退化

ツジセイゴウ

第1話 退化

一 告知


「かなり進んでますね、これは。」

 検査結果をチェックしながら、医師は気の毒そうに呟いた。

「そんなに悪いんでしょうか。」

 真由は恐る恐る聞き返す。

 関口真由、二十四歳。京都東山で焼き物の絵付け師として今売り出し中の身であった。最近どうも目の疲れがひどいと感じて眼鏡店を訪ねたところ、一度専門の眼科医の検診を受けた方がいいと言われ、健康診断を受けるような軽い気持ちで受診したのであった。

「中度の緑内障ですね。」

 医師は「視野検査」と書かれた検査表を真由に見せながら説明を始めた。視野を型取ったと思われる円形のグラフは、ところどころ黒々と色塗られていた。黒い部分が視野欠損を示しているのだということは素人目にもハッキリとわかった。

「緑内障ですか……、この年で。」

 真由は思わず聞き返した。緑内障、眼圧が上昇することで視神経が徐々に侵されやがては完全失明にいたる恐ろしい病気である。原因がよく分かっていないため、今の医学では眼圧を下げて進行を遅らせるくらいしか治療法のない難病である。

「緑内障は遺伝性の病気で、年齢とはあまり関係ありません。確かに年を取るにつれ発症の確率は高くなりますが、若いからといって安心は出来ません。ご両親か親戚の方で緑内障を患った人はいませんか。」

「そう言えば祖母が目の悪い人でした。いつも虫眼鏡で新聞を読んでいましたが、晩年はほとんど見えていなかったようです。」

「やはりそうですか。」

 医師はそう言いながらカルテに何事かを走り書きした。

「でも何故今まで気付かなかったのでしょう。こんなに視野が欠けているのに。」

 真由は今まで異常に気が付かなかったとが不思議であった。

「人間の身体は良く出来ていましてね、一方が悪くなると必ずもう片方がそれを補うんです。あなたの場合、右目が四十パーセント、左目が二十パーセント程欠けています。でも互いの目が夫々の欠落部分をカバーし合いますので、確かに両眼で見るとほとんど異常は感じられないかもしれません。」

 真由はなるほどと頷いて見せた。

「でも、片目を閉じて、一眼で見てご覧なさい。右目の半分が見え難くありませんか。」

 真由は言われるがままに左目を手の平で覆うと、右目だけで医師を直視した。正面にいる医師はハッキリと見えるが、左手方向にいるはずの看護師の姿はほとんど見えない。無理やり見ようとすれば、顔をその方向に向けるか、視線をその方向に移すしかない。看護師がいるはずの場所には、曇りガラスのようなもやもやとした陰だけが見えていた。

「それで、良くなるんでしょうか。」

 真由は核心の質問を医師に向けた。医師は真由の顔を正視したまましばらく考え込んでいたが、やがて意を決したように告知を始めた。

「残念ながら、一度失われた視力は二度と元には戻りません。今はとにかく眼圧を下げて進行を食い止めるしかないと思います。進行のスピードにはかなりの個人差がありますが、それでも十年、二十年という年月の間には、症状は確実に進行していきます。あなたも早ければ十年後には完全に視力を失っている可能性が……。」

 医師の最後の言葉を耳にする前に、真由は目の前が真っ白になっていくのを感じた。

「気持ちを強く持って下さい。決して諦めず、辛抱強く治療を続けて下さい。今は一日でも長く視力を維持することが大事ですから。」

 医師の助言もほとんど耳に入らない。真由は茫然自失のままフラフラと診察室を後にした。

 処方された点眼薬を待つ間もいろいろな思いが頭の中を過ぎっては消え、また過ぎっていく。これからどうなるのだろう。一体あと何年見えるのだろうか。そして見えなくなった後は……。薬局で点眼薬を受取った真由は、放心状態のまま病院のエントランスを後にした。車寄せを回り込みゲートへと向おうとした、その瞬間。

「あっ、危ない。」

 という声と同時に、けたたましいブレーキ音が耳に走った。次の瞬間、真由はアスファルトの上に横たわる自分の姿を発見した。

「いやー、ごめんなさい。大丈夫ですか。」

 やっとのことで上体を起こした真由が最初に目にしたものは、慌てて駆け寄ってくる人影であった。その人物はスラリとした長身の若者で、白衣を纏っているところかすると病院の関係者のようであった。

 傍らでは、倒れた自転車の後輪がまだカラカラと音を立てて回り続けていた。この時、真由はようやく走ってきた自転車にぶつかったのだと分かった。

「スミマセン、前を良く見ていなかったもので。」

「いえ、こちらこそスミマセン。ぼーっと考えごとをしてたもので。」

 そう言いながら、立ち上がろうとした真由は、次の瞬間向うずねに走った激痛に思わずその場にしゃがみこんでしまった。倒れたときに擦りむいたのであろうか、右足の膝から向うずねにかけて血が滲み出ていた。

「やー、これはひどい。すぐ手当てしなきゃ。」

 白衣の人はそう言いながら、真由に手を差し伸べた。

「いえ、本当に大丈夫です。気になさらないで下さい。」

 真由はまだ痛む足を引き摺りながらも気丈に立ち上がると、そっと一礼した。

「いえ、化膿するといけませんから消毒だけでもしましょう。」

 白衣の人は無理やり真由の手を引いて歩き始めた。真由にとっては見も知らぬ人であったが、一見して誠実そうな若者である。真由は言われるがままに付き従った。二人は外来棟を横目に見ながら通り過ぎると、病院の裏手に回った。暫く行くと「研究棟」と書かれたプレートの上がった入り口が見えてきた。

 鉄製の扉を開くと、表の外来棟とは打って変わって、これが同じ病院かと思えるくらい雑然とした廊下が目の前に伸びていた。長い年月を経た木の廊下はところどころ色褪せ、その両脇にはダンボール箱が通路を塞ぐように積まれていた。二人はその廊下を縫うように進むと、やがて黒字に白抜きの字で「眼科臨床研究室」と書かれたプレートの上がった部屋の前に立った。

 白衣の人は先に立って、さっさと部屋の中に入ると、続いて真由を中に招き入れた。部屋の中はさらに混乱していた。机の上には、専門書らしき本がうず高く積まれ、窓から入る陽光を遮蔽していた。ところどころ薬品の瓶と思われるガラス瓶が転がっており、微かに病院特有の消毒薬の匂いが漂っていた。

「すみません。こんなむさ苦しいところで。でも、とりあえずどうぞ。」

 白衣の人は、薄汚れたソファの埃をパンパンと手で払うと、どうぞと言わんばかりに真由に席を奨めた。

「確か、ここに救急箱があったはずだ。」

 真由が座るのを確認もせずに、白衣の人はガサゴソと机の間を探し始めたが、しばらくして木製の古い救急箱を下げて戻ってきた。そして、救急箱の中から消毒液のビンとガーゼを取り出すと、真由の膝先にかがみ込んだ。

「少し、しみるかもしれませんよ。」

 白衣の人は、そう言いながらガーゼを膝に当てると消毒液をコクリと流し込んだ。

「うっ。」

 消毒液の冷やりとした感触が膝に伝わった次の瞬間、真由は焼け付くような痛みに思わず顔をのけぞらせた。

「多分、これでもう大丈夫でと思いますが…。外科が専門じゃないんで…」

 真由がそっと目を開けると、傷の上には大きなガーゼがテープで貼り付けてあった。どうもいい加減な手当てではあったが、真剣な眼差しで一生懸命テープと格闘している若者を目の前にして、真由は先程の緊張も和らいで何となくほのぼのとした気分になった。

「申し遅れました、私、眼科で臨床研究医をしています林田誠と言います。」

 この時、真由はようやくこの白衣の人が眼科の医師であったと知った。

「どうも有り難うございました。こちらこそ本当にすみませんでした。ちょっと心配事があったもので、ついボンヤリとしてしまって……」

「いえ、いいんですよ。そう言えば、お顔の色があまりよくありませんね。どこかお体の具合が悪くて来院されたのですか。」

 そこは流石に医者である。真由の表情から何かを読み取ったようであった。真由は一瞬戸惑ったが、先ほど診察を受けた経緯、そしてその結果の一部始終をこの青年医師に話した。人に話すと不思議と楽になるものである。

 林田医師は、真由の一言一言を逐一頷きながら聞いていたが、真由が話し終わるのを待って徐に口を開いた。

「そうですか、存じ上げませんでした。失礼しました。最近、若年性の緑内障が増えているのは事実です。眼科学会でも主要なテーマの一つとなっています。今じゃ、日本人の十人に一人は潜在的な緑内障患者です。これは主要な先進国の中では飛び抜けて高い発症率なんです。」

 真由は自分の病気が特別なものではないと聞いて大変驚いた。先ほどの医者の口からはこのような説明は一切なかった。毎日数多くの患者を診ていると、あのような形式的な説明に留まってしまうものなのであろうか。真由は好奇心の塊となって疑問をぶつけた。

「どうして、日本人だけそんなに発症率が高いんですか。」

「日本の閉鎖性が原因だと言われています。ご存知のように緑内障は遺伝性の病気です。日本人のように、日本人だけと結婚するようなことを何世代も続けていると、こうした遺伝性の病気に罹る確率はどんどん高くなります。西欧諸国では人種を超えた結婚は当たり前になっています。こんなちょっとしたことでも何百年も経つと大きく違った結果が出てきてしまうのです。」

 日本人同士の結婚が原因?。真由は自分の病気の原因がとんでもないところにあったと聞いて、驚嘆した。

「それで、直る見込みはあるのでしょうか。」

 林田医師は、少し考えるような仕種をしたあと、やや声を落として説明を続けた。

「残念ながら、まだ確たる治療法はありません。眼圧を下げて進行を遅らせることが唯一の治療法ですが、これとて単なる対症療法にすぎません。病気の原因を根本的に直すことは今の医学では無理なんです。」

 先ほどの眼科医の説明と同じであった。真由は、内心この青年医師の口から明るい希望の声が聞けるのではないかと期待したが、結局は難しいと知って落胆のため息をもらした。

「とにかく、言われたとおり辛抱強く治療を続けて下さい。それと、もしお困りのことがあればいつでもお声掛け下さい。私に出来ることがあれば、力になりますから。」

 真由は頭を下げながら心の中で感謝の言葉を繰り返した。たった今会ったばかりの赤の他人にどうしてこのような親切な言葉がかけられるであろうか。真由は林田医師の誠実な人柄に思わずこぼれそうになった涙をじっとこらえて、研究室を後にした。


 一年後。

「思ったよりも早く進行していますね。そろそろトレーニングを始めましょうか。」

 医師は無造作に言い放った。一年前の告知以来、真由は懸命に治療を続けていた。点眼薬を毎日欠かさず朝夕の二回両眼に差す。月一回受ける眼圧検査の結果もずっと正常値であった。

 しかし、病状は真由の予想をはるかに超えるスピードで進んでいた。視野検査の結果も確かに前よりも視野欠損の領域が大きくなっていた。そして最近では、日常生活の中でも見え難さを感じるようになってきた。自分では見えているつもりが、時折階段を踏み外したり、肩をドアにぶつけたりとかすることが多くなった。

「トレーニング、ですか。」

 真由は何のことか分からず聞き返した。

「そうです。失明した場合に備えて今から訓練を始めるのです。」

 失明。とうとうあの恐ろしい一言を口にしなければならない時が来た。それもこんなに早くに。真由は動揺して小刻みに肩を震わせた。一年前の診断では、あと十年や二十年は大丈夫と聞かされていた。どうしてこんなに早くに。

「前にも言いましたが、病状の進行には個人差があります。残念ながらあなたの場合、平均よりは早く進んでいるようです。」

 真由が事の重大さを咀嚼しきる前に、医師は伝票のような紙に何事かを走り書きすると無造作に真由に手渡した。

「この予約票を持って、トレーニング室に行って下さい。あとは向こうの担当者から詳しく説明かあると思いますから。」

 真由は渡された紙を手にすると、フラフラと診察室を後にした。トレーニングとは一体何をするのであろうか。そして目の方は一体いつまで見え続けるのであろうか。真由はそんなことを考えながら、トレーニング室の方へ歩き始めた。

 トレーニング室は受付を挟んで診察室とは反対側の廊下を延々と下っていたその先にあった。ここは一般の診療棟とは違って、淡いグリーンを基調とした明るい色でコーディネートされており、受付脇の掲示板には、ジム、プール、カウンセリングルームといった表示がなされていた。

「あのー、トレーニングの予約をしたいのですが。」

 一見するとどこかのフィットネスクラブを思わせる雰囲気に真由は一瞬戸惑いを感じながらも、受付のカウンターに医師から手渡された予約表を差出した。

「関口さんはこちらは初めてですね。それではこちらの登録カードに記入して下さい。」

 受付の女性が笑顔で応対した。指示された通りに登録カードの記入を済ませると、真由はカウンターの前のソファに腰を下ろした。

 待っている間にも、何人かの患者と思しき人々が真由の目の前を通り過ぎていった。車椅子に乗った人、松葉杖を突いた人、皆多かれ少なかれ身体の障害を抱え、リハビリに通っている風であった。その姿を目の当たりにして、真由はやはりここは病院なのだと実感した。

 暫くして名前を呼ばれた真由は、カウンターで真新しい予約カードを受取った。

「では初回は来週の火曜日、午前十時になります。最初は担当のコーチからのオリエンテーションがありますので指定の時間にお越しください。二回目からは、ご自分のご都合に合わせて予約を入れることができますから。」

 名刺大の予約カードの一行目には指定の日時が記されており、残りの行はブランクになっていた。これからこのカードの一行一行にトレーニングの日付が記入されていく。最後の行に着く頃まで目は見えているのだろうか。真由はまたしても重く圧し掛かってくる不安に打ちひしがれながら、トレーニング室を後にした。


 翌火曜日。真由は指定された時間にトレーニング室にやって来た。

「関口さん、こちらへどうぞ。今日は初回ですので担当のコーチからいろいろ説明があると思います。」

 受付の女性は、真由をカウンセリングルームへと案内した。ここでは、トレーニングの指導者をコーチと呼ぶらしかった。辛く重苦しいリハビリのムードを少しでも和やかなものにするための工夫であろうか。

 カウンセリングルームは全部で四つあった。どの部屋も似たような殺風景な作りで、小さなテーブルを挟んでスチール製の椅子が四つ置かれていた。

 真由が椅子に座って待っている間、突然遠くで咽び泣く声が漏れ伝わって来た。もちろんどの部屋か真由には見当もつかなかった。訓練の辛さに耐え兼ねた患者の悲痛な叫びか、それとも不治を宣告されて泣き崩れる声なのか、真由は言いようもない不安を覚えて、身を縮めた。

 その時、ガチャリとドアの開く音がして白衣の男性が部屋に入ってきた。恐らくコーチであろう。真由は慌てて椅子から立ち上がって一礼しようとしたその瞬間、二人はお互いの顔を見合わせて、思わず微笑んだ。

「あっ、あなたでしたか。」

「あれっ、先生。」

 真由の脳裏に一年前の記憶が鮮明に蘇えって来た。と同時に、林田医師が自分のコーチであったと知って、先ほどまでの不安もすっかり消え失せた。この人がコーチならどんなに辛いトレーニングにも耐えてゆけるかもしれない、そんな淡い希望が湧いて来た。

「まあ、どうぞ。」

 林田医師は、立ち上がろうとする真由を制すると自らも向かい側の椅子に腰を下ろした。

「カルテを拝見しましたが、思ったよりも早く進んでいますね。何と申し上げていいか。とにかく今日からは私をパートナーと思って、トレーニングを始めましょう。宜しくお願いします。」

「いえ、こちらこそ宜しくお願いします。」

 一礼する真由の前に、林田医師は早速一冊の冊子を差出した。トレーニング要項と表紙に書かれた冊子の一枚目を繰ると、これからトレーニングを受ける者の心構えが記されていた。

「これから訓練しなければならないことは山のようにあります。視力を失った場合に備えての歩行訓練、点字の修得、それに日常生活の中で必要なありとあらゆることを覚えてゆかなくてはなりません。それも学校の勉強のように暗記すればいいというものではなく、一つ一つをあなた自身の身体で体得してゆかなければならないのです。」

 林田医師の真剣な説明に真由は逐一頷きながら聞いていたが、目が見えなくなるということがどういうことなのか、漠然とした不安意外にまだハッキリとしたイメージがわかなかった。

「それと、最も大切なことはメンタルケアです。目が見えなくなるという圧倒的な重圧の中で、辛い訓練に耐えてゆくのは並大抵のことではありません。想像を絶する苦難があると覚悟して下さい。大変申し上げ難いことですが、中には絶望に負けて自殺という道を選んでしまった患者さんもいないわけではありません。でもほとんどの人は自分の力でそれを乗り越え、そして全く違う新しい人生を勝ち取ってゆかれるのです。とにかく生まれ変わるつもりで頑張りましょう。」

 真由は次第にことの重大さを咀嚼し始めた。自分のような弱い人間がこのような辛い訓練をやり遂げる事が出来るのであろうか、そしてその先には何があるというのか。真由の頭の中に「自殺」という一言が何度となくこだました。

「では今日は初回ですから、まずは目が見えないということがどういうことなのか体験するところから始めましょう。さあこちらへどうぞ。」

 林田医師は先に立ってトレーニングジムの方へと真由を案内した。ジムはカウンセリングルームのさらに奥にあった。

 体育館ほどあろうかと思われる部屋には、恐らく歩行訓練に使うのであろう、二本の手すりが付いたステップが何個所かしつらえてあり、そのほかにもウエイトトレーニング用のマシンが数台並んでいた。壁際のステップでは既に何人かの患者が訓練を始めていた。

