? 

どうしてだろう? 

「……分からないわねぇ」

「何が分からないんだ?」

「きゃあ!」

後ろから突然声がした。私は驚き、とっさに距離をとろうと駆けだそうとした。

ゴン。

「いたっ」

不安定な体制での急な高速移動。目の前には紙の山。必然的に紙で滑ってまろんでしまう。右肩が痛い。

「おいおい。大丈夫か?」

この言葉に私は振り返る。

いつの間に来たのだろうか。彼が微笑みながら私の顔を覗き込んでいた。

「……全く。誰のせいだと思っているのよ」

彼はカラカラ笑う。

「いやはや悪かったよ。お前が全く気付かなかったものだから。ほら、立てるか?」

彼はそう言って手を差し出す。

私は彼の手をとり、着物をパンパンと軽くはたきながら立ち上がった。彼がいたずらに目を光らせる。

「……今度は『きゃうん』って言わなかったな」

「…………」

私は無言でにらみつける。

「ははは、そんな顔でにらむなよ。ちょっとからかっただけだろう? ゆるせよ」

飄々とした彼の態度に、私はかぶりをふって溜息をつく。

「……はぁ。全く、貴方のそんなところ、嫌い」

「おお、言うようになったなぁ」

本当に捉えようのない。水、いや風みたいな人だ。

「どこから入ったの?」

私の質問に彼は庭を指さす。

「いつも通り、あそこの塀からだよ。で、お前は何がわからないんだ?」

「……何でもないわよ」

私は顔を背ける。

「おい、何で耳が赤いんだ?」

「っ何でもないわよ。あっ、あれを見て!」

目の端にたまたま見えた蝶を指さす。

彼は目を細める。

「どれだ?」

「ほら、あの躑躅つつじのところの」

 「おお、あれか」

 指さす先には、大きな羽をもった蝶。赤に黄色、黒に青。四色の羽を持つ蝶。

 「そうそう、あの揚羽蝶あげはちょうよ」

 彼は首をかしげる。

 「アゲハチョウ? 聞きなれない名前だな」

 私は少し胸を張る。

 「当たり前よ。私が名付けたんだから。あの蝶はね、花の蜜を吸うときに羽を優雅に上げるのよ。だから羽を揚げる蝶で揚羽蝶」

 「なるほどなぁ。よく考えた名前だな。俺はあの羽の色が鳳凰みたいだから『鳳蝶おおとりちょう』って呼んでいたよ」

 なるほど。そんな考え方もあるのか。彼との会話は私にいつも新しいものを見せてくれる。楽しい。

 彼は続けて言った。

 「あの羽の色。本当にきれいだよな。あんな色の着物でもありゃぁみんな欲しがるだろうに。どうにかしてあの色をとれないかな? ほら、藍みたいにさ」

 私は首をふる。

 「無理よ」

 「どうして?」

 彼は首をかしげた。

 「貴方も実際見てみればわかるわよ。ほら来て」

 彼の腕を引っ張り、くだんの蝶のところへ行く。

 本当にきれいな色。血脈のように複雑かつ優雅な曲線美を描く黒。間には薄くやわらかな黄色。先になるにつれ赤、そして青が浮かび上がる。

 私はその羽を親指と人差し指で優しく摘み上げる。

 「ほら、こんなにきれいな色をしているでしょう。でも、この蝶の羽には色がないのよ」

 彼は怪訝そうな顔をする。

 「お前、何言ってるんだ? 」

 そっと指を離す。蝶は羽をあわてて広げ、私たちのもとを離れていった。

 私は人差し指を彼に見せる。

 「蝶の羽をつまんだら、こんな粉がつくのよ。これが蝶の色のもとよ」

 人差し指は、蝶の粉のせいで真っ黒になっていた。

 「こんな粉がか? あの羽から出たとは思えないが」

 私は首をふる。

 「実際にこの粉を取っていくと、蝶の羽はどんどん色がなくなって、透き通っていくの。後から塗ってみてもダメ、もう元には戻らないわ」

 彼は何か考えるようなしぐさをした後、こう言った。

 「それを全部取った蝶はどうなるんだ?」

 「もう二度と飛べないわ」

 彼はハッとした顔をする。

 静寂。

