旗の道

美鶏あお

旗の道

 いったい都市伝説というものは、人々の口の端に上らなくなった時はどうなるのだろう? 最初から無かったもののように消えてなくなるのだろうか? 

 本社のある市内から、山ひとつ越えたところにあるM市の支店へ。月に何度か行き来していた当時の私はそんなことを考え、何とも言いようのない不安に襲われることがよくありました。というのも、山中の道を抜ける途中、何気なく目を上げると、鬱蒼と繁る木々の間に赤い旗らしきものを見つけることが度々あったからでした。


『山の上の塔に赤い旗が立っているのを見た人は、幸せになれる』


 確かに尖塔の屋根らしきものも一緒に、チラチラ見え隠れしています。

 つきあっていた女性にプロポーズをし、OKをもらった、丁度その頃のことです。もしかしたら幸せとは結婚のことを差しているのだろうかと考えもしましたが、周りの誰に聞いても旗など見たことがないと言うし、そもそもが赤い旗にまつわる言い伝えを知っている者も一人としていませんでした。


 花か何かを旗と見間違っているのかもしれない。最初のうちはそうも思いました。しかし、次第に私は自分が幻でも見ているような気持ちになってきました。なぜなら、山中の赤い旗は目にする度に輪郭がぼやけ、色が滲み、重なり合う梢のなかに溶け込んでいくのがわかったからです。

 私は亡くなった祖母を思い出しました。臨終を迎えようとする彼女の薄く開かれた両目から少しずつ光が失われていった、あの時のことを。今やほとんど消えかけている旗の風景に、私は死に行く者を目の当たりにした時と同じ、畏怖の念に近い恐れを抱いたのです。


 ──自分さえ見なければ……。忘れてしまえばきっと、赤い旗はこの世から消えてなくなる。都市伝説なんて、所詮はそんなもんだよ。


 私は自分自身にそう言い聞かせ、それからは山の道を通る時は視線を正面に向けたまま、決して動かさないよう心がけました。旗が無くなったかどうか、どんなに確かめてみたい誘惑に駆られても。そうして半年が無事に過ぎた頃、他県の支社への異動の内示が出ました。

 お盆休みが終わってすぐのその日は、例の山道を通るのも今日が最後という日でした。ハンドルを握っていた私は突然の眩暈に襲われ、慌てて車を道路脇の待避スペースに停めました。


 ──しまった!


 心のなかで叫んだ時には、すでに遅し。私の目は夏山の濃い緑のなか、ポツンと覗くあの赤色を見つけてしまっていました。

 そう、旗はまだそこにあったのです。あたかも揺れる水面に姿を映してでもいるように、それはぐにゃりと気味悪く歪んだ形をどうにか保っていました。

 奇妙なことが起こりました。旗があり得ないほど近くに見えるのです。すぐそこの斜面を上り、獣道を十五分も歩けば辿り着けそうなほど近くに……。


 ──行かなければ。


 私のなかにそんな衝動が、抑えようもなく込み上げてきました。どうしてもこの目で旗をはっきり見てみたい。見ずには帰れない。


 冷たく湿った空気が、背中に重くのしかかってきます。自分はどこをどう歩いているのかまったくわからないのに、何かに引かれるよう踏み出す一歩一歩に迷いがまったくないのを感じます。

 時々、足を止め視線を上げる先には、木立の間に旗が見え隠れしていました。形さえあやふやになっていたはずが、近づくにつれ、次第に色を濃くしていくようです。もっと鮮やかだと思っていた赤が、錆を思わせる暗い色に変わっていきます。

 ついに一軒の廃屋の前に出ました。思いのほか小さな木造の洋館です。何やら肩すかしをくった気持ちになったのは一瞬で、扉に渡された二枚の板にめちゃくちゃに打たれた何十本という釘に気づいた時には、ぞっと肌が粟立ちました。それは侵入者を拒むというより、館から出てくる何者かを封じ込めているように思えたからです。

 と──私は強烈な誰かの視線を感じて、総毛立ちました。

 上です。毛穴という毛穴から汗が噴き出るようなおぞましい気配は、私の頭上から落ちてきます。私はそろりと顔を上げました。

 旗が見えました。

 いいえ……、それは旗ではありませんでした。

 窓です。尖った黒い屋根の尖塔の窓が赤いのです。

 いいえ、赤く塗られているのではありません。

 いったいどうして、私はあれが旗などに見えたのか?

 顔が……。窓ガラスにぺったりと押しつけられた血だらけの異様に大きな顔が、私を見下ろしていました。私の舌は痙攣し、喉が引き攣れ、悲鳴上げることさえできませんでした。

 その後のことは、よく覚えていません。気がついた時には、私は車のなかで丸くなって震えていました。




 あれから一年。お盆休みを来週に控えた今日、私は本社に顔を出しました。顔見知りの社員たちが催してくれたささやかな再会の宴の席で、時節柄、怪談話を披露しあうことになりました。すると、真っ先に女子社員の一人が身を乗り出して囁きました。「ねぇ、赤い旗の話、知ってる?」と。


「知ってる、知ってる! お隣のM市に抜ける山道から見えるってやつでしょ?」


 なんと、あの頃、私以外の誰も聞いたことがなかった話を、その場にいる社員全員が知っていたのです。首筋に冷たいものが這い上がってきました。私は自分があの恐ろしい顔を見てしまったばかりに、消えかけていた話に新しい血肉を与えてしまったような気がしたからです。


「私も知ってる。赤い旗、見ちゃった人は死ぬんだよね。一年後の同じ日に」


 その時──。

 私は自分を見下ろすあのおぞましい視線をはっきりと感じました。

 そこにいた全員が一斉に私を見ました。私の口からは、一年前のあの時には上げられなかった悲鳴が迸るように溢れていました。

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旗の道 美鶏あお @jiguzagu

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