「あの人は一年くらい前、脳卒中で倒れられて、ほとんど寝たきりだったのですが、今ではあそこまで回復されました。」

 林田医師が視線を向けた先には六十過ぎと思われる白髪の男性が、手すりにつかまり黙々と歩行練習に励んでいた。一歩また一歩とゆっくりと前に足を踏み出す。時折ガクリと膝が折れるが、懸命に立ち上がるとまた一歩前へ進む。わずか十メートル程を進むのに多大の時間と労力を費やしている。真由は思わず目頭が熱くなるのを覚えた。

「じゃあ、こちらへどうぞ。今からトレーニングを始めます。まずはこのステップを歩いてみて下さい。」

 真由は指示されたとおり、手すりの間のステップをスタスタと歩いた。健常者にとってはわずか二秒ほどの距離である。

「はい、もう一度。」

 真由は元の位置に戻ってまた同じことを繰り返した。そんなことを四回、五回と繰り返すうち、真由は一体何のためにこんなことをするだろうと考え始めた。その時、林田医師は新たな指示を出した。

「少し感覚が掴めましたか。では、今度は少し難しくなりますよ。左目を閉じて、右目だけでもう一度。」

 真由は言われるがままに左目を閉じると同じようなつもりでスタスタと歩き始めた。真由は真っ直ぐ歩いたつもりであったが、最後のところで腰のあたりを手すりがかすった。いつの間にか閉じた左目の方に身体が傾いていたのである。

「人間は二つの目があるからこそ真っ直ぐ歩けるのです。二つの目を使うことで、人は無意識のうちに距離や方向を測っているのです。それが片方だけになると途端に外から入ってくる情報量が減ります。そうすると先ほどのように思わぬ障害物に接触したりするのです。」

 真由は人の身体がとても精巧に出来ていると聞いて大変驚いた。二つある目のうち一つが欠けても真っ直ぐ歩くことすら覚束なくなる。両眼を閉じたら一体どうなるのだろう。真由の不安知ってか知らずか、林田医師はついに過酷な指示を出した。

「では、いよいよ両目を塞いでみましょう。」

 林田医師はそう言うとゴムひものついたアイマスクを真由に手渡した。真由は恐る恐るそのアイマスクを頭に着けた。明るいジムの中は一瞬にして暗闇へと変わった。両目を塞ぐと途端に人の声が大きく聞こえる。先ほどまでは全く聞こえていなかった、「一、二、三、四」という隣のコーチの声がことさら大きく真由の耳に届いた。

 真由は不思議な感覚にとらわれながら、慎重に慎重に第一歩を踏み出した。先ほどから何度となく歩いたステップなのに、なかなか足が前に出ない。障害物は何もないと分かっていても、足を出すのが怖い。わずか十メートルを進む間に三度も腰骨を手すりに擦り付けた。

「どうです?。難しいでしょう。これを付けると、目が見えるということがどんなに大切なことかよく分かるでしょう。」

 真由は黙って頷いた。

「人の目は単に障害物を認知してそれを避けるためにあるだけではないのです。目は身体の周囲にあるありとあらゆる情報を取り入れることで、自分の位置や微妙な身体の傾き具合まで瞬時に計算しているのです。だから人は凹凸の多い道を歩くという複雑な動作も無意識のうちに器用にやってのけることが出来るのです。」

 真由は林田医師の説明を驚きをもって聞いていた。目が見えなくても足さえあれば歩ける、そう思っていた自分が何と浅薄だったことか。真由は山登りの第一歩を踏み出した途端に、とてつもなく高い垂直の絶壁にぶち当たった思いであった。しかし、林田医師はそんな真由の思いを知ってか知らずか、さらに過酷な指示を出した。

「さあ、今度は手すりのない広い場所を歩いてみましょう。街中に出れば頼れるものは何もなくなります。さあ、あなたの右手には車が引っ切り無しに行き交う道路が、そして左手には下水が流れています。歩道から足を踏み外さずに真っ直ぐ歩いてみて下さい。」

 真由は林田医師を恨みに思った。さっきまでの優しかった表情はすっかり消え失せ、次々と難問を吹っ掛けてくる意地悪なコーチの姿に変わっていた。何も初日からここまでしなくてもいいのに。この人は本当は性悪な人間だったのかもしれない。真由はすっかりふて腐れた表情をして見せたが、それでも言われた通りにアイマスクを着けた。

 何の障害物もないとはわかっていても、やはり目が見えないと前へ出るのが怖い。思わず両手を前へ差出して一歩また一歩と揺れる身体のバランスをとりながら前へと進む。

 真由は、子供の頃夏の海水浴場で遊んだスイカ割のことを思い出していた。最初は真っ直ぐ歩くつもりで一歩を踏み出すが、二~三歩歩いただけでもうどっちを向いて歩いているのかすら分からない。周りから囃す声に惑わされてウロウロと浜辺を歩き回る惨めな自分の姿を思い浮かべていた。十歩ほど歩いたであろうか、真由は立ち止まってアイマスクを外した。

「はい、アウト。あなたは今車に跳ねられました。」

 後ろから林田医師の嘲笑うような声が聞こえてきた。あの悪魔コーチは方向を失ってウロウロし回る自分をさっきからじっと見ていたのだ。あのスイカ割の囃子達のように。真由は言いようもない憤りを感じたが、それをじっとこらえて再びアイマスクを着けた。今度こそという思いで慎重に足を運ぶ。しかし結果はまた同じであった。何度も元の位置に戻っては繰り返すが、その度ごとにとんでもない方向にいる自分を発見するだけであった。やがて、足がガクガク震え出し、一歩も前へ踏み出すことが出来なくなってしまった。

「嫌よ、嫌。どうして私がこんなことしなきゃいけないの。」

 真由は激昂して、アイマスクを床に叩き付けた。林田医師は黙ってそれを拾うと、再び真由に手渡そうとした。真由はそれを受取る代りに、罵の言葉を浴びせていた。

「あなたはさっきから私がウロウロするのを見て楽しんでいたのね。どうせ健常者にはこんな私の苦しみは分からない。もう止めた。二度とここへは来ないわ。」

 そう言うなり、真由はその場にしゃがみこんで泣き崩れた。

「今日はこれまでにしましょうか。」

 林田医師は静かに初日のトレーニングの終了を告げた。一頻り咽び泣き続けた真由は、やがて泣き腫らした目で林田医師をじっと睨み付けた。


「お昼でも一緒にいかがですか。近くにおいしいレストランがあるんです。」

 ジムの外に出た林田医師は、ふてくされたまま口も聞かない真由に話しかけた。あんなに人をバカにしておいてお昼も何もあったものじゃない。真由はわざとそんな林田医師を無視していた。しかし、林田医師も負けてはいなかった。

「今日はこのままでは帰しませんよ。まだお話しておきたいことは山ほどありますからね。」

 真由は全く気乗りがしなかったが、林田医師の強気な誘いに押されるままにレストランへと付き従った。病院のエントランスを出て通りを渡ったすぐ向いに、「ボンジュール」という看板の上がったレストランがあった。

「ここのランチコースは安くておいしいんですよ。時々時間のある時に来るんですよ。」

 そう言うと、林田医師は使い慣れた様子で窓際のテーブルに席をとった。お昼までまだ少し時間があったせいか、真由たち以外に客はいなかった。純白のテーブルクロスの敷かれた席には、一輪の赤いバラが飾られ、銀製のナイフとフォークが丁寧に並べてあった。二人が席に着くと、ウエイターがすぐにメニューを持って現れた。

「今日の魚は、新鮮な平目でございます。」

 メニューを差出しながら、ウエイターがそっと説明する。

「じゃあ、それにして下さい。」

 林田医師は迷わず魚料理を選んだ。ウエイターはゆっくりと真由の方へと向き直るが、真由はそんなウエイターを無視するかのように、プイッと窓の方を向いていた。

「彼女にも同じもので。」

 林田医師は慌てて注文を付け加えた。ウエイターが一礼して下がっていくのを確認した林田医師は徐に口を開いた。

「さっきは失礼しました。目が見えないということの怖さを知ってもらいたくて、いきなりあのような体験をしてもらいました。別に悪気があった訳じゃありません。」

 しかし、真由はまだソッポを向いていた。今更言い訳なんか聞きたくない。こんな思いをするくらいならもうどうなったっていい、真由は心の中で繰り返しそう叫んでいた。

「まだ怒ってるんですか。そうやってふてくされていても何も解決しませんよ。自分の力で努力しなければ、何も生れてきません。」

 今度はお説教?。真由がそう叫ぼうとした瞬間、それを遮るかのようにウエイターが前菜の皿を手にして現れた。ウエイターは慣れた手つきで二人の前に次々と料理を給仕すると、グラスにミネラルウォーターを注いだ。

 林田医師はゆっくりとナイフとフォークを手にすると、きれいに盛り付けされたハムを音も立てずに切り分けた。一方の真由はというと、相変わらずむっつりと黙りこくっていた。意地でも食べるものか、への字に歪んだ真由の口は無言でそう語りかけていた。

 しかし、次の瞬間、真由の目の前で予想外のことが起きた。

「あっ。」

 という小さな声とともに、林田医師の右手側よりグラスが床の上に倒れ落ちた。ガッシャーンという音が静かな店内に響き渡り、中に入っていた水が当たりに飛び散った。

「す、すみません。」

 慌てて席を立つ二人。そこへウエイターがモップを片手に駆けつけてきた。頭を下げる林田医師の目の前で、ウエイターは器用にモップを操ると割れたガラスと床の上に流れた水を跡形もなく拭き取った。こういうことは時折あるのであろう、手慣れた様子で片付けを終えたウエイターはにこやかに一礼した。

 グラスを落とした時は、当然のことながら客は激しく動揺している。その客の心の内を百も承知の上で、気持ちよく食事を続けてもらうための心憎いばかりの気配りであった。

「いやー、失礼しました。やっぱり片目では無理ですね。気をつけなくちゃと分かっていても、ついやってしまう。」

 林田医師はさりげなく呟いた。

「えっ? どういうことですか。」

 真由は何のことか分からず聞き返した。

「実は、私の右目はもうほとんど見えていないんです。」

 林田医師は、まだ何のことか理解できないでいる真由に対してさらに説明を続ける。

「あなたと同じですよ。若年性の緑内障。医者の不養生とはよくいったもので、気が付いた時にはもう半分以上視野を失っていました。」

 林田医師はまるで他人事のように、ニコニコしながらさらりと言ってのけた。

「し、知らなかった。ごめんなさい。私ったら、あんなひどいことを言ってしまって。」

 真由の口が、意思に反して独りでに動いた。真由の心は動揺していた。知らなかったとはいえ、林田先生にあんな罵声を浴びせてしまった。真由は心の底で手を合わせて謝罪の言葉を繰り返していた。

「やっと口を開いてくれましたね。私が自分の緑内障に気付いたのは三年前のことでした。これから眼科医になるのだから視野検査機の使い方ぐらい覚えておかなきゃと思って、試しに使ってみたんです。最初はセットをし間違えたかと思いました。でも何度やっても結果は同じ。それで研究所の先輩に診てもらったら中度の緑内障と分かって…。

 後はあなたと同じです。眼圧を下げる治療を続けましたが、だんだん進行して右目はもう八十パーセント以上です。一年前、あなたに自転車をぶつけてしまったのも、きっと前がよく見えていなかったんでしょうね。」

 林田医師はまるで他人事のように淡々と話を続けた。真由は返す言葉もなかった。自らの苦悩を表に出さず、ひたすら他人のためにある時は優しく、そしてある時は厳しく尽くそうとする。人はここまで強くなれるものなのであろうか。それに比べて自分は何と未熟であったか。あのように取り乱してしまって。真由は反省の気持ちで一杯になった。

「でも、本当は私も怖いんです。とても。だって眼科医は目が命です。それが見えなくなれば本当におしまいです。これまで努力してきたことが全て無に帰するんです。それで、今日は是非ともあなたに聞いておいてもらいたいことがあって、無理やりお引き止めしました。」

 真由はまだ気が動転していた。このような立派な先生が、自分のような者に一体どんな話があるというのか。しかし、その後の約一時間、真由は林田医師の口から世にも不思議な話を耳にすることになった。


「緑内障が遺伝性の病気であるということは、随分と以前から経験的に知られていました。例えば親や親戚に目の悪い人がいると、かなり高い確率で子供や孫にその症状が受け継がれます。それで医者たちは緑内障が遺伝病だと考えていたわけです。

 ところが最近そのことがヒトゲノムの解析によりはっきりと確認されたのです。ヒトゲノムは、一言で言うと人の身体の設計図です。あなたの手も足もそして目も全てはゲノムに書き込まれた遺伝情報を元にして作られています。そこに欠陥があると人の身体にはいろいろな障害が出てきます。家を建てるのと同じです。設計図にミスがあると雨漏りがしたり、家が傾いたりするでしょう。人の身体も全く同じです。

 緑内障は、全部で二十三本あるヒトの染色体の中で十五番染色体にあるごく一部の塩基配列の欠陥により生じることが最近の研究で明らかになったんです。」

 真由もヒトゲノムやDNAという言葉くらいは新聞やテレビのニュースで聞き知ってはいたが、こうした専門的な話を聞くのは初めてであった。好奇心の塊となって聞き入る真由の前で、林田医師はさらに驚くべき自説を話し始めた。

「私は緑内障の原因となる欠陥がいつ頃どのようにして人の遺伝子の中に組み込まれたのかを研究してきました。そして最近、それが旧石器時代に溯るという確証を得たのです。 

 あなたもダーウィンの進化論の話くらいは聞かれたことがあるでしょう。全ての生き物は突然生れてきたのではなくて、とてつもなく長い時間を掛けて環境の変化に適応するために自らの身体を変化させてきたのです。これが「進化」です。アダムとイブが作ったなんて言うのは神話の世界の話で、ヒトも本当はサルから進化してきたのです。

 ヒトの遺伝子を調べると、こうした進化の歴史が全て刻まれています。しかし、進化は実は「退化」とも表裏一体の関係にあるのです。いえ、それは、実際は同じものなのです。」

「た、退化ですか。」

 真由は思わず聞き返した。

「あっはは。少し難しすぎましたか。退化というのはその機能がもはや必要でなくなった時に起こります。例えば、真っ暗な洞窟の中に長年棲みついている洞穴ヤモリは目が退化してしまってありません。目に相当する部分にはわずかに眼窩のくぼみが残っているだけです。暗闇の中で長年光りを見ることのない生活を続けて来たために、ヤモリの遺伝子はもはや目が要らなくなったと判断してしまったのです。そして一旦遺伝子に組み込まれた変異は代々子孫まで受け継がれ、退化はさらに進んでいきます。こうして目のない洞穴ヤモリが生れたのです。」

 かつてあった目が退化してなくなる、そんなことが本当にあるのだろうか。そしてこのことが緑内障と何の関係かあるというのか。真由は林田医師の不可解でかつ難解な話に少し頭の中が混乱し始めていた。丁度その時、真由に咀嚼の時間を与えるかのように、タイミングよくウエイターがメーンコースを持って現れた。

 林田医師は、今度は慎重にグラスを右手に取ると少し水を口に含んで、話を続けた。

「今から一万年くらい前、人はまだ洞窟に住み狩猟生活を送っていました。昼間は、男は狩猟に出かけ、女は洞窟の中でひたすら男たちの帰りを待っていました。当時、まだ洞窟の外は危険が一杯でした。野生のオオカミや他部族の襲撃など、生存を脅かすものに満ち溢れていました。こうした危険を避けるには洞窟の中はかっこうの場所だったのです。

 女たちは暗い洞窟の中で一日の大半を過ごしていたと思われます。一日中陽の光を見ない生活を続けていたため、やがてあの洞穴ヤモリと同じことが起こってしまったのです。

 そして一旦退化のプラグラムが遺伝子に組み込まれてしまうと二度と元には戻りません。退化遺伝子は親から子へと何代も何代も引継がれていきます。そしてそれが緑内障という病気となって現代人の目に残ったのです。」

 緑内障が遺伝子の退化で起きた?。真由は自分の病気が有史以前の遠い遠いご先祖様からのとんでもない引継ぎ物であったと聞いて驚嘆した。こんなことが本当にあるのだろうか。驚きのあまり言葉が出てこない真由に代わって、林田医師はさらに解説を続ける。

「信じられないのは無理もありません。最初は眼科学会でも私の仮説は一笑に付されました。ところが最近、私の仮説を支持する重要な二つの証拠が見つかったのです。

 一つは洞穴ヤモリの退化遺伝子の塩基配列です。これが人の緑内障遺伝子の塩基配列と極めて酷似していることが洞穴生物学者の協力を得て明らかになったのです。もはや緑内障遺伝子が、ある種の目の退化現象であることは疑う余地がありません。

 そして今一つは、考古学的アプローチです。最近静岡県の三ヶ日の洞窟遺跡で見付かった古代人の骨のDNA鑑定をしたところ、緑内障遺伝子が発見されました。この時代に生きていた人達も既に緑内障を患っていたのです。」