 躑躅の花が風に揺れる。

 私は続けた。

 「蝶ってこんなに着飾っていて、自分をしっかり持っているように見えても、結局『』なのよね。だから私は蝶よりも毛虫の方が好きなのだけれど」

 沈黙。黙考。

 「……違うな」

 「えっ?」

 突然の彼の言葉に私は少し驚く。

 「……蝶は、羽があるだけじゃ飛べないことを知っているんだよ。だからこそ、大空を舞うために自ら『』をつくったんだ。実際それがなかったら飛べていないわけだしね」

私は首を傾げる。

「それって自分ってものがそもそも存在しないって言っているの? 貴方らしくもない。少なくとも貴方はちゃんと『』を持っていると思うわよ」

蝿や猿と違ってね。

彼は頭を掻く。

「うーん、難しいな。さっき君は言ったよね、蝶の羽は『』だって。けれど、それは意味がある『』なんだよ。たぶん」

なにが言いたいのかよくわからない。

彼はますます頭を掻きむしる。

「だからさ、そもそも『』っていうものは一つじゃないっていうか、変わるっていうか。この透明な羽を『』だって決めたらさ、この羽には世界よりも広い世界、大きさのない世界が宿ってるって考えられないか?」

私は顔を少ししかめる。なにも答えない。

「どんな綺麗な色も、それは『』の延長であって、全くの別物じゃあない。自分の持つ『』がたまたまそう見えただけなんだ。『』はどこにもない、飛ぶために作るものだ。まぁただの詭弁だけどな」

照れ臭そうに彼は笑った。

静寂。

私はなにも答えない。

 本当に彼は、あなたは。

私はふっと微笑む。

 「……あなたはやっぱりわからないわ」

 彼はさっきみたいな顔をして言った。

 「おい、またわからないって言ったな」

 「えぇ。言ったわよ」

 「だから何がわからないんだよ」

 彼が逃げる私を捕まえようと手を伸ばす。

 私は彼の手を逃れて離れへ駆け出し、振り返って笑った。

 「なぁんでもないわよ」

 彼は風のような人だ。




庭の藤棚が色づき始め、見ごろになったころ。私たちはしとねを地面にひろげ、藤花を眺めていた。空から藤に染まった光が降り注ぎ、赤い茵も染まる。青い藤花に染まってゆく。

そんな景色だった。

私はすっかり慣れ親しんだ彼にこういった。

「ねえ。これを見てくれない?」

彼は少しきょとんとした顔をした後、すぐににやりと笑いだす。

「また面白いことを見つけたのか? 今度は何の虫だ?」

「天道虫君よ。ねえ、棒か何か持ってきてくれる?」

私は籠から天道虫君を取り出す。光の中で彼の赤がより強く輝きだす。

『ここにいる。僕はここだ。』

そう言っている気がした。

私は。

パキッ。

彼は近くの木から枝を一本折ってきた。

「これでいいか?」

「うん。ありがとう」

よし。それじゃあ枝を縦にして、天道虫君をここに。

天道虫君は枝に乗った。一番下。最底辺。最下部。

そして、彼は登り始めた。

彼は登る。上へ、上へ。

彼は上る。上へ、上へ。

彼は昇る。上へ、上へ。

着いた。頂き。そして彼は羽を広げる。

飛翔。

紫色に染まった空に、一閃。赤い光が飛んでいく。

周りに染まらず、光り輝いて。彼は太陽のようだった。彼は紫の空を抜け、ひさかたの光の中に消えていった。

「飛んで行ったな」

彼は目をそばめる。

「見えなくなっちゃったわね」

私は息を漏らす。

「いいのか」

「何が?」、

「お前の友達だったんだろう」

彼は白い光を見つめたまま、そういった。

「いいのよ。友達だもの」

静寂。

「……天道虫君はね」

「……うん」

「……天道虫君には、上を目指す性質があるみたいなの。どれだけ下にいても、彼は、ただ目指すの。頂を、空を、天空を、太陽を。ただ上るの。そして頂上に着いたとき、彼は飛び立つのよ。太陽へ。そんな友達を引き留めるなんて、できないじゃない」

