第2話 おわり

 わたしたちの逃亡生活は、おそらく多くの人の想像とは違って、かなり禁欲的ストイックだと思う。

 仕事が終われば、とにかくひと目を避けて、足取りを消して、気配を消す。とにかく、世から隠れて過ごすのだ。

 男だ酒だ服だ装飾品だと享楽に耽り、得られた金を何も考えずに浪費していたら、わたしたちの旅は間違いなくすぐに終わっている。

 

 今回の仕事は、結局、追手がくることは全くなかった。

 ここまで何事もなく、慎重に盗難車を乗り継ぎ、十数年前に打ち捨てられた無人の廃墟の街に来ていた。

 ここは、比較的構造がしっかりした家が残っており、車を隠す場所もある。

 主要な街道からは大きく外れているので、運悪く偶然見つけられる可能性は低い。

 前にも一度来て、彼女と過ごした場所だった。

 動くもの一つもない無音の死の街に、私達が乗る目立たないことだけが取り柄の凡庸なコンパクトカーが滑り込んでゆく。


「帯封を切るの、すっごく久しぶりだわ」

 何度も何度も念入りに札の束を改めながら、彼女は嬉しそうに言う。よほど嬉しかったらしく幾度も繰り返している。

 今回の仕事の成果だ。

 慎重に慎重を重ね、車を隠し、決めていた廃屋に入り込み、ようやく人心地ついたあとだった。

「これだけあれば、しばらくゆっくりできますか」

 彼女が喜んでいるとつい嬉しくなってしまう。

 わたしたちは、浪費家ではないが、それでも逃亡生活を続けていると金がかかる。

「そうだね、しばらくは危ない橋をわたらなくて済むかもね」

 もちろん新札はそのまま使えず、なんらかの資金洗浄ロンダリングが必要なのでそれなりに目減りはするが、それでも、しばらく気配を消して二人で過ごすには充分な額だった。

 わたしは、見知らぬ他人が死んでしまうことにも、自分が死んでしまうことにも抵抗はない。

 ただ、今の生活が終わってしまうことだけを恐れている。

 だから、なるべく仕事はしたくないし、してほしくはない。

 そんなわたしの心中を読んだかのように彼女は、

「言いたいことはわかるよ。

 でも、おれたち、たぶん同じところには居続けられない」

「うん」

 わたしはそう返すしかない。

 わかっている。

 もう、わたしたちにはこの国に居場所はないだろう。

 遠くに、外国に行き、誰も知らない街で、すべてを忘れて二人で暮らせたら、とも幾度も思った。

 わたしが働いて、何をしてでも金を稼いで、ただ二人ずっと静かに過ごせたら、本当に幸せだと思う。

 でも、それがもう叶わないことも知っている。

 わたしたちは、この国の辺境で自由にやりたい放題をしているのではない。封じ込められて逃げられないのだ。

 もう少し人の多いところに出ていたら、すぐに捕まってしまうだろう。

 捕まれば二人とも間違いなく最高刑だ。

 死刑か、死刑のない地方政府なら終身刑だろう。

 辺境の治安維持機構や地方政府を小手先で出し抜けたとしても、結局国家の手の上からは出られない。

 それでも逃げ続けなければ、明日はない。


 彼女は、ほかはすべて完璧なのに、言葉だけは悪かった。

 わたしは、それは周囲に育ちが悪いことにしておいて出自を隠そうとしているのでは、と思ってはいたものの、詳しい事情を尋ねることはなかった。

 彼女はわたしを抱く前には、いつもわたしが知らないスラングでわたしの容姿を褒めてくれるのだ。

 榛色ヘイゼルの瞳はわたしを一切顧みなかった父親から。白が強く力のない金髪は、いつのまにかいなくなった母親から、だった。

 自分の容姿は好きではなかったが、彼女に理解できない語で褒められるときだけは誇らしかった。

 それは不器用な感じがして、とても好きだった。


 彼女は、わたしをしばしば激しく抱いたが、その夜は特に強烈であった。

 彼女と出会うまで、同性とのセックスは未経験であったけれども、わたしは嫌だとはまったく思わなかった。