 林田医師は自信満々に自説を披露してみせると、再びナイフとフォークを動かし始めた。

「それで、やはり直る見込みはないのでしょうか。」

 真由はこの天才眼科医ならば、何か根本的な治療法を見つけ出せるのではないかという淡い期待を抱いた。しかし、そう甘くはなかった。

「前にも言いましたが、一旦組み込まれてしまった退化のプログラムを元に戻すのは容易ではありません。それは人の進化の過程をコントロールしようとするのと同じくらい難しいことなのです。残念ながら今の医療技術では失われたものは元には戻せないのです。」  

 林田医師の言葉に真由は落胆の色を隠せなかった。しかし、林田医師の恐ろしい仮説はここでは終わらなかった。その先には真由が予想だにしなかったとてつもなく恐ろしい結論が待ち受けていた。

「仮に一万年前、洞窟暮しの古代人の一人に突然変異が起きて緑内障遺伝子が発生したとしますと、それから今日に至るまでもう数百世代も経ています。緑内障遺伝子の保持者が全て緑内障に罹患する訳ではありませんが、日本のような狭い島国で近親結婚を繰り返していると、その確率はどんどん高くなります。

 あくまで推測ですが、一万年という時間の経過と遺伝子内に組み込まれた退化プログラムが子孫に引継がれる確率を勘案して計算しますと、理論上日本人の十人に一人が緑内障遺伝子を保持していることになります。」

 茫然自失。日本人の間にこんなに緑内障が蔓延しているとは。それも何千年という時の流れを経て累々と受け継がれてきたとなると只事ではない。真由は無言のままナイフとフォークを置いた。

「今日はどうも有り難うございました。本当にびっくりしました。何と言っていいのか。」

 真由は自分の気持ちを何とか表現しようとするが、言葉が思いつかなかった。

「いえ、いいんですよ。それよりトレーニングを続けていく気になりましたか。」

「ええ、先生。是非宜しくお願いします。」

「その先生というのは止めて下さい。誠と呼んで下さい。もうコーチでもトレーニーでもありません。同じ病気を患ってしまった者同士、支え合ってゆきましょう。」

「誠さん、ですか。」

 真由は思わず聞き返した。

「ええ、その代り私もあなたのことを真由さんと呼ばせてもらっていいですか。」

 真由は一瞬戸惑いながらも、すぐに笑顔で頷いた。先ほどまでの沈鬱な気分も消え失せ、真由は、心の中にほのぼのとした気持ちが芽生えてくるのを覚えていた。

 二人は、運ばれてきたコーヒーにどちらからともなくミルクを注ぐと、時が経つのも忘れて食後の談笑を楽しんだ。


二 暗転


 三ヶ月後。

「そう、その調子。かなりうまくなりましたね。」

 アイマスクを着けた真由は杖を片手にステップを上がり下がりした。このステップは障害者の歩行訓練用に特別に作られており、ところどころに段差や傾斜を自由に設定することが出来るようになっていた。最初は躓いてばかりいたステップも、杖を頼りに高低差や傾斜具合を測りながら何とかクリア出来るようになってきた。

 真由は点字の習得にも精力的に取組み、人よりも一段と早い上達を見せていた。あれほど惧れ嫌がっていたトレーニングにこうも熱心に取組むことができる背景には、「誠」という存在があることを真由自身うすうす感じ始めていた。

 そんな真由の上達ぶりを目を細めて見ていた誠の傍に、一人の若い研修医が息を切らせて駆け寄って来た。

「先生、これを見て下さい。」

 そう言いながら研修医らしき青年は誠に何かのレポートを手渡した。

「何だ、今トレーニング中だぞ。」

「分かってます。でも、これ……。」

 差出されたレポートを読んでいた誠の手はやがて小刻みに震え始め、顔もみるみる険しくなっていった。トレーニングの手を休めた真由は、一抹の不安を覚えながら誠の様子を伺っていた。

「ごめんなさい、今日のトレーニングはこれまでにしましょう。」

 誠は蒼ざめた表情でトレーニングの終了を告げた。

「どうかしたんですか。」

「いえ、ちょっと。次の日取りはまた連絡しますから。」

 心配そうに尋ねる真由に、誠は作り笑顔で応えると、レポートを片手に急ぎ足でジムから出ていった。


 眼科部長室。

「先生、一体これはどういうことですか。」

 誠は先ほどのレポートを教授の机の上に放り出すと、声を荒げて食って掛かった。高柳圭吾。洛東大学医学部の眼科部長を長らく勤めるこの教授は、眼科学会の最高権威の地位を欲しいままにしていた。今時珍しくなった黒ぶちの厚い眼鏡をかけた高柳教授は、黒光りのする大きなデスクの後ろで悠然と構えていた。

 誠が投げ出したレポートの表紙には、「厳秘」という判とともに衝撃的なタイトルが記されていた。「医療審議会答申」、首相の諮問機関である医療審議会が作成したレポートである。新たな法案作成に先立っては、必ず専門家による調査研究が行われ、その結果は「答申」という形で報告される。立法者は、そうした答申に基づき法案を作成する。言わば法律の「卵」である。

「いやー、すまん、すまん。審議会の方からどうしても当方の意見をくれって言われてね。申し訳なかったんだが、君の論文を少し拝借したんだよ。」

 教授は一向に悪びれる様子もなく、笑って答えた。審議会の答申に引用されていた論文の内容は、誠が書いたものに酷似していた、いや正確には一言一句丸写しであった。

「盗用なんて人聞きの悪いことは言わんでくれよな。現に君の名前は、審議会の答申の中にもはっきりと引用してもらった。これで君は押しも押されぬ眼科学会の権威の一人に名を連ねることになる。喜びたまえ。」

 教授は誠の論文を勝手に引用したという罪の意識は持ち合わせていないようであった。

「あの論文はまだ公に出来るような内容じゃありません。もちろん内容には自信があります。でも社会に対するインパクトの大きさを考えると、とても……。」

「何だ、不服なのかね。」

 先ほどまでにこやかであった教授の顔は急に不機嫌な表情に変わった。

「君、人生には潮目というものがあるんだよ。我々が住んでいる世界の競争はし烈だ。ほとんどの人間は認められることもなく野に下っていく。そのような中で君はこんな千載一遇のチャンスを得たんだ。これを掴まなくてどうするんだ。」

 教授はクルリと椅子を回転させると誠の方に背を向けた。

「とにかく、もう矢は放たれてしまった。後戻りは出来ん。これからは君も忙しくなるぞ。決して悪いようにはしないから、頑張ってくれたまえ。」

 誠の口に言葉はなかった。教授の言う通り、誠が好もうと好まざろうと、矢は既に放たれてしまったのである。

「失礼します。」

 誠は憮然とした表情のまま眼科部長室をあとにした。しかし、この日の誠は、まだ自らが記した論文が、とんでもない帰結をもたらすことになるとは気付いてもいなかった。


 一ヶ月後のお昼時、日本列島を衝撃的なニュースが駆け抜けた。この瞬間、真由はいつものように午前のトレーニングを終えて、誠と共に病院の食堂で軽い昼食をとっていた。

 あの再会の日以来、真由と誠は毎週欠かさず二回ずつのトレーニングを共にしていた。辛いトレーニング室に通うのも二人にとっては楽しみな日課になりつつあった。食堂は丁度お昼時ということもあって、大勢の医師や看護師たちが談笑しながら昼食を取っていた。その全員の目が一斉に壁際のテレビに釘付けとなったのである。

「政府は、今日午前の閣議の後、遺伝性緑内障患者の子供作りに一定の制限を設けるべく検討を進めていくことを明らかにしました。これは先の医療審議会の答申に応えたもので、この背景には日本人に多く見られる遺伝性緑内障のこれ以上の拡大を防ぐ狙いがあるものと見られています。それでは、社会部の小島解説委員に解説をお願いします。」

 テレビカメラがぐいと引かれてキャスターの傍らに解説委員の姿が現れた。

「小島さん、政府は何故この時期にこのような決定を下したのでしょうか。」

 キャスターの問いかけに、襟を正すように背筋を伸ばした解説委員が話を始めた。

「今回の決定の背景には、予想以上に緑内障患者の数が増えていることがあります。潜在的な数も合わせますと、日本全体で数百万から一千万人の緑内障患者もしくはその予備軍がいると言われています。しかも、最近は二十代にして緑内障に罹る、いわゆる若年性緑内障の症例が増えてきています。

 この緑内障というのは従来から遺伝性の病気と考えられて来ましたが、最近それがヒトゲノムの解析ではっきりと遺伝子欠陥によるものということが判明しました。しかもこの遺伝子欠陥は、旧石器時代に日本人がまだ洞窟で暮していた頃にセットされた退化プログラムによるものということが、最近大学関係者の研究で明らかにされています。」

 それを聞いた瞬間、誠の手からポロリと箸が床に滑り落ちた。「遺伝性緑内障患者の産児制限に関する答申」、一ヶ月前に眼科部長室で見せられたあのレポートが誠の脳裏に過ぎった。あれからわずか一ヶ月、しかもこんな形でテレビ報道されるとは全く予想だにしていなかった。

 「これからは忙しくなるぞ。」という教授の言葉の意味がようやく飲み込めた。放たれた矢はどこまでも一人で飛んでいく。人から人、マスコミからマスコミへと誠の論文はどんどん拡散していったのである。

 傍らでは、真由も、いや真由だけではない、その場に居合わせた全ての人が呆然としてニュースに聞き入っていた。

「それで、産児制限というのは具体的にはどういう形で行われるのでしょうか。」

「具体的プランはまだ決まっていません。ただ関係者の話によりますと、現に緑内障を発症している患者に限らず、これから子供を作ろうとする全ての夫婦にDNA検査を義務付けるような内容になるとのことです。つまり子供を作ろうとする夫婦は、まずDNA検査を受けて、緑内障を発症させるような遺伝子欠陥がないという証明を医師から受けなければならなくなります。」

 解説委員の口からは驚愕するような内容の言葉が次々と発せられた。放心状態の真由はまだ事の次第がはっきり呑み込めていなかった。ただ、自分のような病気持ちにはもう子供が産めなくなるんだろうということだけは、漠然と理解できた。

 しかし、なぜ政府はこのような恐ろしいことを考えるのであろうか。真由にはその真の狙いがまだ理解できないでいた。その疑問に答えるかのようにテレビの解説は続けられる。

「小島さん、政府が敢えてこのような決定を下した狙いはどこにあるのでしょうか。」

「医療審議会の答申では、盛んに欠陥遺伝子の排除という言葉が使われています。つまり遺伝病というのは欠陥のある遺伝子が修復されない限り、親から子へ、子から孫へと受け継がれてゆきます。欠陥遺伝子の持ち主が正常な人と結婚した場合、その子供には欠陥のある形質が優性的に遺伝します。どこかでこのサイクルを断ち切らない限り欠陥遺伝子は限りなく日本人の間に拡散していきます。そして何世代か先には欠陥遺伝子は取り返しのつかないほど日本全体を覆い尽くす可能性があります。

 世代を超えた伝染病と言えば分かりやすいでしょうか。伝染病の根本治療が出来ない以上、予防的にその保菌者を排除していかなければならない。今回の政府の決定の背景には、こうした考え方があったようです。」

「小島解説委員に聞きました。このニュースにつきましては今夜十時からの「論点」でも改めて詳しくお伝えする予定です。では次のニュースです。」

 画面が切り替わり、別のニュースがアナウンスされ始めた。長いため息とともに、それまで水を打ったように静まり返っていた食堂から、一斉にざわめき声が聞こえ始めた。

「えらいことになった。政府はとうとうパンドラの箱を開けてしまった。」

「倫理の点から、こんなことが許されるはずがない。非常識極まりない。」

「我が国の緑内障の実態がここまでひどいとは……。」

 ある者は声高に、そしてある者はひそひそ声で、同じテーブルに居合わせた人々の間で議論が始った。真由と誠は押し黙ったまま、そうした議論の声を聞いていた。長い長い沈黙を破ったのは、誠の方であった。

「申し訳ない。僕があんな論文を書いたために、こんなことに。実は一ケ月前のあの日、眼科部長からこの答申が出ることを聞かされていたんだ。それも知らない間に僕の論文が医療審議会の答申に引用されて、それで……。」

 誠は、自らの犯した事の重大さをまだ咀嚼しきれず、その先の言葉を失った。真由はそれを聞いて大変驚いた。つい三ヶ月ほど前に誠から聞かされたあの恐ろしい話、日本人の緑内障遺伝子が一万年も前から脈々と受け継がれてきた、そして日本人の間に数え切れない程の緑内障予備軍がいる、というあの話がこうした形で世の中に出てくるとは、思ってもみなかったのである。

「いいえ、誠さんが悪いわけではないわ。誠さんは立派な研究をされたのよ。それを、それを、こんなことに利用するなんて……、ひどすぎる。」

 真由の目からはみるみる涙が溢れ出し、最後のところは言葉にならなかった。

「とにかく、まだ法律で決まったわけでもないし、こんな馬鹿げた話が絶対通るはずはない。僕は断固として反対していく。」

 真由はそうした誠の力強い言葉に頼もしさを感じると同時に、心の片隅に湧き起こる一抹の不安を禁じ得なかった。


 同日、夜十時。NHKの討論番組「論点」が始った。真由は自宅のアパートでその模様に見入っていた。

「皆さんこんばんは。今夜は今日の午前中に発表されました「遺伝性緑内障患者の産児制限に関する答申」について、関係者のご意見を伺ってゆきます。最初に今日のパネリストをご紹介致します。まずは、厚生労働大臣海野繁治さん。」

 司会者の声に促されるように、厚生労働大臣は深々と頭を下げた。

「次いで、医療審議会委員長(兼東京大学名誉教授)の小山田重人さん、遺伝学者角田和彦さん、全国身体障害者協会会長今井進さん、そして作家の林義彦さん。」  

 自らの名前を読み上げられたパネリストは、順々にカメラに向ってゆっくりと一礼していく。一通りパネリストの紹介を終えた司会者は、まず厚生労働大臣に矛先を向けた。

「大臣、まず最初にこの思い切った決定をされた背景についてご説明頂けますでしょうか。」

 緊張した面持ちで腕組みをしていた厚生労働大臣は、徐に腕組みを解くと口を開いた。

「まず誤解がないように最初に申し上げておきますと、今回の決定は決して障害者を差別しようというものでもなければ、人権をないがしろにしようというものでもありません。純粋に遺伝学的に判断して我が国の将来を考えた場合、こうするように他に道がなかったということを改めて申し上げておきます。」

 大臣は批判を恐れてか、最初から極めて慎重に言葉を選びながら説明を続ける。

「私も最初は医療審議会の報告を読んで愕然としました。緑内障遺伝子が知らず知らずの内に数多くの日本人の身体を虫食んでいたのです。それも百人や千人なんていう数字ではありません。数百万いや一千万という患者数です。これだけの人がしかもかなり若いうちに失明するとしたら日本は一体どうなると皆さん思われますか。

 政府もいろいろな試算を試みてみました。まず、すべての社会的インフラ、道路も鉄道も住宅も何もかもです、これらを全て障害者仕様に切り替えてゆかなければなりません。その費用は少なく見積もっても百兆円、こんな費用は今の日本の財政では到底負担しきれません。

 そればかりか、医療費も高度障害治療やメンタルケアのために今の数倍の支出が予想されます。国民医療保険はたちまち破綻します。さらに障害者の数が大幅に増えることで、我が国の労働生産性は大きく低下し、我が国の経済は壊滅的打撃を受けるでしょう。」

 真由は、いや真由だけではない日本国民は、今ようやくこの恐ろしい判断の背景に潜む事の重大性を知らされた。日本人の十人に一人が失明したとしたら一体何が起きるのか。一般人には想像すら出来ない深刻な事態が待ち受けているのである。しかし、この後厚生労働大臣はさらに身の毛のよだつ話を続けた。

「しかし、私達がもっとも恐れているのは、この緑内障遺伝子がどこまで拡散するかということです。緑内障遺伝子の保持者が健常者と結婚し子供をもうけた場合、その人が緑内障を発病していようがいまいが、その遺伝子は確実に子供に受け継がれます。このまま何もしないでいると私達の孫の時代には日本国民の実に半分が緑内障遺伝子の保持者になっている可能性すらあります。

 そしてその時までに緑内障の根本治療法が確立していなければ、その遺伝子はさらに日本国民を虫食み続けることになりかねません。こうなるともう日本国の存立すら危うくなります。」

 真由は全身の毛穴が固く閉じていくのを感じた。今何百万人という人々が真由と同じような思いでこの番組を見ているはずであった。厚生労働大臣の話が終わった後、しばらくスタジオは重苦しい沈黙が漂った。

「だ、大臣、どうもありがとうございました。今回の政府の決定の背景にはこのような恐ろしい事実があったということですが……。今井さん、如何でしょう。」

 全国身体障害者協会の今井会長はムッとした表情で話し始めた。

「障害者を愚弄するのもいい加減にしろと言いたくなるような話ですね、これは。障害者の皆さんだって立派に生きています。いえ中には健常者に負けない位、社会に貢献しておられる方々もたくさんおられます。そうしたことを無視して障害者とその子供の生きる権利を最初から剥奪しようとする発想自体がもう異常としか思えません。私達は断固としてこの法案成立には反対していくつもりです。」