ただ相手を守るだけが友達じゃない。それは友情とは言えない、ただの押しつけ。そんなことをすれば私は父様と母様になってしまう。私なんて、私一人でいい。

彼はどこへ行ったのだろう。全く見当がつかない。彼にも分からないだろう。

けど彼には、天道虫君には。

外の光はまぶしすぎて、私は目をつぶった。




暗転。

黙考。

私は何をしてきただろう。

私に何ができるだろう。

私は、私に、私を、私が。

丸虫君は、ぶつかりながらも前に進んだ。

天道虫君は、太陽を見つけ飛び立った。

芥川の君は私に寄り添ってくれた。

私は何を成すのだろう。

私に何ができるだろう。

私の、私しか、私も、私でも。


?。


「お前。いつも何か考えているけど、いったい何を考えているんだ?」

彼の呼びかけに私は目を開ける。彼の目が見える。もう天道虫君の方向を見ていない。

静寂。

「……あなたは、自分の存在に疑問を持ったことってあるかしら?」

沈黙。

「私ね。小さいころは何も考えずに生きていた。幸せな毎日だったわ。父様、母様は私をいつも抱き上げて言ってくれたものだわ、かわいいって。女房も、野守のもりも、武士もののふもみんなみんな、かわいいって。

あれは五つの時かしら。私はその日もいつものようにお庭で一人、まりをついて遊んでいたのよ。歌を歌ってね。でもやっぱり私、小さかったからすぐに失敗してしまうの。その時も鞠が明後日の方向に弾んでいって、ちょうどこの藤棚の方に行ったのよ。今みたいに見ごろになっていたわ。

その時よ。本当にその時なの。私が鞠を拾い上げて顔を上げた瞬間、目の前に蝶が飛んでいたのよ。

 その蝶は、きよらだったわ。いみじくね。。違う。色がなかったというよりも……。ううん色がなかったのよ。

羽が光を受けて曙の雲みたいになったと思えば次の瞬間、夜のように黒く染まるの。羽の模様が浮き上がって、ほたるみたいになっていたっけ。夕暮れのように朱く、つとめての様に白く。

それを見ていると私、突然。本当に突然、自分ってどうして存在しているんだろうって思ったのよ。

手の内にあった鞠は、静かに落ちていったわ。

蝶の羽ばたきも、鞠の落ちていく様も、藤についた露も、光も、風も、音も、さざめきも、揺らぎも、大地も、雲も、私自身も。すべてが見えて、見えなくなった。

そうして鞠が地に着いたとき、蝶はいなくなったのよ。

それからかしら。私が無性に知りたくなったのは。

何かはわからないけど、知りたいって気持ちだけは、衝動だけは、抑えきれなかった。溢れ出るのよ。止められない。蜘蛛が糸を吐き出すように。巣から蟻が湧き出すように。蛞蝓なめくじの粘液みたいに。自分でも時々怖くなるもの、止まらないことが。あふれ出すことが」

目が熱い。袖が濡れる。

「このまま呑まれるんじゃないかしら、このまま囚われてしまうんじゃないかしら。追われる、そう追われているのよ。この先蚕みたいに囚われてしまうんじゃないかしら、あるいは蟷螂いぼじりみたいにべられるのかもね。知ってる? 蟷螂の雄って生殖が終わったら雌に喰われるのよ。両腕に鎌なんてもって、あんなに強そうなのに、最期は尽くした相手に喰われるのよ。……でも駄目ね。これだけやっているのに。

