後日

 一つ思い出した事がある。十年以上前、近所の一軒家で火事があった。ちょうどあの交差点の辺りだ。平日の昼間に燃えたので、学校に行っていた僕 が帰る頃には鎮火していて、焦げ臭さと煙たさだけが流れてゆくことなく、 町内に留まっていたのを記憶している。子どものいない夫婦が二人で暮らしていたはずだった。今振り返ると、近所付き合いはあまり良くなかったのだろうが、挨拶すれば返してくれた。あの火事以降は姿が見えなくなり、今は別の世帯が家を建てて住んでいる。基礎工事が始まったのを知って、よく住めるもんだなあ、と苦笑いした覚えがあった。

 インターネットで、あの火事の事を調べてみたけれど、それらしい報道記事などは無かった。随分前の話だから出てこないのも当然だろう。しかしどうしても気になった僕は、親に尋ねてみることにした。父はあまり記憶にないようだったけれど、母親は当時のことをかなり鮮明に覚えていた。

 「あの時はこの辺、すごい騒ぎだったから。消防車が三台も四台も来るんだけど、全然火の手が弱まらなくて。よく延焼しなかったよね、お隣との境に結構スペースあるからだろうけどさ。奥さんパートに出てたから、タクシーから真っ青になって降りてきて、煙吸うと危ないって言ってるのに家の前まで近づいて。そしたら目の前で、崩れちゃったのさ、家。あれは可哀相だったけど......」

 まるでサーカスでも観たかのような母の感想にやや辟易させられるが、今頃になって話題を掘り返す自分も自分かと頭を掻く。それに、肝心なのはそこではない。

 「ちょっとアレだけどさ、いるの、亡くなったのって......」

 僕の問いかけに、あんまり根掘り葉掘り訊くもんじゃないよと顔を曇らせつつ、母が答えてくれた。

 「家が崩れたんで遺体は滅茶苦茶だったらしいんだけど、旦那さんと、うん」

 思わず喉を鳴らす。やはりあそこで人が亡くなっていたのだ。どうしてこんな事を忘れていたのか、と思ったが、葬式には親だけが行ったはずだし、どこか触れてはいけない空気だったから、そもそも知らされていなかったのかもしれない。じゃあ火元は、と訊いたら、煙草の不始末か漏電だと言う。

 どうも認めざるを得ないらしい。あの晩のあれはまあ、『出た』ということだろう。こういうの、お祓いとか要るのだろうか。

 しかしふと引っかかった。聞いたのは男性の声ではなかったはずだ。

 「旦那さんだけ」

 問いかけを受けて、傍で聞いていた父が、あ、と声を上げた。何かを察した母がすばやく首を振ったように見えたが、父は合図に気づかない。

 「思い出した。そうだ、脚だけの」

 喉の奥に灰でも詰められたような気分だった。脚だけ?

 背筋がいやに湿っていた。母は、言わなくていいのに、と父を睨みつけてから、どうしてそんな事今更、と僕を問い詰めたが、返事に窮して黙っているしかなかった。口内がひどく乾き、冷えすぎた手の平は腕に接続された異物のようだった。そうしてしばらくの間、誰も何も言わずにいたが、やがて父が申し訳なさそうに言った。

 「不倫相手の......」

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