 主導権は一度だってとれたことはない。一方的に翻弄されるばかりだった。

 時には情熱的に強く求められ、時には嫐るようにひどく陵辱された。

 気持ちを両極に揺さぶって弄ばれているという思いはあったけれども、わたしはとにかく嬉しかった。

 彼女の気まぐれで不安に追いやられたときの気持ちさえ、宝物だと思った。

 行為のあと、添い寝をしながら彼女の暖かさを肌で感じられるだけで心は満たされた。

 無防備に眠る彼女の柔らかな頬に手を添えるだけで、嬉しさに感極まって涙をこぼした。

 彼女は、破壊衝動が抑えられないわけでも自暴自棄になっているのでもない。

 ただ、何かの掛け違いで、最初にそうなってしまったから、その延長線上で必死に生きようとしているだけだ。


 わたしは、やっぱり、このひとが、とても好きだ。大好きだ。

 わたしは、どこまでいっても、あなたとともにありたいです。


 目を覚まし、すぐに異常な雰囲気に気づく。

 彼女はすでに仕事着としている紺のサマードレスへ着替えており、窓の側から慎重に外を伺っている。

 まだ時刻は早い。日が登る前だ。

「街の外に設置しておいたセンサーが潰された。

 それも、北と東の複数方向がほぼ同時に。

 この手際は……、流石に国軍はないだろうけど、地方軍が出張ってることくらいは覚悟しておいたほうが良さそうだ」

「そう、なんですか」

 わたしは、絶望的な情報を聞きながら、ただ彼女と一緒に死にたいとだけ思った。

 でも、合理的な彼女は、危機が迫ったときにわたしを囮にして逃げることを躊躇わないだろう。

 もちろん、わたしはそれでいい。

 むしろ、見ず知らずで何のゆかりもないわたしを、あの閉じた街から助けてくれたのは、そのためだろうと思ってすらいる。

 わたしは、彼女がいなければ生きられないが、彼女は、わたしがいなくても生きていける。

 彼女が、少しでも生き延びられるのなら、命なんか惜しくもない。

「まだ状況は想定の範疇内にあるから、大丈夫だ。

 陸路は潰されたけれども、海に出ればいい」

 彼女は、大抵のことは出来る。多くのことを知っている。

 そのうえで、あらゆる準備を施している。

 そうでなければ、今まで生き残れなかっただろう。

 この見捨てられた街にも、おそらく、様々な仕掛けが仕込まれているに違いなかった。

「船に乗るの?」

「準備はしてある。小さなモーターボートだけど、相手が備えてなければ充分逃げられるはず」

 このあたりは、小さな砂浜がある他は険しい岩場ばかりで、ちいさな漁船でも運用が難しい場所だった。

 たぶん、今回も大丈夫だろう。きっとうまくいく。

「向こうが待ち伏せでも強行突入でも対抗策は用意してある。逃走経路もあといくつかは準備がある。

 言うことをちゃんと聞いて間違えず動いてくれれば、まだ、生き残れる」

 窓の外から見えないように充分慎重に、わたしを抱き寄せる。

「わたしに出来ることなら、なんでもやります」

 わたしは、本当になんでもやる気だった。けれども。

「最悪、お前だけは逃すから。

 おれが死んだとしても、お前だけは生き延びられるようにする」

 彼女の言葉に違和感を覚えた。

 そこは、お前を犠牲にしてでもおれは生き延びるからな、だよね。わたしのことなんか、は顧みなくていい。

 とにかく、わたしたちは生き延びるために必要なあらゆる算段を開始した。


 彼女は撃たれた。

 意識のない彼女を背負い、わたしは必死に海を目指した。

 敵の動きは止まっていた。街を大きく包囲したまま動きはなかった。

 いつまで止まっているかはわからないものの、今のうちに少しでも逃げておく。

 わたしたち二人は、銃弾が体をかすめたことや髪の一部を焼かれた程度なら無数にあったが、身体器官の機能を損なうような損傷を受けたのは初めてだった。

 左の二の腕を打ち砕かれていた。骨も重大な損傷を受けているようだが、正確なことはわたしには判断できなかった。