知識を、物事を尋ねてみても、全然見つからないのよ」

彼の顔ももう見えない。わからない。

知らない。わからない。

何も見えない。何も聞こえない。

苦しい。苦しい。

嗚咽おえつ。嗚咽。

「わたしには、わたしがみつけられないの」

沈黙。

静寂。

「……馬鹿だな。お前」

何か聞こえる。わからない。知らない。何も見えない。

「もし仮に絶対的な答えがあったとして。お前、納得するのか?」

彼の顔が見える。何も知らない。わからない。

「その答えは、お前がだしたものじゃないだろ。それにお前は従うのか、蠅みたいに」

知らない。

「お前の瞳は、真を尋ねるんだろう? それなら自分の眼で見て、そのうえで自分で考えないとなぁ」

彼の息がかかる。熱を感じる。

熱い。体の奥に炎を感じる。


「お前は毛虫なんだよ。決して蝗じゃない。

蝗であることに甘んじるな、馬鹿」


瞳が開く。音が聞こえる。鼓動を感じる。風を感じる。藤の香がする。彼の瞳が見える。

あの時の蝶が見えた気がした。




「お前。俺と一緒に東方あずまかたへ行かないか」

彼は米つき虫がはじけるように突然そう言った。

上役うわやくが向こうの土地を治めろって言ってる。俺はお前と行きたい。真を尋ねるお前と一緒に」

私は口を開く。今、私、ひどい顔になっている。心が乱れ染めになったみたい。

「……いいの?」

「何が?」

「私って虫にとりつかれた気持ち悪い女だよ? 化粧はしないし、歯黒もしない。眉も抜かないし、着物はばばくさいのよ? それでもいいの?」

「誰だよ。そんなこと言ったやつ」

そんなことを悪びれもせず言う。

ふふふ。ほんと、可笑しい。思わず顔に柔らかな笑みが浮かぶ。

けれど。

私は袖を見下ろす。うっすらと濡れて染みがついている。

「……できないわ。私には」

彼はとっくに私の髪から手を離し、藤花を見上げていた。

「……どうして?」

私も藤花を見上げる。

蒼みがかった紫色の四角い空。手を伸ばしても届かない。茵も、着物も、私自身も、みんなすべて染まってゆく。

私は隣の彼を見る。やっぱり、私とは違う。

彼には強い何かがある。藤などに左右されない何かが。天道虫君のような、あるいは丸虫君のような。

言葉がついて出る。

「……私は、貴方になれないもの」

沈黙。黙考。

「ばかだなぁ」

彼は私の顔を見つめ、ほほえみながらそう答えた。

「お前が俺になることなんて、できるはずがないだろう。お前はどれだけ頑張ったとして、結局お前はお前なんだから。別に俺にならなくていい。そんなもの、なるもんじゃない」

彼はそう言っておもむろに立ち上がった。

「まぁ、今すぐ結論を出せとは言わないさ。……一週間。俺が発つまでの一週間までに答えを出してくれ。今、お前に必要なのは、俺じゃなくて時間だからな」

彼は私に手を振り、茵の外へ踏み出していく。手を伸ばせばわずかに届く距離。

「待って!」

私はそう叫び、彼の袖を掴もうとした。

袖は私の手からはとても遠くて、届かなかった。




 六日が経った。あの日以降、長雨が続いている。この分では藤花もすぐに散ってしまうだろう。長雨のためか虫たちも離れには全く寄っては来ない。

黴と、埃と、暗い雲と、とめどない水。私のまわりに寄って来るものはこれらだけだった。

彼は私のもとを訪ねてくることはなかった。

私は蔀を閉じきり小袿に包まってただ震えていた。鬼に生まれし蓑虫の様に。

やっぱり、雨は恐い。

無償という名の一方的な押しつけ。神はそこに感謝も強要するというのだから、なお恐い。潰すような、閉じ込めるような、暗く、重い、矢のようにこわい雨。触れるものを錆びさせ、溶かし、褪せさせる、やまひのように怖い雨。