 会長のテンションはかなり高まっており、デスクから身を乗り出して今にも食って掛かりそうな剣幕であった。

「あっ、有り難うございました。では、続いて遺伝学者の角田さん。如何でしょう。」

 立派なあごひげを置いたその人物は、日焼けした額に汗を光らせながら、話し始めた。

「私は、最初にこの話を伺いました時、とうとう人間も来るべきところまで来たと思いました。ダーウィンが初めて進化論を発表した時、環境変化に適応できない種は淘汰されていくと論じました。現にこの地球上で、毎年何百、何千という動物、植物の種が消えてなくなっています。今回の件は、人間だけは例外だと思い込んでいた人類に大きな警鐘を鳴らす出来事として、深く進化論の歴史に刻まれる事件になるでしょう。人間だけが進化論から自由であり続けることは出来ないと私は考えます。」

 これに対し、先ほどの障害者協会の会長が噛み付いた。

「先生、それは弱者が淘汰されるのは仕方がない、とこういうことですな。」

「いいえ、何もそこまで言うつもりはありません。私は遺伝学者の立場から持論を申し上げているわけです。実際アフリカのサバンナで群れを作って暮す象は、怪我や病気で群れについて行けなくなった仲間を見捨てます。いえ正確には問題のある象が自ら群れを去るのです。生存競争の厳しいサバンナではちょっとした遅れが群れ全体の死活に係わります。種を守るため動物達は本能的に弱者を排除しているのです。私は人間だけは違うという考え方は、人間の奢りだと思うのです。」

 これを聞いて、今井会長はムッとしてそっぽを向いてしまった。険悪になった場のムードを変えようと、司会者は小説家の林氏の意見を求めた。

「小説家の林先生。先生は人間が「生きる」ということをテーマに数多くの著書を出されておられますが、今回の政府の決定を如何受け止めておられますでしょうか。」

「私は、人間にはやはり金や道理では測れない何かがあると信じています。そうした可能性を自らの手で摘み取っていくことにはやはり賛成できません。今の世の中は全てが五体満足という前提に成り立っています。ほら、現実に今皆さんがご覧になっているテレビ。これは目が見えて、耳が聞こえるということが前提となって成り立っています。それは五体満足な人間がこの世のマジョリティーを握っているからそうなるのです。

 もし目の不自由な人間が世の中のマジョリティーであれば、ラジオがもっと一般的なメディアとして発達していたでしょう。同じように、交通機関も、教育制度も、職場も家庭も全てまったく違った基準をベースとして発達して来たに違いありません。そういう社会では、むしろ五体満足な人間こそが障害者となるのです。」

 五体満足な人間が障害者?。この逆転の発想に場に居合わせた人々は唖然とした。確かにこの世の中は何もかもが多数決で成り立っている。少数者は常に弱者として迫害され、取り残されてきた。しかし、その少数者が多数者になれば世の中も変わるかもしれない。全てのパネリストは次の意見が出せずに押し黙ったままとなった。そんな中で一人、今井会長だけが満足気に頷いていた。

 討論はさらに続いていく風であったが、真由にはもう十分であった。障害者を差別してはならない。当たり前のことのように言われてきたことが、日本国の存立に関るという理屈の前でいとも簡単に覆されたことで、真由は人間不信に陥っていた。テレビのスイッチをオフにした真由は、床の中で眠れぬ一夜を過ごした。いつまでも溢れ出る涙で、枕だけが一晩中乾くことはなかった。


「確かこの辺りのはずだか。」

 誠は地図を片手に産寧坂を行ったり来たりした。このところ半月ばかりトレーニングを休んでいる真由のことが気掛かりになって、真由の工房を訪ねようとしていた。それまで週二回欠かさずトレーニングに通っていた真由にしては異例のことであった。

 真夏の太陽がジリジリと照り付ける昼下がり、さすがの観光客の姿もまばらとなり、産寧坂には陽炎がゆらゆらとしていた。

 一頻り探し回った果てに、誠はようやく目的の「山村工房」を見つけた。山村工房は産寧坂から少し入った袋小路の奥にあった。

 昔風の引き戸を開けて敷居をまたぐと、そこはもう仕事場であった。六畳ほどの板間には所狭しとばかり下絵の描かれた清水焼の飾り皿が並べられ、ランニングシャツ姿の職人風の男が真剣な眼差しで絵筆を走らせていた。古ぼけた扇風機が蒸し風呂のような室内の空気をかき混ぜていた。

「あのー。関口真由さんはこちらでしょうか。」

 誠の声に筆を止めたその男は、眼鏡越しにじろりと誠を見ると、無愛想に応えた。

「どちらさんかいな。」

「真由さんの友人の林田誠と言いますが。」

「林田?、ひょっとして、あんさんが真由の目のお医者さんどすか。話しはいつもあの子からよう聞いとります。えらいお世話になっておりますそうで。」

 気難しそうな職人の顔に笑みが漏れたのを見て、誠はとりあえずほっとした。

「それで真由さんは、いますでしょうか。」

 男は誠の質問に答える代わりに、まずは座れとばかりに座布団を差出した。

「先生、あの子の目はもうあきませんのやろか。この頃、目の見え具合が悪いのかめっきり絵の質が落ちてましてなー。あの子自身も分かってますねんやろ。このところ塞ぎ込んでましてな。」

 誠はようやく真由がトレーニングを休んでいる理由が分かった。病気の進行が既に真由の絵付けの仕事にまで影響を及ぼし始めていたのである。

「焼き物の絵付けはこう見えましても結構目先の細かい仕事でしてなー。私らみたいな歳になると手先が狂うて奇麗に仕上がりませんのや。あの子が初めて弟子入りしたい言うて来てくれた時は、正直うれしかったですわ。後を継いでくれる者が出来たと思いましたわ。最近の若いもんは、こういう根気のいる仕事はせーしまへん。それが、突然緑内障や言うて……。」

 そこまで話すと、男は言葉を失って声を詰まらせた。しばらく重苦しい沈黙が続いた後、男は再び徐に口を開いた。

「あの子は近江の信楽焼きの里の出でしてなー。小さい時からよう親の手伝いをしとったんでっしゃろ。うちに来た時は、もう私らが教えることあらへんほど筆達者でおました。何でも両親を早うに亡くしたらしいて、目の不自由なおばあちゃんに育てられたて言うてましたわ。ほんま惜しいなー。なんであんなええ子がけったいな病気にならなあかんねんやろ。本人ももう書かれへん言うてえらい悩んどりますわ。この頃はかわいそうで見てられませんわ。」

 男がそこまで話した時、奥の方でガシャーン、ガシャーンと焼き物の割れる音がし始めた。誠は、男に促されるように暖簾を分けて奥の部屋と進んだ。

 京都に特有のうなぎの寝床のような造りとなった工房は、表からは想像も付かないほど奥行きがあった。素焼きの皿がうず高く積まれた小部屋を二つ三つ通り過ぎて行くと、やがて誠の足はハタと止まった。

 薄汚れた蛍光燈の下で一枚一枚皿を割り続ける真由の背中が見えた。後姿を見ただけで、誠には真由が泣いていると分かった。誠は後ろからそっと近付くと、振り上げた真由の手首をしっかりと掴んだ。

「真由さん、もういい。やめるんだ。」

「放して、手を放して。ダメなの。もう描けないわ。何かもおしまいよ。おしまい……。」

 真由は抑えられた手を振りほどこうとしてもがいたが、やがてそれが無理と知るやその場に突っ伏してワッと泣き崩れた。

 誠は、真由の手で粉々に打ち砕かれた素焼きの皿の破片をかき集めて、ジグソーパズルのように並べ始めた。一つまた一つ手にとっては組み合わせていく。やがて淡い緑と燃えるような朱に塗られた一輪のカキツバタの絵が現れた。本来ならさらに上薬を塗られ、釜で焼かれるはずであった皿は、今誠の前で無残な姿を晒していた。

 素人目にはどこが問題なの全く分からない出来栄えであった。しかし、そんな絵も真由の目からすれば失敗作なのであろう。真由はこの二週間こんなことを繰り返していたのであろう。それでトレーニングにも来なかったのだと、誠は思った。

「真由さん、君は間違っている。」

 誠は、泣き腫らした真由の目を正視して、呟いた。

「どんな失敗作でも、この皿は皆生きているんだ。君がその命を吹き込んだんだ。それを自らの手で壊すなんて、僕には賛成できないな。」

「素人には分からないのよ。こんなもの、恥ずかしくて人前には出せないわ。」

 真由は激しく抵抗した。一流の芸術家を目指すものは妥協を許さない。何百枚、何千枚と描いて、その内の一枚だけを取り上げる。今の真由にとっては、そうした芸術作品どころか普通の飾り皿ですら描くのが難しくなり始めていた。しかし、誠はひるまなかった。

「そうだろうか。どんな欠陥があろうとも、これも立派な作品だ。百パーセント完璧なものなんてこの世には何もないはずだよ。神様だって作り間違いをするんだから。」

「神様も?」

 真由は泣き腫らした目をそっと上げた。

「そう、神様も。ほら、僕や君の目、これは神様が作り間違いをしたんだよ。」

 神様も作り間違いをする?。その一言に真由は、思わず誠の顔を見詰め直した。

「そうだろう。小さな欠陥を理由にしてお皿を壊す、それって遺伝子に欠陥のある人を排除しようとすることと同じじゃないか。」

 真由は、誠の顔を凝視したまま、しばらく呆然としていた。

「ご、ごめん、ごめんなさい。私ったら、本当に、ごめんなさ…」

 その後は言葉にならなかった。真由の頬にはあらためて幾筋もの涙が溢れ出た。真由は目の前に山と積まれた皿のかけらを一つ一ついとおしむように拾い上げると、手の平の中に固く握り締めた。その手の甲に、頬を伝った滴が一つまた一つと落ちていった。


 三ヶ月後、衆院本会議場。

「賛成二百四十、反対二百三十二、棄権八、遺伝性緑内障患者の産児制限に関する法案は賛成多数で可決されました。」

 採決結果を読み上げる議長の声が本会議場に響き渡る中、パラパラという拍手に混じって怒声が飛び交うのが聞こえた。

「ご覧の通り、世界の悪法と言われた遺伝性緑内障患者の産児制限に関する法案が今僅差で可決されました。医療審議会の答申の発表以来わずか三ヶ月、この異例の早い法案成立に今の日本の置かれた深刻な状況が伺えます。

 遺伝子診断による産児制限という世界でも前例を見ない法律が成立したこの瞬間を何百万、いや何千万の日本国民が目撃したでしょうか。国家の存立のためにはやむを得ないとはいえ、この苦渋の決断を迫られた国会議員達も冴えない表情で議場を後にし始めました。

 この法律が私たちの日常生活にどのような影響を及ぼすのか、そして私たちは本当に正しい決断をしたのか、その答えはずっと後の私たちの子孫にしか知ることが出来ないのかもしれません。以上、衆院本会議場からのレポートでした。」

 法案成立の模様を伝えるレポーターの昂奮した声がテレビを通じて流れてくる。

「ああ、やっぱりダメだったか。」

 病院のレストランには重く長い嘆息の声かあちこちから上がった。この瞬間、トレーニングを終えた真由はいつものように病院のレストランで昼食を摂っていた。

 誠は、今日は緊急会議のために同席はしていなかった。恐らく法案成立後のことを話し合う会議がもたれているのであろう。今回の法案作成に少なからず影響を与えることになってしまった誠は、今どのような思いでこの瞬間を迎えたのであろうか。

 一方の真由はというと、自分でも不思議なほど落着いてこの瞬間に立ち会っていた。誠から事前にいろいろ聞かされて半ば諦めていたこともあるが、まだこの法律が日本国民の将来にどのような影響を及ぼすのか測りかねていた。レストランの中はお昼時というのにシーンと静まり返ったまま重苦しい空気に包まれ、時折すすり泣く声が聞こえてきた。

 とその時。

「理香、どうしたの。」

 真由の耳に、どこかで聞き覚えのある声が伝わってきた。見ればトレーニングルームで知り合った緑内障患者の女性が、五つ位の女の子と一緒に壁際のテーブルに座っていた。この女性も十年ほど前、若年性緑内障を患い、今ではすっかり白杖の必要なところまで進行していた。

「どうかされましたか。」

 真由は、そっと隣の椅子に座りながら、声を掛けた。

「その声は真由さん?。」

 目が不自由になると聴覚が鋭敏になる。この女性も真由の声を聞いただけで本人と聞き分けたようであった。

「ええ、真由です。こちらの女の子は?。」

「長女です。理香っていいます。」

「お子さんがいらっしゃるなんて存じませんでした。へえー、理香ちゃんって言うんだ。理香ちゃんはいくつかなー。」

 真由は、顔一杯の笑顔を作って、その女の子の顔を覗き込んだ。女の子は少しはにかむように母親の後ろに姿を隠した。

「ほら、理香。ごあいさつは。」

 母親に背中を押されたその幼子は、黙ったままコクリと頷いた。

「仕様がない子ね。いつもは幼稚園に送って行ってからトレーニングに来ていましたので。でもこのところ、どういう訳か幼稚園に行くのを嫌がって。それで今日は仕方なく一緒に連れて来たんです。」

 母親は心配そうに子供の頭を撫でながら話した。

「理香ちゃん、どうして幼稚園に行かないのかなー。楽しいお遊戯もあるんでしょう。」

 真由は、何とか子供の心を開こうと試みるが、理香はますます小さく固く身を縮めるばかりであった。

「子供には子供なりの理由があるんでしょうけど。何分この身体じゃ、見に行ってやるわけにもゆかないし。幼稚園の先生に聞いても思い当たるふしはないって……。」

 母親は不安の色を隠せずに呟いた。

「もしよろしければ、私が一度お連れしましょうか。何か分かるかもしれないし。」

 真由は、咄嗟に理香の送迎を申し出た。

「そっ、そんな。とんでもない。」

「いいえ、いいんです。遠慮されないで。家もそう遠くじゃありませんし。ほーら、理香ちゃん、今度はお姉ちゃんと一緒に幼稚園行こうか。」

 真由は椅子から立ってしゃがみ込むと、理香の手をとった。

「やだ。」

 そんな真由の手を振り払うように、理香はテーブルの下に隠れてしまった。

「すみません。我が侭な子で。ほら、理香ったら。」

「いいんです。じゃあ明日九時にお迎えに上がりますから。」

 真由は、理香の同意もないまま強引に約束した。母親は杖を頼りに立ち上がると何度もお礼をしていた。


 翌朝。

「確かこの辺りのはずだけど。」

 真由は、住所録を片手に住宅街の中をウロウロした。新興住宅街は似たような家が数多く建ち並んでおり、その中の一軒を探し出すのは意外と難しかった。ようやく表札を見つけた真由は、その中に「理香」の名があるのを確認すると、呼び鈴を押した。しばらくしてガチャリとドアの開く音がして、中から背中を押されるように理香が出て来た。

「すみません、わざわざ来て頂きまして。」

 理香はピンク色の幼稚園の制服を身につけ、黄色い帽子をかぶっていた。今にも泣き出しそうな神経質な表情をした理香は、母親の後ろにそっと身を隠した。

「さあ理香ちゃん行きましょうか。お姉ちゃんが手つないだげる。」

 理香は真由の手を払い除けるようにさらに身を縮めた。

「理香、我が侭言わないの。折角真由お姉さん来て下さってるんだから。」

 母親の声に促されるようにしぶしぶ小さな手を差出した理香は、覚悟を決めるように真由に付き従った。

「カワイイ制服ね。理香ちゃんは何組かしら。」

 真由は、理香の手を引きながらゆっくりと歩いた。しかし、理香は真由の質問にも心を開くことなく、黙って歩いていた。何かに脅えるように真由の手を握り締めた理香の指が子供とは思えないくらいの強い力で真由の手の平に食い込んだ。かわいそうに、一体何がこの子をこんなに脅えさせているのだろう、幼稚園が近付くにつれ真由自身の身体も強ばり始めた。

 あと百メートル程で幼稚園という所まで来た時、反対側の道からグリーンの制服を着た三人の男の子がこちらに向って来るのが見えた。その時、理香はすっと真由の後ろに身を隠した。真由がおやっと思う間もなく、男の子達が近付いてきた。

「あれー。誰や、このおばちゃんは?。」

「今日は、盲の母ちゃんはどないしたんや。」

 真由の後ろに隠れた理香を探すかのように、その子達は二人を取り囲んだ。真由がどうしていいのか解らないまま立ちすくんでいると、やがて三人の合唱が始った。

「お前の母ちゃん盲、お前もいつかは盲。お前の母ちゃん盲、お前もいつかは盲。」

 まるで囃子歌のように抑揚を付けて、三人は何度も何度も執拗に理香の耳元で歌い続けた。すっかり脅えついた理香は、真由の足に必死にしがみついていた。呆然として立ちすくんでいた真由は、やがて割れんばかりの声で叫んだ。

「何てこと言うの、この子達は。一体あなたたち……。」

 真由が拳を上げようとしたその瞬間、ワーという声とともに三人組みは幼稚園の方に走り去った。真由はこの瞬間、理香の登園拒否の理由が分かった。かわいそうに、この幼子は毎日このようないじめにじっと耐えていたのである。幼心にも目の不自由な母親を気遣って、自分一人の胸のうちに仕舞い込んでいたのである。

 あの三人の男の子は、毎日白杖を片手に理香を送り迎えする母親の姿を見ていたのであろう。そしてテレビであるいは親が話すのを聞いて、緑内障という怖い病気が親から子へと遺伝することを知らず知らずのうちに脳裏に焼き付けていったのであろう。世の中の鬱屈したムードが子供の心までも虫食み始めていた。しかし、子供はまだ正直である。思ったことをすぐに口に出してしまう。一方の大人達はどうか。表向きは同情するような気の毒顔をして見せても、心の内にはあの子供達と同じように鬼を棲まわせているのかもしれない。障害者に対する迫害は既に始っていたのである。