 わたしたちが唯一の頼みとしていた彼女の利き腕が打ち砕かれたのだ。

 運がとにかく悪かった。

 砂浜に出るまでの経路は充分目立たないものであったし、海に出てしまえば、岩場の陸側からは見えない位置に逃走用のモーターボートがあるはずだった。

 でも、夜明けを待たず動いたら、一番最初につまずいた。

 きまぐれなたった三人の偵察部隊と、お互いにとって想定していなかった遭遇戦となり、すばやく無力化はできたものの、引き換えが彼女の左腕だった。

 わたしは、気を失っている彼女を背負い、とにかく海の方に向かう。

 ひとつだけ、明るい情報もあった。

 わたしたちを包囲していたのは、想定していた正規軍などとはまったくない、ただの縄張りシマ荒らしを許さない地元無法者ギャングたちだった。

 だったらなおさら、もっと楽で安全なやり方もあったはずなのに。

 後悔しても全ては既に遅い。


「三人。でも、多分最後」


 耳元で、撃った回数を知らせる声が聞こえた。彼女が意識を取り戻したのだ。

 声を聞けたことに安堵の気持ちはあったが、同時に、その声はあまりにも力が無く、すべての終わりを予感させた。


「うん。三人。これで、二十六」


 わたしは、いつものように、今まで彼女がわたしのために撃ってくれた回数を返す。

 動揺を押し殺して、なるべく感情が漏れ出ないように。


「腕がもう動かない。

 骨が砕けてるみたいだ。発熱もこれからひどくなる」


 息も絶え絶えであっても、彼女はゆっくり、自分の意志を口にする。

 布をきつく巻いただけのわたしの応急手当は、おそらくあまり役にたってはいない。

 彼女の血が、わたしの背中を無慈悲に濡らしてゆく。


「銃は、おまえが持っていて欲しい。

 撃てないかもしれないが、それでも間違いなくなにかの役には立つ」


 彼女が眠るときでさえ決して手放さなかった銃は、既にわたしの右手に収まっている。

 血は、わたしを汚すに飽き足らず、砂浜に滴として落ち、延々と軌跡を描いていた。

 追ってくる敵を誘導してしまうことは判っているが、どうにか出来る余裕はない。

 幸い、敵の集団としての統制は極めて甘い。

 遭遇戦があったことすら把握しているか怪しく、今の所まったく動きがない。


「うまくすれば、逃げられるかもしれません」


 わたしは気休めではなく、状況を分析してそう思った。

 彼女の意識が回復しただけで、わたしの背中はだいぶ軽くなった。

 背負う形は変わらないものの、彼女も自分の体重の一部を足で支えてくれるようになったので、進みは格段に速くなった。

 船にたどり着けさえすれば、逃げられる。

 外洋には出られないおもちゃのような船でも、当面の危機を乗り越えることは出来るだろう。

 彼女だけが生き残るか、二人で生き残るか、二つの道しか意味はない。


 ようやく。

 二人のもつれる足で届いた海岸線コーストラインだ。


 わたしたちの逃走は、予定外に遠くなってしまった砂浜をようやく踏破した。

 あとはこの海岸線を踏み超え、海を泳ぎ岩場の船までたどり着くだけだ。


「ここまで、だな」


 彼女は、わたしの想いなど関係なしに、わたしの背から勝手に降り、濡れ締まった砂の上に尻もちをつくよう座り込んでしまう。


「塩水でこの傷口洗ったら、間違いなく意識をなくしちまう。あと海の中を百メートル、見込みが甘かった。

 お前に迷惑を掛けてしまう」


「わたしのことは、どうでもいいんです」


 わたしは、すごく嫌な予感がした。

 様々なものが緩やかに壊れ始めた気がした。


「そんなこと言うな。

 おれが、仕事をするとき、必ず同じ目立つ格好をしている理由を知ってるか」


 違う。

 いくら撃たれて傷を負っていたとしても、こんな弱気に、心の内をべらべら喋る人じゃないはずだ。


「おれがこの格好で死ねば、お前が生き残っても、すべて死んだおれのせいに出来るだろう」