雨はやがて濁流となって、何もかも押し流す。すべてをなかったことに、ただの瓦礫へと強制する。

一閃。雷鳴。

声も出すことができない。許されない。そんな気がした。

こわい。怖い。恐い。コワい。コワイ。

何も見えない。涙も出ない。私は目をつぶる。意識が深くなっていく。考えることもおぼつかなくなってきた。

ただ彼の声が反芻する。


「お前。俺と一緒に東方あずまかたへ行かないか」


思えば、私の人生は与えられてきたものだった。

着物も、知識も、命も、好奇心でさえも、すべて何かから与えられてきた。私を一言で表すとしたらこう言える。

まっすぐ飛んでいるように見えても、回転し安定しているように見えても、結局はただ力を加えられただけ、矢はただ放たれただけだ。

そこに意志はない。全然、全く、一切。

どこに刺さったとして、あるいは途中で折れたとして、その原因は、風や引き手、矢を削った職人の腕、あるいは使った木など、矢以外のところにある。

そして今、彼は私に「選択」を与えた。一切の責任が『私』になった。

ただまっすぐ飛んでいればいいだけの矢に、羽が生えた。

広大な景色、膨大な未来。そこには信じるものも、善も悪も存在しない。

ただ押しつぶされる、飲み込まれる。

見たくない、知りたくない、選びたくない、逃げ出したい。

立ち尽くすこともできない、戻ることもできない。

無情に無常な世界。

私に巻き付いて、離れない。鎖のように、枷のように、蛇のように。

わたしは、どうすればいいの。

なにをすればいいの。

ああ、まっくらだ。みたしているのは、くらやみだ。

もうなんにもみえないよ。

カプリ。

突然手に小さく噛まれたような痛みが走って、私は目が覚めた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。雨音も小さくなっている。

私は自分の手を見る。どこにも噛まれた跡がない。たぶん夢だったのだろう。そう思って私は起き上がる。

ファサリ。

何かが落ちた。細長い何か。

くちなわだ。

「きゃあ!」

私はあわてて飛びのく。いつの間にか青大将君が逃げ出したのかしら。籠はしっかり閉めておいたはずなのだけれど。良かった。首を噛まれていたら一大事だった。そう思いつつ、私は片手に籠、反対側に扇という傍から見れば笑われそうな恰好で近づく。蛇の攻撃は一瞬。油断できない、できるはずがない。

じりじり、じりじり。

蛇まであと数歩のところで私はあることに気付く。蛇が全く動かないのだ。おかしい。蛇は音に敏感だから、雨音を怖がっているのかしら? ならば今が好機ね。

私は一気に距離を詰める。

観察。納得。そして笑った。

いつかの偽蛇だ。

何もかもばからしくなって私は床に背中から飛び込む。

「ふ、ふふ、あっははははははは!」

大きな声で、笑いに笑う。お腹が少し苦しい。私は床を転げまわる。くるしい。でも心地いい。

私は心に身を任せ、部屋を走り回る。机を投げて、花瓶を割る。紙ももちろん放り投げる。虫籠すべて、開け放つ。襖を破って蔀を開ける。雨戸を蹴破り外へ出る。

「うふ、うふふ、くすくす、あはは!」

体が置いてきぼりになる。頭も置いてきぼり。ただ心が望むまま何もかも。

袴と下着一枚で、雨の世界へ飛び込む。理由なんてない。

白い夜。暁かしら。

そんなことはどうでもいい。私はいま、走りたい。裸足で庭を駆けまわる。白い袴が染まっていく。泥に、土に、草に、雨に。どんどんどんどん染まっていく。

蝶が飛んでいる。蝗も跳んでいる。蛇は地を這い、蜘蛛は糸を吐いてまわる。蟷螂も、蝸牛も、蛞蝓も、みんないる。

生きている。

雨が止んだ。

私は大音声で叫ぶ。


「この子はいなご、こちらは毛虫。蝗の伝える現世うつしよの理。変わらざる者ただ空掻くのみ。毛虫の伝える現世の真理。変わりたる者即ち飛ばるべし」


飛び方がわからない? 自分を変えればいいだけの話だ。矢でいることを、止めればいい。


私は毛虫。蝗でいるのは、もうやめだ。




靄が満たす、音のないつとめて。一つの牛車が靄をかき分け進んでいく。芥川の君である。道はぬかるみ、牛の歩みをさらに遅くする。ある屋敷の前に止まる。約束の時間は、あと少し。

