捨てるな

冴草

捨てるな

 夜中にふと、歩きたくなる時がある。そんなに遠くへは行かなくていい。家の中にいると、どうしても息苦しくて仕方ない、という気持ちに見舞われることがあって、だいたいは夜も更け、同居する家族が就寝してからである。

 そういう時は自販機に行くことにしていた。自宅から程よく離れた範囲に分布しているし、大概は通りに面した場所にあるので、明るくて遅い時間でも車は通る。怖がりな僕でも、暗がりにいちいち怯えることはない。

 持ち物はごく限られているから準備も早い。思い立って二分もしないうちに、僕は家を出ていた。もちろん施錠は忘れずにする。こんな郊外の住宅街ではあるが、用心に越したことはないだろう。

 盆もとうに過ぎた夜であるから、風が吹けばやや涼しくも感じるが、半袖のシャツで表に出ても肌寒いというほどではない。土の香りの強い空気を深く吸い込むと、玄関の前で少し考えて、交差点のほうに歩き出す。この時間の散歩で、よく利用する自販機は二つある。裏通りを抜けた先の、マンションの駐車場に一つ。それから交差点を一つ曲がって大きな公園の前を通り、二つ目の交差点を過ぎると見えるものが一つ。前者は別々の飲料会社のものが二台並んでおり、後者は一台だけしかない代わりに全品百円だ。今日は全品百円の方へ行くことにした。金に余裕があるわけではないし、そちらにしかメロンクリームソーダは売っていない。今夜はメロンソーダの気分だったのだ。

 一本煙草を取り出し火を着けた。吸い始めたのは最近だが、着火の際の動作にもさほど不自由を感じなくなってしまった。大分慣れたということで、 裏を返せば、既にそれだけ依存している、ということだ。通りには当然人の気配はなく、時折タクシーが走っていくだけである。煙を吐こうが文句を言う者も、吸わせたくない相手も――子どもやお年寄りなど――皆無だった。ゆっくりと肺まで吸い、薄い煙を吹くと、そばから風に紛れて消えていく。 色んな不都合、色んな不幸がこんなふうに溶けていけばいいのに、と珍しく感傷的な思いに耽る。邪魔するものは何もない。だからこの時間が好きだった。

 一つ目の交差点を右へ折れる。ゆるい下り坂になっていて、ずらりと並んだ街灯と、そのずっと向こうの国道の明かりが見える。いつの間に雨など降っていたのか、あちこちに水たまりができていることに踏んでから気づいた。一歩進むたびにスニーカーの底が立てる物悲しい音は、湿った空気も手伝って、水族館のイルカを思わせた。一体、誰を呼んで啼く声なのか。

 歩きながら、煙草を銜え、吸って、煙草を口から離して煙を吐く。まだ歩く。公園の林を通して覗くベンチ、テニスコート、足元の割れた梨の実。蹴っ飛ばすと飛ばずに砕けてしまった。一本目の煙草がフィルターまで燃えた時、ちょうど二つ目の交差点を渡った。前方に、住居や街頭の放つ明かりとは異なる、ダイオードの白すぎる光が目に入る。あれが目当ての自販機だ。

 吸い殻を灰皿に仕舞う。のんびり歩くのがなんだかまだるっこしくなって、自販機に駆け寄った。ポケットをまさぐって硬貨を引っ張り出し、メロンクリームソーダのボタンを押し込むと、下部の取り出し口から、夜の町には少々喧しすぎる音を立てて缶が転がり出た。取り出し口の蓋を持ち上げて缶に触れると、びっくりするほど冷たい。掴むのを躊躇するほどだ。

 口のほうを指先で鷲掴みにして、一旦歩道の縁石に置く。煙草の箱から二本目を摘み出し、火を着けてからメロンソーダを再度持ち上げた。この短い時間でもスチールの表面は汗をかいていて、ちょっと不快だが仕方ない。元来た道を、先程よりは足早に戻った。

 煙草を銜えて吸い、吐く。口から噴出する煙は拡散しつつ、大気に真っ直 ぐな線を引いて消えてゆく。粉々になった梨、公園のテニスコート、木々の 向こうのベンチを眺め、初めの交差点を曲がる頃には、煙草はかなり短くなっていた。ここで消してもいいだろう。どうせ家の中では吸わない。

 屈み込んで缶をまた置き、アスファルトにぐいと押し付けて火種を潰す。 そこで、ん、と違和感を覚えて固まった。

 前屈している自分の両脚、その間に、二本のがさがさした棒きれが突き立っているのが見える。誰か別人の脚が。

 真後ろ、密着するほどの近さ。

 頭が真っ白になり、地面に片手をついた格好のまま動けない。さっきまで通りには、誰の気配も無かったはずだ。人が歩けば物音ですぐわかる。なのにこの距離に何故か人がいる。

 「捨てるな」

 背中から声が降ってきた。女の声だと思った。その両脚から受ける印象とよく似た、妙に嗄れた声だ。姿勢のせいで頭部に血が上っているはずなのに、頬から血の気が引いているのがわかる。首から額へ逆向きに伝ってくる汗を感じながら、一つ気づいた。この脚、ただがさがさしているのではなく、いるのではないか?

 「捨てるな」

 はっと思い至り、ゆっくり身を起こす。さっきまでと打って変わってとても寒い。寒気が止まらない。取り落とさぬようフィルターを摘む左手に力を込めた。右手で携帯灰皿を取り出そうとするがうまくいかない。息が荒くなる。視界に縞が走る。

 なんとか灰皿を出して蓋を開け、震える指でその中へ吸い殻を押し込んだときには気配は消えていた。怖気に肩を突かれて振り返った。そこにはもう誰もいなかった。

 家へ一目散に帰った。玄関に灯った明かりがこれほど心強く思えることはなかった。ドアノブに手をかけて引いたら開かず、余計な事をした自分に腹がたった。解錠し靴を脱ぎ捨てたときにはもうメロンソーダなど飲む気にならず、冷蔵庫に缶を突っ込んですぐさま布団へ潜った。歯磨きすらしなかった。鏡の前に立った時、何かが後ろにいたら取り返しがつかないと思った。

 その晩以降、何が起こるわけでもなく、僕は普通の生活に戻った。夜も時々散歩した。ただ、回数は減ったし、あの自販機には足を向けなかった。

 まだしばらく行く気にはなれない。冷蔵庫に仕舞ったメロンソーダは弟に飲ませた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る