 そんなくだらないことを満足気に言う人じゃないはずだ。


「わたしは、服装を極端に印象づけることで、身代わりを使えるようにするためだと思ってました。

 ……例えば、わたしを。わたしの死体を残せば、だけは逃げられる」


「それはないよ。

 おれは、おまえのことを大切に思っている」


 違う!

 彼女は、したたかで、酷薄で、計算高く、わたしのことなど気にも留めない。留めるはずがない。留めていいわけがない。


「初めて遭ったときのこと。よく覚えてる。忘れるはずがない。

 世の中のどうしようもないバカに壊されていて、それでも、社会に囚われて壊され続けるしかなかった。

 昔のおれをみているみたいだった」


 違う! 違う! 違う!!

 彼女が、わたしと同じであっていいわけがない。

 彼女なら、わたしのような愚かでみすぼらしい存在など、嘲弄し利用し尽くさなくてはならない。


 わたしは、死ぬのは全く怖くない。殺されても、捕まって今更どんな目に遭おうとも、全く何も感じない。

 ただ、彼女が彼女で無くなるのだけが、この世の中で唯一耐えられない。

 彼女が、わたしという汚れた不快な生き物と同じであって良いわけがない。


「だから逃げろ。お前だけでも逃げてほしい。

おれを置いて船に行け。

 あいつらもおれさえ捕まえれば犯罪組織ギャングとしてのメンツは立つだろう」


 水平線から滲んだ薄明が、藍色の闇を急速に溶かしてゆく。

 まもなく夜明けだった。


 言ってはいけないことを、彼女だったものは口にしてしまった。

 否。

 思ってもいけないことだった。

 ほんの前まで、これは彼女のに。

 今はどこにもいない。居なくなってしまった。


 彼女の抜け殻の顔が、どうしようもなく蒼白で弱気にみえた。

 彼女ならあんな表情かおをするわけがない。

 自信と知性に溢れ、どんな窮地だってものともするわけがない。


 わたしは。

 わたしは、この、不愉快なぬけがらを、わたしが、彼女を取り戻すために、わたしが、なんとかしなくてはならない。

 彼女なら。

 彼女なら、この不快な彼女の形をしたぬけがらを身代わりに追っ手に差し出して、彼女なら、稼いだ僅かな時間でも隙なく有効活用して生き延びる。

 彼女は、わたしがなんとかしなくてはならない。


 彼女が、ぬけがらになってしまったのならば、わたしが、中身を埋めなくてはならない。


 わたしは、あのひとが、とても好きでした。大好きでした。


 夜明けの海岸線サンライズコーストラインの上で。

 わたしは、生まれて初めてひとの形をしたものに銃口を向けた。


 わたしは、彼女がいなくてはもう生きられない。

 でも、彼女は、一人で生きていける。生きていかなくてはならない。

 だから、ここでいなくなるのはわたしだ。

 ここから逃げおおせるのが彼女だ。

 彼女がのならば、わたしが代わりをするしかない。


 あなたが駄目なら、わたしがなんとかする。

 あなたが駄目なら、わたしがあなたになる。


 いとしいひと、わたしは、どこまでもあなたです。


 額を銃口で押されてわたしと目があっても、は怯えも媚びもなく、ただ何かを悟ったように従容と力なく笑う。


 曙光を浴びて飴色にくすむ薄い白い金髪を潮風に流し、

 血で濡れ汚れた白いチュニックで、威風を示すよう胸を張り、

 ゴツいオートマチックの銃を怖じることなく構え、

 慌てずに、しかし深い懊悩煩悶を数瞬でかろやかに超えて、


 わたしは、わたしのために二十七回目の引き金を引いた。

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サンライズ・コーストライン 神崎赤珊瑚 @coralhowling

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