 放心状態になってそんなことをつらつら考えていた真由の隙を付いて、理香は家の方に向って一目散に駆け出した。

「理香ちゃん、あっ、ちょっと待って。」

 真由は理香の後を追って駆け出した。家の手前でようやく理香の肩を捉えた真由に、理香はしがみつくようにして泣き始めた。かわいそうに、小さな身体は小刻みに震え、顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。真由の口にもう言葉はなかった。真由はそっと理香の手を握って家の方へと向った。しかし、真由にはまだ大変つらい役回りが残っていた。

「そうですか、そんなことが。あの子ったら私に心配をかけまいとして、それで、それで……。」

 理香の母親は肩を打ち震わせて、ポロポロと大粒の涙を落とした。障害者に対してその障害のことを告げなくてはならないことほど非情なものはない。真由は何といって慰めていいのか言葉を忘れて、ただひたすら悲しみを共にした。


三 挑戦


 本能寺境内。

「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなーりー。一度生を得て滅せぬもののあるべきかー。」

 物悲しい鼓と笛の音に合わせて、シテ方の見事な舞いが続いてた。本能寺にある能舞台では、毎年夏になるとこの場所で明智光秀との戦いに敗れて自害した織田信長がこよなく愛したと言われる能楽「敦盛」が演じられた。

 能舞台の前で焚かれるかがり火のわずかな光に照らされて、一層優雅な雰囲気が醸し出されていた。舞台前は咳払いをするのも憚られるほどピーンと張り詰めた空気が満ち、シューという絹の衣装の擦れる音までが耳に届いた。やがて舞いを終えたシテ方が静々と橋懸かりを下がっていく。静かだった場内に拍手が沸き起こり、終演を迎えた。観客は舞台の余韻を楽しむかのようにパラパラと席を立ち始めた。

「能の精神は般若心経に通じるものがあるそうです。」

 誠は、舞台正面を見据えたままようやく口を開いた。

「般若心経?、ですか。」

 真由は思わず聞き返した。

「そう、般若心経。仏教の基本の基本の教えです。この世は一切が「空」すなわち本来は何も存在していない、従って物事に一々拘ってはいけないという釈迦の教えです。」

「何か難しそうな、お話ですね。」

 真由も般若心経という言葉くらいは耳にしたことはあったが、それがどういう教えなのかは全く知らなかった。

「能が生れたのは今から六百年くらい前、室町時代のことです。世の中は乱れに乱れ、人々は明日をも知れぬ中で暮していました。そうした人々の心の支えになったのが諸行無常を説く仏教だったのでしょうね。世阿弥はきっとこの世の地獄を見たのでしょう。そしてこのような素晴らしい芸術が生み出されたのかもしれない。」

 真由は誠の説明に逐一頷きながら聞いていたが、まだ大きな疑問があった。誠は一体なぜ能なんかに興味を持つようになったのだろう。今の世にはありとあらゆる芸術や文化が満ち溢れている。どちらかというと退屈そうな古典芸能のどこにそんなに惹かれたのだろうか。

 真由がそんなことを考えている間にも、観客の列が引いて二人もそれに付き従って本能寺の門前へと出た。外は既に真っ暗になり、上りはじめた月が寺の本堂の大屋根に掛かっていた。

「大分涼しくなりましたね、少し歩きましょうか。」

 誠はそう言うと、そっと右手を差出した。真由は遠慮がちに左手を差し伸べ、誠の手を取った。トレーニングを通じてかなり親しくなってはいたものの、こうして誠の手を握るのは初めてであった。誠は真由の手を取ると、河原町を過ぎ鴨川縁へと歩みを進めた。

「私が能楽に興味を持ちはじめたのは三年前のことでした。担当した患者さんに能楽師の方がいらっしゃいまして。確か翔応流の宗家の方とか。やはり緑内障を患っておられて、トレーニングに通って来られたんです。あの素晴らしい身のこなしは今でもはっきりと覚えています。その方は、能の極意は「無」の境地に至ることだとおっしゃっていました。全身全霊を無にすれば、身も心も空気のように軽くなり、あの狭い能舞台が無限の空間に変わるとね。」

 人間は本当にそこまで変われるものなのであろうか、真由は不思議な気持ちで誠の話を聞いていた。

「それで、その方は今はどうされているのですか。」

「まだ現役で活躍されていますよ。もうほとんど見えていないはずなんですが。舞台に立つと全くそんな素振りは見られないし、今じゃ人間国宝の候補にも名が上がっているそうです。障害があるがゆえに健常者には到達できない奥深い芸術性を体得されたのでしょう。」

 真由はますます驚いた。健常者には到達できない極致、そういう世界があること自体がまだ信じられなかった。

「私も不思議な気持ちで一杯でした。緑内障に苦しむ患者さんの姿を毎日毎日見ていた私は、医学の限界を感じ始めていました。あんなに苦労して勉強して医者になったのに、自分の病気すら治せない。情けなかった。苦しかった。そんな時、能との出会いがあったんです。あの方の力強い一言に、人間の無限の可能性を見たような気がしました。それから能の不思議な世界に魅せられていったのです。」

 真由は今ようやく誠がなぜ能に興味を持つようになったのかを知った。頼もしく思えた誠も、実はもがき苦しみ、答えを求めて悶々としていたのだ。真由は温かく大きなものに包まれたような穏やかな気持ちになった。それが何なのかわからない。ひょっとすると、これが能の持つ魅力というものかもしれない、真由はそんなことを考えながら誠の手を握り締めていた。

 道はいつしか三条大橋の近くになっていた。夜十時を過ぎると、この辺りはすっかり人通りも少なくなり、川面を渡ってくる夜風が暑い京都の夏に涼を与えていた。その時、突然誠が歩みを止めた。そして振り向きざまにはっきりと真由に告げた。

「真由さん、このままずっと僕の支えになってくれませんか。僕はこう見えても弱い人間です。本当は、見えなくなることがとても怖いんです。いつも張り詰めているようで、少しでも触るとこわれてしまうんじゃないかって気がして。あなたのような人に、しっかりと支えてもらいたいんです。」

 真由は咄嗟のことで言葉を失った。予想だにしていなかった誠のプロポーズの言葉であった。二年前のあの最初の出会いの時のこと、そして一年前の再会の日のこと、そして辛かったトレーニングの日々、全てが走馬灯の如く真由の頭の中をぐるぐると駆け巡った。

 あの絶望的な告知の瞬間以来、二度ありえないと思っていた至福の時が今真由の周囲に満ち溢れていた。真由は無言のまま誠の胸に飛び込んだ。真由の目には止め処もなく涙が溢れ、誠の襟元をしっとりと濡らした。時折遠くを行き交う車のヘッドライトだけが、しっかりと抱き合った二人の姿をいつまでも繰り返し映し出していた。

 

 翌日、眼科部長室。

「林田君、困るなあこんなことをしてくれちゃ。」

 眼科の高柳教授は不機嫌極まりない表情を浮かべていた。

「一体どういうつもりなんだ君は。これがどういうことかわかってんのか。」

 教授の机の上には、産児制限法反対同盟の機関誌「心の眼」が置かれていた。医療審議会の答申の発表以来、全国緑内障患者友の会の下部組織として反対同盟が結成され、法案成立後も撤廃を求めて全国的な運動を展開していた。

 誠はこの機関誌に寄せた原稿の中で、産児制限法がいかに愚策であるかについて意見を述べていた。遺伝子の欠陥を原因とする病気は緑内障だけではない。がん、痴呆、心臓病等、ありとあらゆる病気が大なり小なり遺伝子の欠陥により生じることは既にいろいろな研究で明らかにされていた。それを逐一産制法で排除していたのでは日本の人口はどこまで減り続けるか解らない。産制法はむしろ亡国の法律となりかねないのである。

 誠はさらに原稿の最後で、重要なのは欠陥遺伝子の保持者を排除することではなく、病気の根本治療を目指して不断の努力を続けていくことにあると説いていた。誠のこの論文は、産制法成立の旗振り役を勤めてきた高柳教授と洛東大学医学部に対する挑戦状でもあった。

「とにかく、私は大恥を掻いた。いや私だけではない、本学の威信も著しく傷がついた。この責任は必ず取ってもらうからな。」

 教授は威圧するような眼差しを誠に対して向けた。言われるまでもないことであった。誠の心は既に大学の外にあった。誠は平然と頭を下げると、無言のまま部長室を後にした。


 福知山、誠の実家。

「ど、どういうことですか。」

 六十過ぎの初老の女性は狼狽した様子で言葉を返した。林田節子、誠の母親である。早くに夫と死別した節子は、女手一つで誠と誠の妹の二人を育ててきた。林田家は福知山でも名の通った旧家で、男手がなくても特段食うには困るものでもなかったが、かねてより林田家に気兼ねしてきた節子は林田家の財産には一切手を付けず、自ら働きに出て生計を支えてきた。

 十畳はあろうかと思われる大きな座敷には、節子を囲むように三人の男と二人の女が座っていた。節子は仏壇を背に先程から一時間以上も正座を崩さずに親戚一同の話にじっと聞き入っていた。節子を囲んでいたのは、亡き夫義一の兄弟とその嫁たちであった。

「節子さん、あんたには本当申し訳ないと思うんやが、わしらの立場も考えて欲しいんや。三郎んちの智子は来月見合いしよるし、泰彦んとこの義行君やったかいな、ええ縁談話が来とるそうや。それが、あんた、親戚に緑内障の人がおるなんて世間に聞こえてみいな、縁談も何もあったもんやないで。」

 節子の義弟に当たる林田健二は一族を代表して深々と頭を下げていた。産児制限法が施行されて後、緑内障遺伝子の保持者を排除しようとする動きは日増しに強くなり始めていた。

 日本人はなぜこうも因習深いのであろうか。田舎では、未だに縁談話を進める前には必ずといっていいほど聞き合せが行われる。誠と節子の存在は、林田家の親類縁者にとってまさに死活問題であった。

「林田家の血筋には緑内障の人はいてへん。わしらも遺伝子診断したけど、皆シロやった。ということは節子さん、あんたの筋や。あんたが林田家から籍抜いてくれたら皆大助かりなんや。もう一辺よう考えてくれへんか。お金のことやったら何も心配せんでええで。義一の遺産も全部あんたのもんやし……。」

 健二は執拗に節子に対して林田家からの離籍を迫った。

「財産なんて、そんな……。私は、ここでこうやって義一さんの慰霊をお守りしているのが一番の幸せなんです。迷惑は掛けませんから……。」

 節子はそう言うと、救いを求めるように仏壇の方を見やった。そこにはみずみずしい菊の花に並んで亡き夫の位牌が奉られていた。その時、健二の激昂の声がとんだ。

「かなん人やなあ。あんたが林田家におることが迷惑なんやて言うてんのに。ことの分からん人やな。ほんま義一もえらい人を嫁にしたもんや。」

 健二は湯呑み茶碗を座敷机の上に叩き付けると席を立った。机の端からこぼれたお茶がポタポタと畳の上に落ちた。

「行くで。これ以上この人と話しても無駄や。」

 健二は座布団を蹴飛ばしながら玄関へと向った。

「ほんま、節子さん、もう一回よう考えてなあ。」

 残された親戚連中も代わる代わる席を立って、済まなさそうに声を掛けると部屋を後にした。全員がいなくなった後、閑散とした十畳の間から節子の号泣する声がいつまでも漏れ聞こえた。


「ねえ、誠さん。お母さまって、どんな方なの。」

 真由は、また同じ質問を繰り返した。暑い夏の日もようやく西に傾き、街の家並みがセピア色に染まり始めた夕暮れ時、誠と真由は福知山の実家に着いた。

 誠は真由のことはまだ節子にも話していなかった。もうすぐ目が見えなくなる、そんな人間のところにそれと知って嫁いでくる人など居ようはずもない。節子は恐らく誠が結婚するなどと針の先ほども思っていないに違いない。誠はいたずらっ子が隠し事を母親に打ち明けるかのように胸をときめかせていた。

「大丈夫。きっと君のことを気に入ると思うよ。」

「だといいけど。」

 二人は手を取り合って林田家の門をくぐった。

「ただいまー、母さんいる?。」

 誠は玄関先で大声で叫んだ。出て来た母親が真由の姿を見てどのような反応を示すか、それが楽しみで誠の胸の鼓動はさらに高まった。しかし、母親はなかなか迎えに出て来ない。いつもはいそいそと玄関先に出て来る人が、今日に限ってどうしたのであろうか。珍しく留守にしているのであろうか。それにしては玄関に鍵も掛けず、不用心である。誠は今一度声を上げて母親を呼んでみるが、返事がない。

 仕方なく、誠は靴を脱ぎ捨てると玄関に上がった。真由も後に続いて上がると、跪いて靴を丁寧に並べた。誠と真由は家の奥へと廊下を進む。いつも母親がいるはずの十畳の間には人の気配はなく、呑みかけの湯呑み茶碗が六個、無造作に座敷机の上に並べられていた。しっかりと閉じられた障子には、真っ赤な夕日に照らされて庭の松の枝がシルエットとなって浮かび上がっていた。

「母さん、どこ?。」

 誠は大きな屋敷の中をグルグル回って母親を探すがどこにもその姿がない。そうしている間にもどんどんと夕闇が迫ってくる。一体どこへ出かけているのであろうか。誠は勝手口の扉を開くと裏庭に出た。林田家は大きな旧家で、家の裏手には土蔵と納屋があった。その土蔵の陰で誠はようやく節子の後ろ姿を発見した。

「母さん、そんなところで何を……。」

 誠が声を掛けるが、節子は誠の来訪に気付いていないのか、一心不乱に手を動かしている。後ろからそっと近付いて今一度声を掛けた。その声にようやく振り返った節子の顔を一瞥して、誠は跳び上がらんばかりに驚いた。そこにはいつもの優しい母親の顔はなく、髪は乱れ、目はぎょろりと充血し、鬼面のような形相が漂っていた。

 しかし、誠がもっと驚いたのは、節子が手にしているものを見た瞬間であった。節子の手の中には、一本のロープがしっかりと握られていた。そのロープの端は間違いなく円形に結わえられていた。

「ま、誠?。」

 節子は突然の来訪者に、まるで夢遊病者のような視線を投げかけた。誠は咄嗟に節子が何をしようとしていたのか悟って、心臓が凍りつきそうになった。

「母さん、何を馬鹿なことを……。」

 誠はそう言うなり、節子の手からロープをむしり取った。節子は、空ろな目で自らの両の手を代わる代わる睨みつけると、ゆっくりとその視線を誠に向けた。ようやく我に返った節子は、誠の両手に顔を押し付けて号泣した。


「ひどい、何てひどいことを……。」

 話を聞く真由の目にみるみる涙が溢れた。節子は二人を前にして、昼間の出来事を話した。誠は憤りを隠せない様子で、プルプルと拳を震わせた。幼い頃より「誠ちゃん、誠ちゃん」と言って可愛がってくれた叔父や叔母の顔が、今となっては鬼畜のように思えた。

 叔父や叔母が悪い訳ではない。全ては「緑内障」という遺伝病のせいであった。こんな凄惨な目に遭っているのは節子だけではあるまい。恐らく日本全国にいる何万何十万という家で、今同じようなことが起きているはずであった。

「頼りない息子ですが、どうか宜しくお願いします。」

 ようやく落ち着きを取り戻した節子は、真由を前にして深々と頭を下げた。

「いいえお母様、こちらこそ不束者ですが、よろしくお願いします。」

 真由も慌てて畳に両手を突いた。

「本当に早まらずに良かった。本当、本当に夢のようです。三年前、誠が重い眼の病気を患ったといって帰って来た時は、すっかり気が動転してしまって。誠を結婚も出来ないような身体に産んでしまったことを何度も悔やみました。でもよかった、真由さんのような素敵な人に巡り会えて、本当に…。」

 節子は涙声を詰まらせて、その先は言葉にならなかった。誠の病気が遺伝性のものであったと知って、節子はずっと負い目を感じていたようであった。人の親として、子供を五体満足に産んでやれなかったことを悔やんで、何日も仏前で過ごしたこともあった。そして、つい先程は死の淵までをも覗き込んでしまった。その誠が結婚する。節子の胸中は、まさに地獄から天国に上る心地であった。

「でもお母様、私も同じ病気でいつ見えなくなるか分からないんです。誠さんの支えになるどころか、重荷にすらなりかねないんです。」

 真由は恐れずに、きっぱりと言った。

「大丈夫よ、真由さん。二人で力を合わせてゆけば、きっと幸福な家庭が築けるわ。きっと……。」

 節子は両手で真由の手を握り締めると、力強く言い切った。老親の手は痩せてはいたが奇妙なほどに温かかった。そうかもしれない。それまで半信半疑であった真由の心も、節子の言葉にようやく結婚に対する自信が沸き始めた。

 誠はというと、すぐ隣で満足そうに目を細めて二人の様子を見ていた。誠の心の中は、二人の結婚に快く賛成してくれた母への感謝の気持ちと、これまで心配を掛けてきた親に対してこの上ない孝行が出来たことへの満足感で満ち溢れていた。


 翌日夕刻、誠と真由は京都に戻った。

「真由、本当にありがとう。母さんも君のことを気に入ったようだし。本当に何といっていいか……。」 

 誠がそう言いかけたその時、真由の視線が釘付けになった。

「あれ、あの人……。」

 真由の視線の先に、その人影はあった。橋の欄干に両手を突いて下をじっと覗き見ている。薄暗がりでよくは分からないが、時折両手を合わせるようにぎこちなく動く様は、明らかに尋常ではなかった。