静寂。

沈黙。

暁は、とっくに迎えた。朝日も次第に高くなっている。もう、皆が目覚める時間だ。いくら貴族の彼でも、これ以上時間を遅らせるわけにはいかなかった。彼は従者に命じた。

「もう行こう。……彼女は、来ない」

暗く沈んだ重い声、しかしこればかりは彼にもどうしようもなかった。彼は屋敷を一瞥し、去っていった。

「よかった! まだ待っててくれていたのね!」

不意に上から明るい声がした。珠を転がすような声。ちょうど牛車が、屋敷の離れすぐ横を進んでいる時だ。

彼は驚き、牛車の窓から身をよじりだす。

土塀の上に、虫愛づる姫君が立っていた。

びしょ濡れで乱れに乱れた黒髪。泥だらけの顔。羽織っただけの螽斯の小袿から覗く袴は白と茶色が入り乱れた大変汚い代物だ。手足には多くの擦り傷。

およそ姫とは言えない姿。けれど、まぶしい。蓮のよう。

彼女はを体現していた。

姫は白い歯をみせ、にかっと笑った。

「ねえ! そこにいて。今から飛ぶから!」

私は大きく宣言する。ふふふ。彼があわてて車から飛び出してきた。車の後ろから出てくるなんて。あんな不作法、よっぽどね。

彼まではだいたい五尺くらい。地面までは十尺ほど。

無謀。

その一言に尽きるわ。

でも、それでも私は。

助走をつけるため、少し後ろに下がる。

翔ぶためのコツなんて、もう知っている。

疾走。踏切。跳躍。

彼女は蝶の様に、翔んだ。

雑音。

猿の怒号、蚕の悲鳴。色んな声がする。何だっていい。




衝撃。

私は痛みの中で目を開ける。誇らしい痛みが私を満たしている。

何とか生きているらしい。良かった。

意識がはっきりしてきた。私以外のぬくもりを感じる。

私は彼にのしかかった体制でいた。彼は飛びこんできた私を受け止めてくれたらしい。

暖かい。けど少し熱い。

彼は私の顔を見つめ、思いっきり破顔する。

「おいおい。こんなのは勘弁してくれよ。全く、とんだお姫様だぜ」

私も笑い返す。

「うふふ。お互いさまよ」

彼は少し身をよじって言った。

「もうそろそろどいてくれないか。いくらお前が可愛くても、流石にきついよ」

「あらっ! ごめんなさい」

私は彼の言葉に顔を真っ赤にして飛びのく。また可愛いって言った。恥ずかしい。

彼は手で汚れを払いながら、胡坐をかいて、私に笑いかける。

「その様子じゃあお前の答えは決まったらしいな。前より火が強くなっている」

彼のことばに私は大きくうなずく。

「ええ。おかげさまでね。私、あなたについていくことにするわ」

彼は私の目をじっと見つめ、こう言った

「うん、やっぱり。お前は笑っている顔が一番愛おしいよ。大好きだ」

脈絡のない彼の言葉に、私は顔を赤くしたり黒くしたりする。

「はい? だっ、大好きだなんて。あなたはいつも恥ずかしい言葉を恥ずかしげもなく」

彼はいたずらな目をして続ける。

「本当の事なんだから、別にいいだろ。初めて見たときから、お前には笑い顔が一番似合うと思っていたんだ。そのきれいな白米みたいな歯。かわいいよ」

「もっ、もう知らない!」

私は彼から顔を背けようとした。

不意打ち。

いつかの様に彼は私の瞳を覗き込む。

目の前には私を変えてくれた人。

繭から解き放ってくれた人。

近い。

熱い。

暖かい。

彼は口角を上げる。

「嘘じゃないよ。好きだ、大好きだ」

口を開こうとした私の唇に彼は指をあてて、続ける。

「そういえば俺の真名まなを言っていなかったな。俺の真名は右馬佑むまのすけだ。これからよろしく。……さて、俺にお前の真名を教えてもらえないか」

真名を異性から明かされる。その意味くらい、わたしでも知っている。

押しつけのような彼の気持ち。あいかわらず、時雨みたいな人。

彼は指を離した。答えなんて、決まっている。

「……燦羽きよは。燦羽と申します」

小さな天道虫はようやく太陽を見つける。

「わたしを、これからもずっと。

……あなたのそばに、いさせてください」




籠にとらわれし蝶はようやく飛び立つ。

鱗粉のきらめきを残し、羽を広げて。

和歌などだれも詠みはしない。

続きのない物語が今、始まる。

なにも知らない藤花ふじばなは風に。

花弁が一枚、太陽に消える。

色なんてなかった。



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いろなしのてふ カメジャ @kameja

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