 その人は二人の存在に気が付いていないようであったが、やがてゆっくりと欄干に足を掛けはじめた。自殺?。真由は反射的に駆け出した。誠も後を追う。間一髪のところで真由はその人影をゲットすると、折り重なるように歩道に倒れ込んだ。しかし、その人はすぐさま起き上がると再び欄干に手を掛けた。必死にすがりつこうとする真由の眼前を黒い影が駆け抜けた。次の瞬間、真由は誠の腕の中にしっかりと抱きかかえられた女性の姿を発見した。

「お願い、死なせて、放して。」

 女性は誠の腕の中でもがいた。女性にしては恐ろしく力が強い。死を覚悟した者は普段考えられない力を出すものである。振り切られそうになる誠の脇から真由も改めてしがみついた。二人に羽交い締めにされ、流石に観念したらしく、女性はその場に崩れ落ちて泣き伏した。

 真由と誠はようやくホッと一息ついて顔を見合わせた。街灯の薄明かりに照らし出されたこの女性は、年格好は三十過ぎ、いかにも育ちの良さそうな端正な顔立ちからは「自殺」という言葉は到底想像できなかった。

「真由、手を貸してくれないか。」

 誠はそう言うと、その女性を抱きかかえるように立ち上がらせた。

「一体どうするつもり。」

「こんな場所にこのまま放っても置けないし、とにかく僕のマンションまで運ぼう。」

 幸い誠のマンションは鴨川べりのすぐ近くにあった。二人は女性が再び駆け出すことのないように両脇をしっかりと固めると、足早に誠のマンションに向った。女性もようやく落着いてきたのか、観念して二人に付き従った。


「すみません、すみませんでした。本当に……。」

 俯いたまましばらく沈黙を続けていた女性は、やがて涙声で頭を何度も何度も下げた。三人は誠のマンションの一室で向き合ってソファに座った。

「一体、どうされたんですか。その若さで死のうなんて、余程のことがあったんでしょう。」

 誠の問い掛けに、その人は一瞬ためらう様子を見せたが、やがて堰を切ったように話し始めた。

「私、もうすぐ目が見えなくなるんです。若年性の緑内障だとか。」

 ああこの人もか…、誠と真由は思わず天井を仰いだ。

「ショックでした。何度もお医者さんを変えてみましたが結果は全て同じ。あと五年程で完全に失明するって。治療法もないとか。怖くて怖くて、神様にもお祈りしました。でももうどうにもならないと分かった時、自分でも知らない間にあそこに立っていました。」

 そこまで話すと女性はわっと泣き伏した。真由は言葉を失って、ただ女性の肩に手を掛けるだけで精一杯であった。その時である。女性の顔がみるみる蒼ざめ、慌てて手にしたハンカチで口元を被った。

「どうかしましたか。大丈夫ですか。」

 心配そうに覗き込む真由の傍らで、女性は苦しそうに顔を歪めた。どう見ても心理的な苦痛のようには見えなかった。もっと差し迫った何か、まさか薬?、再び真由の脳裏に緊張が走る。しかし、一方の誠はというと落着いた表情でポツリと尋ねた。

「あなた、ひょっとして……。」

「そうです、三ヶ月です。赤ちゃんが出来たって聞いた時は、夫と二人で本当に大喜びしました。結婚して三年なかなか子供が出来なくて。待ちに待った初めての子供でしたから。でもそれが悪夢の始まりでした。お医者様が、念のため緑内障遺伝子の検査をしておきましょうとおっしゃって……。」

 そこで、女性は再び涙で声を詰まらせた。その後、真由も誠も予想だにしていなかった世にも恐ろしい言葉がこの女性の口から発せられた。

「お医者様は中絶しましょうって。このまま産めば産児制限法に引っかかって罪になります、どの道目が見えなくなれば子育てどころじゃなくなりますよって。」

 茫然自失、真由と誠は一瞬にして言葉を失ってしまった。人は誰でも失明すると言われただけで大変なショックを受ける。それに追い討ちを掛けるように、子供の中絶を促すなど、温かい血の通った人間のすることではなかった。ましてや人の命を預かる医者の言葉とは到底思えなかった。

「お医者様から、何故子供を作る前に遺伝子検査を受けなかったのかって言われました。今じゃ常識だって。でも私、まさか自分がそんなややこしい病気にかかると思ってもみなかったので……。」

 そこまで話すと、女性は再びハンカチを口に当てて突っ伏した。

「ひどい、ひどすぎる……。」

 真由は、女性の背中を擦りながら、絶句した。誠も怒りのために全身をワナワナと震わせた。

長い、長い沈黙が続いた後、誠はそっと立ち上がると、壁際に置かれていたデスクの引出の中を弄り始めた。やがて、何かの書類を手にして戻って来ると、誠は一心不乱に書類に何事かを記入し始めた。ボールペンを握る誠の手は怒りのために硬くなり、ペン先が折れんばかりにしなっている。

「申し遅れましたが、私は眼科の臨床研究医をやっています林田といいます。心配要りません。医師の診断書さえあれば子供は産めます。」

 誠は、自信に満ちた口調ではっきりと話す。一体誠は何をしようというのか。心配そうに隣から覗き込む真由は、やがてその書類の表題を見て仰天した。そして、誠の恐ろしい発想に身震いを覚え始めた。

「誠さん、そ、それって……。」

 真由が制するのを無視して、誠は「診断書」と表示された三枚複写の書類にペンを走らせていた。診断結果の欄には「NP(異常なし)」の二文字が自らを喧伝するかのように踊っていた。やがて書類を書き終えた誠は、右下隅「担当医師」とある欄に自らの署名をすると、力任せに次々と三枚の紙に判を押した。

「さあ、どうぞ。一枚目は出産のときに産婦人科医に、二枚目は出生届の際に市役所に、そして三枚目があなた自身の控えです。」

 誠は書き終えたばかりの診断書を女性に手渡した。最初は何のことかわからずキョトンとしていた女性も、やがて誠の意図するところを汲み取るやいなや、ワナワナと手を震わせて泣き始めた。

「あっ、有り難うございます。あ、あ、……。」

 その後は声にならなかった。

「いいえ、いいんです。生まれてくる子供に罪はありません。たとえ、どんな苦難が待ち受けていようと、その子は私たちの明日を担っていく大事な運命を背負っているのです。その芽を自ら摘み採ってしまってはいけません。」

 誠はきっぱりと言い切った。紅潮した誠の横顔を見ていた真由の口にもう言葉はなかった。真由は誠の深い、深い優しさの一旦を垣間見たような気がした。と同時に、何ともいえぬ冷たい予感が背筋に走るのを覚えていた。


 洛東大学病院外来待合所。

 多くの患者が診察の順番を待っている中、テレビから漏れ伝わる首相の演説が、殊更に大きく廊下に響いていた。

「日本国民の皆さん、私は今敢えて皆さんに「忍耐」ということをお願いしたい。皆さんの苦しみは私にも痛いほどよく分かります。でも今私たちがやらなければ、私たちの子供はさらにその何倍も苦しむことになるのです。私たちこの苦しみを子供たちに引継ぐわけには行きません。日本のため、国のため堪え忍ぶことが今私たちに求められているのです。」

 テレビ画面一杯に映し出された首相の顔はいつになく紅潮していた。新しい産児制限法が施行されて後、政府の締め付けは日増しにきつくなっていた。法律に違反して子供を産む人を取り締まるため、厚生労働省の下部組織として新たに遺伝性緑内障監視委員会(緑監委)が設置された。緑監委の主な任務は、緑内障遺伝子保持者の発見と監視であり、産児制限法の違反者に対しては逮捕権まで有していた。

「お国のために耐え忍ぶ、か。いつかどっかで聞いたような台詞やなあ。ホンマ、何でこないなけったいな法律が出来よったんかいなあ。」

 テレビを見ていた患者の一人が呟いた。誠は、その声に、はたと足を止めた。「お国のために耐え忍ぶ」、日本の危機を救済するという名目のために、一体何人の尊い命が、しかも生まれる前に奪われていったのか。そして、障害者の人権はいとも簡単に踏みにじられていく。

あの日以来、誠はせっせっと例の診断書を書き続けていた。偽の診断書を書いてくれる医者がいるという噂は、口伝て、ネット伝に広まり、多い時は、日に何通も書くこともあった。

 診断書を書く誠の目は輝いていた。あと自分の目は何年見えるか分からない。せめて目が見えるうちに一人でも多くの人を苦しみから救済したい。今の日本には若年性の緑内障患者は少なく見積もっても数百万人はいる。その何万分の一でもいい。自分の力で子供を生ませてあげることが出来るのなら、自分の身はどうなってもいい、と誠は思っていた。


「いや、お願い。お願いだから、産ませて。いやーー。」

 廊下にけたたましい叫び声が鳴り響き、患者の視線が一斉にその声の方に向けられた。見れば三十過ぎと思われる女性がストレッチャーで運ばれていくところであった。ストレッチャーの脇から数人の看護師が女性の体を押さえつけている。女性は必死の形相でその手をはねのけようと暴れ回っている。

 騒ぎを聞きつけて、誠がストレッチャーの方に駆け寄ろうとしたその時、一人の看護師が注射器を片手に大慌てで誠を追い越していった。しばらくして、女性の叫び声は次第に静かになり、やがてカラカラというストレッチャーの車輪の音だけになった。女性を押さえつけていた看護師は、やれやれという表情で一人また一人と手を離した。

「一体、何事ですか。」

 誠は、そんな看護師の一人に声をかけた。

「中絶ですよ、中絶。あれですよ、ほら、いつもの。」

 看護師は馴れた口調で、特に悪びれる様子もなく答えた。その声には同情の気持ちなど微塵もなく、わずかに嘲笑の響きさえ感じられた。

「ちょ、ちょっと、待ってください。」

 誠は、走り去るストレッチャーを大声で呼び止めた。ストレッチャーを取り囲んでいた医師や看護師の人垣がさっと割れて、上に乗せられた女性の姿が露わになった。恐らく鎮静剤でも打たれたのであろう、先ほどまであれほど騒いでいた女性がぐったりとなっていた。

「何か、ご用ですか。」

 「産婦人科」と記された胸章を付けた医師が誠の前に立ち塞がった。

「止めてください。あんなに嫌がってたじゃないですか。」

 産婦人科の医師は、怪訝そうな表情で誠の胸章をジロジロと見回した後、ふんと笑い飛ばすように言い返した。

「先生、そりゃあ無理ですよ。緑内障ですよ。緑内障患者が子供を産んだらどうなるか、眼科の先生なら一番よくご存知じゃ・・・」

「分かってます。よーく、分かってます。でも、この人、あんなに嫌がってたじゃないですか。産ませてあげてください。一人くらい産んだって、大したことじゃ・・・」

 誠が言い返そうとしたその時、誠と産婦人科医師の間に、二人の男がのっそりと割って入った。

「先生、無理なものは無理なんですわ。」

「あなた方は?」

「私たちですか、私たちはこういうもんですわ。」

 二人の男はチラリと手帳のようなものを誠に指し示した。そこには「厚生労働省遺伝性緑内障監視委員会」と記されていた。

「先生、こればかりはいくら先生でもね。」

 男の一人が冷たい口調で誠の耳元で囁いた。

「そ、そんなバカな。人一人の命がかかっているんですよ。あなた方、お腹の赤ちゃんを中絶するということが、どういうことか分かってるんですか。赤ちゃんの命を奪うっていうことですよ。」

 誠は、廊下中に響き渡るような声で叫んだ。

「先生、私たちもよーうその辺のことは分かっとります。でも、これは規則なんですわ。緑内障の遺伝子を持ってるもんは子供産んだらあかん、そう法律で決められとるんですわ。まあ、先生、そういうことですので。」

 男は、医師や看護師に先へ行くよう目配せした。

「ちょ、ちょっと待ってください。止めてください。」

 誠は、手を伸ばしてストレッチャーの手すりを掴もうとした。その時、もう一人の男が誠の行方を遮った。

「先生、ええ加減にしてください。私ら、国からの指示でやっとりますんや。ご存じないかもしれませんが、私らには逮捕権いうもんがありますねん。要は、警察と一緒ですわ。先生、あんまり面倒起こしはるようでしたら、公務執行妨害いうことで、行くとこ行ってもらうことに・・・」

「そんなもの、関係ありません。人の命と・・・」

 誠が、さらに男を押しのけて手を伸ばそうとした瞬間、白衣の胸ぐらをむずっと掴まれた。

「あかんもんは、あかんのや。ええ加減にせーよ。こらー。」

 男は、大声で叫ぶと、誠の体を両手で突き戻した。押された拍子で誠は体勢を崩して、どっと床の上に崩れ落ちた。

「ま、待て、待って。」

 誠の空しい叫びを残して、ストレッチャーはすべるように産婦人科処置室の中へと消えていった。

 待合所はシーンと水を打ったように静まり返り、人々の視線は一斉に二人の男と倒れた誠の方に注がれた。人々の目には怨嗟の念が込められていた。

「ほらほら、見せもんはもう終わりや。法律破りしたらどないなるか、皆もよう分かったやろ。」

 男たちは、ぶつぶつ言いながら産婦人科の方へと消えていった。誠は、白衣の裾を手で払いながら、ゆっくりと立ち上がると、男たちの後姿に燃え上がる炎の視線を投げかけていた。


 眼科部長室。

「林田君、一昨日の話耳にしたんだが。病院の廊下で厚生省のお役人さん方と一騒動あったそうじやないか。困るなあ、ああいうことをしてもらっては。」

 どうやら先日の件が教授の耳にも届いたようであった。高柳教授は、この前にも増して険しい表情になっていた。一方の誠はというと、もう何を言われても聞く耳持たぬという様子で立っていた。

「このご時勢、ああいうのは許されんのだよ。これは、一個人の問題では済まされない。お宅の病院ではああいう問題医者を抱えておられるのか、ということにもなりかねない。とにかく、厚生労働省から目を付けられたら一大事だ。私の責任者として立場も考えてくれよな。」

 誠は相変わらず黙ったまま教授の話を聞いている。

「とにかく、この件は明日の教授会でも話が出る。まあ、私も出来る限りの弁明はするつもりだが、恐らく君には系列の病院に行ってもらうことになるだろう。いいかね。」

 誠は、もとより今日の帰結は予想していた。いや、むしろ自分の方から言い出すべきであったと思っていた。

「そうですか、お世話になりました。失礼します。後のことはどうぞお気遣いなく。」

 誠は、自信たっぷりの口調で即答すると、くるりと踵を返した。部屋を出て行こうとする誠の後姿に対し、しかし、教授は意味深な最後の言葉を掛けた。

「林田君、これは君のためを思って最後に忠告しておくが、君、最近何かよからぬことに手を染めてはいないだろうね。」

「よからぬこと?。」

 誠は立去ろうとした足を止め、後ろを向いたまま聞き返した。

「いや、それならいいんだ。この世の中は善人ばかりじゃない。壁に耳あり、障子に目ありだ。くれぐれも身辺には気を付けるんだな。」

 誠は、その教授の言葉を聞くとも聞かずともなく、ドアノブに手を掛けた。

 

四 悲劇


 一ヶ月後。結婚式場。

「誠さん、このドレスはどうかしら。」

 二人は一ヶ月後に迫ってきた結婚式の打ち合せをするため、東山にあるホテルのブライダルルームを訪れていた。真由の手には、ウェディングドレスのカタログが握られていた。

「真由の晴れ姿を見るのもこれが最後になるだろう。一生の思い出になるものにしよう。」

 誠は最近ますます低下してきた視力を庇うかのように、カタログに見入っていた。出来る限り目の話しはしないつもりでいても、ついつい口を衝いて出てしまう。自分の視力に残された期間がもうそう長くはないということは、眼科医である誠自身が最もよく分かっていた。しかし、今の二人にはそんな辛い話しも平静をもって聞くことが出来た。

「新郎新婦のお席は、出席者の皆さんと同じ高さにさせて頂きます。」

 コーディネーターが披露宴会場の設営につき説明を続ける。バリアフリー、最近ようやくこの言葉が定着してきた。頻繁にひな壇を上り下りする新郎新婦にとっては、わずかの段差も気にはなる。誠の目が不自由であることを知っての上で、出来る限り健常者と同じように自然な披露宴をと願っての、心憎いばかりのホテル側の気配りであった。二人はそんな細やかなホテルの配慮が気に入って、ここを結婚式場に選んだ。  

 二人は、コーディネーターに案内されて、さらに控え室からチャペル、バンケットルームと下見をして回った。いずれも段差は取り払われており、これであれば車椅子でも不自由なく移動が出来る。二人は一ヶ月後に迫ったその日を頭に思い浮かべながら、幸せ一杯にホテルを後にした。


 夕暮れ少し前に、二人は誠のマンションに戻った。エレベーターホールを抜け廊下を進む間に、二人は誠の部屋の当たりに佇む怪しげな二人の人影を見かけた。こんな時間にこんなところで一体何を。泥棒?、いや泥棒にしてはきちんとした身なりである。それにこそこそした様子は微塵も感じられない。それどころかその目つきは人を威圧するように鋭かった。二人の手に緊張が走る。真由が二人を避けるように通り過ぎようとしたその瞬間、二人のうちの一人が声を掛けてきた。

「林田誠さんですね。厚生労働省の者ですが、ちょっとお伺いしたいことがありまして。検察庁までご同行願えませんか。」

 その人物は例の手帳らしきものをチラリと見せると、すぐに屈強な腕でガッシと誠の手首を掴んだ。抵抗する間もなく、あっという間に誠はエレベーターホールまで連れて行かれた。

 エレベーターホールには先程真由と誠が乗って上がってきたエレベーターがそのまま待機していた。男二人は誠の両脇を抱えるようにエレベーターに乗り込んだ。慌てて乗り込もうとする真由の身体を遮るように、一人の男がしゃがれた声で呟いた。

「ご心配いりません、すぐに済みますから。」

 真由が何かを口にしようとした時には、無情にもエレベーターのドアが閉じていた。慌てて非常階段を駆け下りる真由。薄暗くなりかけた階段は、やはり視力の落ちた真由には辛かった。何度も階段を踏み外しそうになるのをじっとこらえながら、ひたすら階下を目指す。わずか三階差を降りる時間が無限に長く感じられた。

 やっとの思いで、一階のエントランスまで降りた真由が表通りに出た時、バタンと車のドアの閉じる音がした。音のした方を真由が振り向いた時、誠を乗せた車は既に人気のなくなった通りを急発進していった。真由は呆然としたままマンションの前に佇むだけであった。


 翌日。

「真由さん、誠が検察に連れて行かれたんですって、一体あの子ったら、何を……。」

 電話の向こうの節子の声は明らかに動転していた。節子にしてみれば、目の不自由な誠が検察庁の世話になるようなことをしたとうことが全く信じられないという風であった。

「大丈夫です、お母様。きっと何かの間違いです。誠さん、すぐに戻ってきますよ。」

 真由は自信あり気に電話に向って話してはみたものの、内心は不安な気持ちで一杯であった。とうとう恐れていたことが起こってしまった。例の診断書のことが当局の知るところなった以上、何事もないでは済まされないであろう。真由の心のうちには、絶望感だけが黒雲の如く沸き上がっていった。節子に悟られまいとするものの、電話で話す真由の声は既に涙声になりつつあった。

 しかし、真由は気丈であった。その日のうちに「緑内障患者友の会」の事務所を訪ねた。もはや個人の力ではどうにもならない。組織の力を借りれば誠を助け出せるかもしれない。真由はワラにもすがる思いで事務所の門を叩いた。

 「友の会」の事務所は、烏丸にある雑居ビルの最上階にあった。四人乗るのがやっとの狭いエレベーターがゆっくりと六階まで上がる。エレベーターを降りると、すぐ眼前に雑然とした事務所の風景が広がった。

 事務所の中は騒然となっていた。全国から寄せられた署名と思われる紙片がうず高く積み上げられ、五人いる職員全員が引っ切り無しに鳴る電話の応対に追われていた。壁には産児制限法反対を唱える大きなポスターが貼られ、その横には今日までに集められた署名の集計結果を示す棒グラフが描かれていた。

 受付で事情を説明すると、やがて所長らしき男性が応対に出た。

「いやー、林田先生のことはよく存じ上げています。先生には何百人という数の緑内障患者がお世話になりました。いやそれどころか全国にいる何百万という患者にも多大の勇気を与えて下さいました。本当に林田先生には足を向けては寝られませんよ。」

 真由はよかったと胸を撫でおろした。この人達が誠の救出に力を貸してくれるに違いない。百万人の会員がいると言われる友の会が動けば、政府としても黙ってはいられないはすである。そうすれば誠はすぐに真由の手の元に戻ってくる。しかし、そう思ったのも束の間、真由は次の瞬間冷たい言葉を耳にしていた。

「お助けしたいのはヤマヤマですが、今は少しタイミングが悪すぎます。実は来週早々にも、反対同盟は百万人の署名を集めて政府に産児制限法の撤廃を求める陳情をすることになっています。こんな大事な時に、抜け駆けで法破りをしていたことが表に出るのは、いかにもまずい。たとえそれが人道的に見て正しいことでも、そうは見ない人もこの世には多くいます。

 私たちは今回の陳情を何としても成功させたいのです。今度の陳情が成功すれば、産制法は撤廃になるはずです。そうすれば何もかもが終わるのです。もう少しの辛抱ですよ。」

 所長は自らの抱負を熱っぽく語った。あまりの熱心さに真由はそれ以上説得を続ける術を失った。あと一週間待てば全てが解決する。真由はこの言葉を信じた。しかし、このことが後になって取り返しの付かない大事に発展することを、この時の真由は予想だにしていなかった。


 検察庁取調室。

「先生、ええ加減に吐いたらどないや。楽になるでー。悪いことは言わへん。先生が診断書書いた人のリストあるやろ。そのありかを教えてくれるだけでええんや。ほなすぐに家に帰れるで。捜査に協力してくれたら、あんたも無罪や。全部まあるうー収まるんや。」

 誠は狭い取調室に入れられていた。誠を取り囲むように二人の捜査官と思しき人物が、一人は椅子に腰掛け、一人は誠の後ろに立っていた。誠はそんな二人を無視するかのようにように黙っていた。もう何時間もこんなことが続いていた。テーブルの上の灰皿には煙草の吸い殻が山のように溢れ、取調室の中は目が痛くなるほど煙が渦巻いていた。

「わーれ。ええ加減にせーよ。お役所なめたらえらい目に遭うど。」

 突然捜査官の一人が、凄んできた。ガシャーンという椅子が吹っ飛ぶ音がしたと思うと、次の瞬間誠は手首に焼け付くような痛みを覚えた。捜査官が繰り出す火攻めをじっと耐える誠の額には脂汗が滲み出た。

「ほんましぶといやつやなー。ええか、耳かっぽじってよう聞きやー。おまえらの一人や二人どないでもなるんやでー。取調中に急性心不全ということにでもしょうか。」

 今度はもう一人の捜査官が誠の胸座を掴むと、グイッとばかりに締め上げた。襟が締って息が出来ない。苦しみに歪む誠の顔。次の瞬間、誠はどっかと投げ出され、床の上に倒れ落ちた。倒れる際に、こっぴどく机の角に顎をぶつけた誠は、アッパーカットを食らったようにクラリと来た。

 顎をぶつけた時に弾みで眼鏡が飛ばされたのであろう、誠の眼前は湯煙に包まれた風呂場のように変わった。四つん這いになった誠は手探りで眼鏡を探して取調室の床を這いずり回った。捜査官は爪先で誠の横腹に足蹴をくれながら嘲笑を飛ばした。

「情けないなー、盲いうんは。なんやーこのざまは。しゃあーない、今日んところはこれまでにしたろ。続きは明日や。一晩よう考えてみー。」

 二人の捜査官は担当の係官に誠を留置所に連れて行くよう指示すると、声高に笑いながら取調室を出ていった。


 真由のアパート。

「誠さんたら、こんなに。」

 真由は誠から預かったファイルをパラパラと繰った。ハードカバーの分厚いファイルが二冊、これまで誠が診断書を書いた人達の記録である。捜査官に連行される二日前、それを予感するかのように誠は密かにファイルを真由に預けた。このファイルが捜査官の手に渡っていたら一大事である。これまでの誠の努力が全て灰塵に帰するところであった。

 真由は一枚一枚丁寧にファイルされた診断書のコピーを繰っていった。この一人一人が誠の手によって子供を授かる機会を得た人々である。本来なら大罪となる誠のこの行為が、しかし多くの人を苦しみから救ったのである。常人に出来ることではない。

 その時、真由はふと診断書と一緒に綴られた一通の手紙に目が留まった。几帳面な字で書かれた便箋は全部で三枚あった。


林田先生

 先日は本当に有り難うございました。おかげ様で無事元気な男の子を産むことができました。先生に教えられた通り、たとえ私の目がどうなろうとも、そしてたとえこの子の目がどうなろうとも、私たちは絶対に先生のご恩を無駄にはいたしません。

 遺伝子により人の命を選別する、そんな馬鹿げたことがいつまでも続くとは到底思われません。命は神から授かるもの、それを人の手でどうこうしようなんて、いずれ天罰か下ります。

           < 中略 >

 でも、私は先生のことが大変心配です。本来なら頂いた診断書はあってはならないもののはずです。この診断書が先生ご自身の地位と引き換えになりはしないかと気が気でなりません。どうかご自愛なされて、くれぐれもご無理なさいませぬよう。     かしこ


 手紙とともに、一枚の赤ん坊の写真が出てきた。無邪気に笑う赤ん坊の瞳は黒く、そしてキラキラと輝いていた。こんなつぶらな瞳が緑内障に冒されるということが、真由には信じられなかった。いつかきっと治療法が見つかる、いや見つけなくてはならない。真由はそう実感するのであった。

 真由は、丁寧に診断書を繰っていった。最後の診断書のナンバーは「五九八」、そして書かれた日付は三日前となっていた。誠は連行されるつい先日まで、欠かさず診断書を書き続けていたのである。

自分が書いた論文のせいで多くの人々が苦しむ結果となったことを、誠は常々悔やんでいた。誠はきっと罪滅ぼしのつもりで、この診断書を書き続けてきたのであろう。真由は今ようやく誠の気持ちが分かり始めたような気がした。

 何とかしなければ、この人の帰りを待っている人々はまだ何千何万といる。一日も早く戻れるようにしなければ。真由は電話帳のページを繰ると、誠の弁護人の電話番号を調べた。そして、受話器を取り上げようとしたその瞬間、電話がけたたましく鳴り響いた。

 ギョッとして取り上げた受話器の向こうには動転したような女性の声があった。

「ああ、真由さん。節子です。」

 一体どうしたのだろう。真由は節子の声の調子から只ならぬ気配を感じ取った。

「今、京都の洛北病院から電話があって、誠が風呂場で躓いて頭を打ったらしいの。かなりひどいらしくて、すぐに病院に来てくれって。私もすぐに向うけど、真由さん先に行ってもらえないかしら。お願い……。」

 節子はかなり動転しているらしく、その後が言葉にならなかった。突然のことで真由も驚いた。一体誠に何があったのだろう。そして怪我とはどの程度のものなのだろうか。

 真由は家を飛び出すと、すぐにタクシーを拾った。真由のアパートから洛北病院までは車で三十分程の距離である。しかし、夕刻時の京都は大変な交通渋滞でタクシーはノロノロとしか進まなかった。真っ直ぐに伸びた東大路のはるか向こうまで赤色の信号が並んでいるのが見える。

「運転手さん、お願いです。急いで下さい。」

「わかっとります。でもこの渋滞では、どうもなりまへんで。」

 運転手は気の毒そうに応えた。真由は諦めるかのように後部座席に身を沈めた。家を出て約一時間、タクシーはようやく洛北病院のエントランスに入った。真由は慌てて料金精算を済ませると、小走りに病院の中へと入った。診療時間の終わった受付は人気もなく、迫り繰る闇の中で自動販売機の明かりだけが異様に明るく輝いていた。

 ナースステーションで来院の目的を告げると、救急病棟に行くようにと指示された。 

 真由は長い廊下を息を切らせて走った。人気のない廊下にパタパタという足音だけがこだまする。真由はようやく林田誠という札の掲げられた病室の前に辿り着いた。丁度診察を終えた医師が部屋から出て来たところであった。

「ご家族の方でしょうか。」

 医師は真由の姿を見るなり、切り出した。

「ええ、婚約者です。で、具合はどうなんでしょうか。」

「出来る限りの処置はしました。でも予想以上に損傷がひどくて…。」

 医師は気の毒そうに首を横に振った。

「そ、それって、どういうことでしょう。」

 次に医師の口から出てくる言葉を予想してか、真由の両足はガクガクと小刻みに震え始めた。

「つい二時間程前のことでした。検察の方から電話がありまして、内の病院じゃ手に負えない患者がいるということで。何でも拘置所の浴槽でつまずいて転ばれたとか。林田さん目がご不自由だったようですね。それで、緊急手術を施しましたが脳挫傷による出血がひどくて、もう手の施しようがない状態で……。」

 そこまで聞いた真由は気が遠くなりそうになった。やっとのことで看護師に支えられるようにして廊下の長椅子に身を沈めた。それから暫くして気持ちを落ち着けた真由は、恐る恐る病室の扉を開いた。

「ピッ、ピッ、ピッ。」

 規則正しく心電図をモニターする電子音が静かな病室に響く。頭に二重三重に包帯を巻かれた誠は、痛々しい姿でベットに横たわったまま静かに眠っていた。誠の腕には点滴の針がさされ、ポタポタと落ちる輸液の滴が見えた。血の気の引いた誠の顔にはあちこち蒼いあざがあった。浴槽でつまずいて出来るようなものでないことは素人目にもはっきりと分かった。

「ひどい、ひどすぎる。こんなになるまで。どうして……。」

 真由はベットの傍らに跪くと誠の手をしっかりと握り締めた。それに反応するかのように誠の目が微かに動いた。ほとんど視力を失した誠の目は何かを探し求めるかのように空ろに中空を見詰めていた。

「真由?。そこにいるのは君か。」

「そうよ、誠さん、真由よ。分かる?。」

 そう言いながら、真由が握り締めた手の平に力を入れると、誠はそれに反応するかのように答えた。

「ああ、すまなかったな。心配をかけて。」

「ううん。いいのよ。それより早く元気になって。誠さんを待っている人が大勢いるわ。」

 真由は誠が書いた診断書のことを思い出しながら、誠にそう言った。話したいことは山のようにあったが、次から次へと湧き出る涙のせいで言葉にならなかった。

「ああ、そうだな。でも、そんなことより真由のウエディングドレス姿を早く見たいな。」

「見れるわよ。もうすぐ。きっと、きっと……。」

 真由は気も狂わんばかりに誠にすがりつくと、その腫れ上がった顔に頬ずりした。零れ落ちる涙が、乾き切った誠の唇を濡らす。

「疲れた、眠りたい。」

 誠がその一言を呟いた瞬間、心電図モニターの電子音が急に途切れ途切れになり始めた。すぐさま先ほどの医師と看護師が病室に駆け込んできた。

「血圧低下、五十~二十。呼吸停止。」

「心臓マッサージ。カンフル静注。二十CCだ。」

 医師はバッと誠の胸を開くと、すぐさま両手を当ててエイッエイッと心臓マッサージを始めた。一方、看護師は注射器にアンプルから輸液を抜き取ると、素早く誠の腕に針を刺し込む。真由は、見ていられなくなり、病室の片隅にしゃがみ込んだまま両手で顔を覆ってしまった。

「エイッ、エイッ、エイッ。」

 医師の懸命の心臓マッサージが続く。しばらくして弱々しい心音が戻ってきた。

「真由……。」

 誠は最後の力を振り絞るように微かな声を出した。誠の口元に耳を近づけた真由が最後に耳にした言葉は。

「北山不動に行くんだ。北山……。」

「き、北山不動がどうしたの、そこに何があるの。」

 しかし、真由が叫んだその瞬間、プーッという音とともにモニターの画面に映し出された心電図の波形は完全に真っ平らな横線となった。医師は、そっと頚動脈に手を触れると、続いてペンライトをかざして瞳孔を確認した。

「午後九時十二分。お気の毒ですが。」

 医師は深々と頭を下げた。

「先生、何とかして下さい。ほらっ、誠の身体はまだこんなに温かいんです。まだ誠は生きています。先生、先生。」

 真由は必死になって医師の袖口にすがり付くが、医師は直立不動で頭を下げたまま微動だにしなかった。このような場面に慣れているはずの看護師もそっと目頭を押えて背を向けた。真由は誠の上体の上に突っ伏して、大声を上げて泣き叫んだ。

 そこへ一人の女性が息を切らして病室に駆け込んできた。節子であった。

「ま・こ・と…………。」

 病室の中の様子から一瞬にして全てを悟った節子は、そこから先が言葉にならなかった。放心状態の老親の目からは不思議と涙すら出なかった。まだ事の重大さを咀嚼しきれないでいるようであった。

五分程たってようやく病室から女性が号泣する声が廊下にまで響き渡った。真由は優しく節子の手をとりながら、だんだんと冷えていく誠の身体を一晩中いたわり続けた。


「南無大師遍上金剛、南無大師遍上金剛……。」

 葬祭場に読経の声が響き渡る。正面には白い菊の花に包まれた誠の遺影が飾られ、誠の亡骸は静かに棺の中で眠っていた。時折鳴り響く鐘の音が殊更にその場の侘しさを増幅した。黒の礼服に身を包んだ真由は、黒留姿の節子を支えるようにして立ったまま、焼香に訪れる会葬者の一人一人に深々と頭を下げていた。

「そうだったの。あの子がそんなことをねー。あの子ったら一言もそんな話はしてくれなかった。小さい頃から恥ずかしがり屋でね。人様に喜ばれるようなことをしてもいつも黙ったままで。」

 節子は手にしたハンカチでそっと目頭を押えた。誠はどうやら診断書のことは節子にすら話していなかったらしい。いらざる心配を掛けまいとする優しい気配りであった。

 二人がそんな話をしている間に、一人の乳飲み子を抱いた女性が焼香に立った。

「ほら。あの人があんたのもう一人のお父さんだよ。あの人がいなかったらあんたは生れていなかった。そして多分……、私もここにいなかった。」

 その女性は誠の遺影に向って子供に言い聞かせるように話をした。幼子はそんな母親の言葉の意味も分からず、無邪気な笑顔を振り撒いていた。

「あのー。誠さんとはどういうお知り合いで。」

 真由は焼香を終えて戻って来た女性に声を掛けた。

「林田先生は、私達二人の命の恩人なんです。あれは一年ほど前のことでした。初めての子供が出来て、それで国が定めたDNA検査っていうのを受けたんです。そしたら緑内障の因子があるって言われて、検査をしたらもう視野の三十パーセントも欠けてるって。まさか自分がと思いました。だって全く普通に見えてるんですもの。そしたら追い討ちを掛けるように、お腹の赤ちゃんを中絶するよう奨められて……。」

 ああこの人も同じだ、真由はそう思った。その女性は一瞬周囲を憚るような様子を見せたが、意を決したようにさらに心中を吐露した。

「私は絶望の余り、もう死ぬことしか考えていませんでした。そんな私を諭して下さったのが林田先生でした。先生は、どんな重い障害があろうと生れて来る子供に罪はない。そんな子供たちの将来の可能性を勝手な大人達の都合で奪い取っていいものか、とおっしゃいました。それであの診断書を……。」

 そこまで話すとその女性は大粒の涙をポロポロとこぼした。真由は、この瞬間この女性があの五九八人の内の一人であったと知った。

「そうでしたか。誠のためにわざわざご会葬下さいまして、本当に有り難うございました。あの子もさぞ喜んでいることでしょう。」

 節子が声を詰まらせながら、深々とお辞儀をした。しかし、次の瞬間、この女性の口から意外な言葉が返ってきた。

「私、心に決めました。明日テレビ局に行きます。行って全てを国民の前に明らかにします。こんな理不尽なことが許されるはずがない。私、先生の死を無駄にしたくないんです。」

 真由と節子は突然のことで大変驚いた。

「でも、そんなことをすればあなたは罪人。折角生まれてくるお子さんは一体どうなるんですか。」

 真由は咄嗟のことで何と言っていいか分からず、とりあえず女性を制した。しかし、この女性はひるまなかった。

「いいえ、私のことはいいんです。それよりも私は日本人の心にまだ温かい血が流れていることを信じたいと思います。黙っていては、不幸は広がるばかりです。お願いです。林田先生のこと、あの診断書のこと、全てを世の中の人に知ってもらいたいんです。」

 真由はさらに驚いた。この人はたった一人で権力に対して闘いを挑むつもりである。このか弱い女性のどこからそんな強い勇気が生れるのであろうか。人は苦難を経験すればするほど強くなるというのは、本当にあるものだと真由は思った。この人に比べれば、自分は何と情けないことか。一人で闘う誠の命すら助けることは出来なかった。返事をためらっていた真由を差し置いて、今度は節子がポツリと言った。

「宜しくお願いします。誠もきっと浮ばれることでしょう。」

 亡くなった我が子のことをそこまで考えてくれる人がいることが、節子には余程嬉しかったらしい。誠を罪人のまま見送ることは出来ない、何としても名誉だけは回復してやりたい、節子の目はそう語り掛けていた。

 夜九時を回り、ほとんどの会葬者は三々五々帰って行った。真由と節子は静かになった祭殿の前で、誠の遺影を見つめていた。人気のなくなった斎場の中は一層侘しさを増し、二人は心の中にポッカリと大きな穴が開いたことをようやく実感した。誠が死んでまだ四十八時間しか経っていないといのに、二人には無限の時が過ぎたように感じられた。

「お母さん、北山不動ってご存知ですか。」

 真由が、侘しさを紛らせるように尋ねた。

「北山不動?。」

「ええ、誠さんが息を引取る間際に口にしたんです。北山不動に行けって。」

 節子に思い当る節はなさそうであった。「北山不動」。どこかのお寺の名のようであったが、あまり聞いたこともない。一体、北山不動はどこにあるのか。そしてそこへ行けば何があるというのか。そして誠は何故あのような不可解なことを言い残したのか。

 二人は互いに顔を見合わせたまま思案を巡らせた。やがて真由は立ち上がると、葬祭場の電話ボックスに置かれていた分厚い電話帳を持って来た。真由がパラパラと電話帳を来る脇から、節子は肩を寄せ合うように覗き込んだ。北山クリーニング、北山酒店、北山病院、……、北山のつく名前は数多くあったが、結局「北山不動」という名は発見できなかった。余程小さい寺か、あるいは北山不動というのは俗称で別に正式名称があるのかもしれない。いや、そもそも京都にあるお寺なのかどうかも分からないのである。真由は諦めるかのように、電話帳を元に戻した。


 三日後。

 告別式を終えた真由は、節子の依頼で誠のマンションの片付けに来ていた。心労が祟ったのであろう、告別式の翌日から床に臥せっていた節子は、マンションの片付けを真由に頼んだのである。もとよりそのつもりでいた真由は、節子の依頼を二つ返事で引き受けた。

 見慣れたはずの誠のマンションも、主の姿を欠いては全く別の部屋のように思えた。しばらく人気のなかったせいであろう、テーブルの上には薄っすらと埃が積もり、デスクの上には読み掛けの本が開かれたままとなっていた。恐らく誠が連行されてからずっとこのままの状態であったのだろう。ベットの枕元に置かれた目覚し時計のコチコチという音だけが、一層その部屋の侘しさを増幅した。

 真由は書棚に並べられた本をいとおしむようにダンボール箱に詰め始めた。手垢の付いた本の一冊一冊に誠の思い出が詰まっている。そう思うと改めて一人取り残された寂しさが込み上げてきた。

 その時、真由は書棚の中に数札のポケットアルバムがあるのを見つけた。アルバムというよりは、写真屋でよく景品としてくれるような薄っぺらなホルダーである。真由は何とはなしにその一冊を手に取ると、パラリと開いてみた。

そこには誠と手をつないで嬉しそうに微笑んでいる自分の姿があった。半年ほど前、二人で訪れた大原三千院の門前で撮ったものである。たまたまそこに居合わせた外人観光客にシャッターをお願いしたのだが、その後散々英語で話し掛けられて困ったことが、ほんの昨日のことように思い出された。もうあの人はこの世にいない。真由の心の中に懐かしさが込み上げ、また目頭が熱くなるのを覚えた。

 真由はさらにページを繰っていった。どこかの居酒屋で友達とグラスを掲げる誠、海水パンツ一枚で水を掛け合っている誠、制服姿で緊張した面持ちで写った誠、いろいろな誠が次から次へと現れては消え、また現れた。真由は目を細めて誠の人生を振り返っていた。

 その時、ふと一枚の写真が真由の目に留まった。誠ともう一人、がっしりした体格の青年が写っている一枚の写真があった。どこかの寺の山門のようである。山門の奥には天まで届くような高い石の階段が続いているのが見えた。

 その写真を手にした時、真由はふと不思議な感覚にとらわれた。何故かこの場所が初めてではないような気がした。自分は遠い昔、この山門を通って行ったような気がする。でも一体ここはどこなのだろう。何か手掛かりになるものがないかと写真を見つめていた真由の脳裏に、はっきりと自分を呼ぶ声が聞こえた。

「真由、ゆっくりだよ。」

 その声は確かにそう言った。死んだ真由の祖母の声であった。真由がまだ小学生だった頃、祖母と二人で間違いなくこの地を訪ねたことがあった。目の不自由だった祖母は、真由を杖代りによく連れて歩いた。この時もそうであった。急な石段を駆け上がろうと無邪気に走り回る真由を、祖母はたびたび制しながら一歩一歩この高い石段を踏みしめて上がった、そんな祖母の姿を真由は今鮮明に思い出していた。

 真由は二十年以上も前の微かな記憶を辿った。確か電車とバスを乗り継いで京都の遥か北の方へ行ったような気がする。真由は書棚の中に地図がないかと探し回った。

 やがて「京都市市街図」というポケット版の地図があるのを見つけた真由は、ゆっくりと大判の地図を広げた。京都市は意外に広い。左京区と右京区は遥か北の山間部まで広がっている。真由は慎重に地図の上端からそれらしき場所がないかどうか調べ始めた。

 こうした大判の白い地図を見ていると、はっきりと視野が欠けているのが自覚できる。発症から三年、症状はさらに進んだようであった。真由は、そんな目を庇いながら、どんな小さな字も見落とすまいと慎重に地図を探した。混み合った等高線は山が急峻なことを表わしている。その等高線の間を縫うようにうねうねと曲がりくねった道路が北へと延びており、ところどころに集落を表わす地名と黒い点が描かれていた。

 真由の予感は的中した。京福電鉄の終着駅鞍馬駅からさらに北へ十キロ程行った山中にその寺は存在した。卍のマークの脇に記された「称明寺(北山不動院)」という文字には微かに鉛筆で囲った後が見られた。やはり誠はこの寺を訪ねたことがあるのだ。この写真はその時写したものなのであろう。

 しかし、一体誠はこの寺で何を見聞きしたのだろうか。そしてこの誠と一緒に写っている青年は一体誰なのか。この世の最後の言葉として言い残すほどの秘密がこの寺にあるというのか。子供の頃の真由の記憶では、何の変哲もない普通の寺であったように思える。それとも子供であった真由は何か重要なものを見落としていたのか。とにかく、何としても一度この寺に行かねばならない。真由は片付けもそこそこに、誠のアルバムから件の写真を抜き取ると、バックの中に差し込んだ。


 翌日、真由は鞍馬駅から北へ向うバスの中にいた。一日わずか三往復しかないバスの車内は、真由以外に地元の人と思われる老婆が一人とお遍路姿の女性が二人、全部合わせてもわずか四人の乗客しかいなかった。右へ左へと大きく揺れるバスの車窓からは洛北街道の鬱蒼とした杉木立が続いているのが見えた。

 真由はそんなバスの揺れに身を任せながら今後のことを考えていた。誠という大きな支えをなくした自分はこれから何を拠り所として生きてゆけばいいのだろうか。失明という重圧の中でこれまで懸命に頑張ってこられたのも、全て誠のお陰であった。その最愛の人を失った真由には、再び「生きる」ということに対する疑問が生じ始めていた。

 鞍馬を出て約四十分、バスは終着の北山背に着いた。北山背は洛北の山間にある寒村で、五十軒程度の家々が谷間に寄り添うように建っていた。目指す北山不動へはここからさらに歩いて三十分の道のりである。交通の便が悪いこともあって、専ら地元の人や修験道の行者等の限られた人だけが、この寺を訪れるようであった。

 バス停を後にして歩き始めると、すぐに山が目の前に迫ってきた。行き止まりかと思えるほどの狭い山道も、近づくと器用に曲がりくねって上へと続いている。そんな九十九折りの参道を息を切らせて上っていくと、やがてあの写真で見た山門が見えてきた。

 実物は予想外に小さかった。急な斜面に張り付くように建てられているため、スペースがあまりなかったせいであろう。山門の脇には、長年の風雨に晒されて消え入りそうになった「称明寺」という文字が微かに読み取れた。これでは写真にも写らないはずである。

 息を切らせて山門まで辿り着いた真由の背中はもう汗でびっしりと濡れ染まり、額からも玉のような汗が噴き出していた。しかも、ここから上はさらに急な石段である。真由は今ようやく祖母の言葉の意味が分かった。身軽な子供にとってはこの程度の坂はどうということはないが、年老いた身には相当きつかったであろう。そんなこととはつゆ知らず、無邪気に駆け上って行こうとしていた自分は何て冷たい人間だったんだろう。そんなことを考えながら、真由は石段の下で立ち止まって息を整えた。

「お先です。」

 そんな真由を横目で見ながら、先ほどのお遍路姿の二人は休むことなくスタスタと石段を上り始めた。こうした山道は幾度となく上っているのであろう、達者なものである。一頻り感心していた真由は、ようやく石段に第一歩を乗せた。見上げれば天まで届くかのような急な石段の最上部は下からでは全く見えない。先に進んだお遍路さんの姿は既に随分と小さくなり、石段の上に覆い被さるように茂った木々の枝の間に見え隠れしていた。

 真由は一歩一歩苔むした石段を踏みしめるように上り始めた。靴底にごつごつ当るこの石の感触は二十年前と全然変わっていなかった。その時、懐かしい祖母の声が再び聞こえてきた。

「真由、ゆっくりだよ。ほら、走ったら危ないよ。」

 祖母はこの時どれほど見えていたのだろうか。目を患って久しく、もうほとんど見えていなかったのかも知れない。かわいそうに、医者から見放された祖母は、最後に御仏の力にすがるためにここを訪れたに違いない。もっと優しく祖母の手を引いてあげればよかった。後悔の念とともに、真由の目は汗とも涙ともつかないものでグシャグシャになっていった。

 もうどれ程上って来たであろうか、突然視界が開け尾根伝いに涼しい風が吹いてきた。見上げると、微かに記憶に残っていた北山不動の本堂が視界に入ってきた。ようやく石段を上り切る頃、不思議と真由の汗も涙も乾き、かすかなしょっぱさだけが舌にまとわりついた。

 境内からは遠くまで続く洛北の山々が見渡せ、さらにその向こうに微かに京都の市街地が見えた。境内はきれいに玉砂利が敷かれ、正面に本堂、脇に宿坊、そして本堂の裏手にはさらに奥の院へと続く細い小道が見えた。昼下がりの境内には訪れる人もなく、セミの声だけがうるさいほどに鳴り響いていた。真由は息を整えながら宿坊へと向った。


五 皆空


「ごめんください。」

 宿坊の玄関に真由の声が響く。誰も返事がない。正面には置かれた巨大な屏風には「大悲大乗」という墨字が力強く踊っているのが見えた。留守なのであろうか。

「ごめんくださーい。」

 今一度、今度は少し声を大にして叫んでみる。やがて廊下を渡る人の気配がして、一人の男性が出迎えた。

「何かご用でしょうか。」

 気だるい夏の午後、訪れる者もない中で呼び出されたせいであろうか、少しむっとしたような無愛想な返事が返ってきた。

「あっ。」

 しかし、その男性の顔を見た真由は絶句した。そこに立っている男性は、あの誠と一緒に写真に写っていた人そのものであった。真由は一瞬戸惑ったが、すぐに返答した。

「あのー。住職さんにお会いしたいのですが。」

「住職は私ですが。」

 またまた驚きである。この人が住職?。見れば、TシャツにGパン姿、バサバサに伸びた髪の毛は、凡そ僧侶とは縁遠いいでたちである。戸惑いの色を隠せなかった真由は、しかし黙って例の写真を差出した。その写真を手にした住職は一瞬驚いた様子であったが、すぐ打ち解けたような笑顔になって応待した。

「いやー、なつかしい。林田君じゃないですか。この写真一体どこで?。」

 真由は何と言ってよいかわからなかったが、林田誠が亡くなったこと、そして彼が今際の際に北山不動に行けと言い残したことなどを順序立てて話した。

「そうでしたか、彼が……。そうですか。」

 住職は非常に落胆したような表情を見せ、しばらく言葉を失っていたが、ようやく真由を宿坊の中へと促した。玄関を上がり、長い廊下を右手に下っていくと居間に辿り着いた。かつては宿坊の受付として使っていたのであろうか、部屋の中央には大きな黒檀性の座敷机が置かれ、宗教関係の本や檀家帳と思われる綴りがうず高く積まれていた。

「少しここでお待ちください。」

 住職は、真由を案内すると一言言い残して宿坊の奥の方へと消えていった。一人取り残された真由は改めて部屋の中を観察した。二十畳ほどあると思われる部屋の天井には巨大な梁が剥き出しとなり、エアコンも入っていないのに冷んやりとした空気が漂っていた。一見すると、よくある田舎の寺の風景であった。

 しばらく部屋の中を見まわしていた真由は、しかし、おやっ?と思うものを発見した。「宇宙物理詳解」、「量子論入門」、「相対性理論解釈」など、凡そお寺とは縁遠そうな難しいタイトルの専門書が、檀家帳に混じって置かれていた。しかも、そのいくつかは明らかに読みかけの状態であった。一体誰がこんな難しい物理学の本を読んでいるのだろう。真由は少し違和感を覚えながら、住職が戻ってくるのを待った。

 暫くして、住職は冷たい麦茶の入ったグラスを二つ手にして現れた。一つを真由の前に差出すと、今一つを持ったままどっかと机の前に胡座をかいた。

「いや、ご挨拶が遅れました。住職の大西道継といいます。まあ、住職といいましても、まだ正式な僧侶の資格は取っていないんですが。」

 大西住職は、気恥ずかしそうに頭をポリポリ掻きながら、説明を始めた。

「林田君とは、大学時代の友人でしてね。彼は、洛大の医学部で眼科医を目指していました。一方の私は、多分信じられないでしょうけど、理学部で宇宙物理を専攻していたんです。彼とは、碁敵でもありまして、よく授業をサボっては碁盤の前に座っていましたよ。彼の碁は緻密でしてね、大雑把な私はいつも苦しめられていましたよ。でも最後はいつも私の勝ち。彼、物凄く優しい性格でしてね、ここに石を置けば死ぬって分かっていても、そこには置かないんですよね。」

 真由は誠の性格を端的に言い表していると思った。その優しさが結局は彼を死に追いやってしまったのかもしれない。それにしても真由が意外だったのは、この住職と思しき人が洛東大学で宇宙物理とかいう何やら難しそうな学問を専攻していたという話である。一体、宇宙物理とはどういう学問なのであろうか。そしてそんな学問を修めた人が何故このような人里離れた荒寺にいるのであろうか。そもそも、この人が言っていることは本当なのだろうか。真由がそんなことを考えている間にも、住職はさらに話を続ける。

「この写真は、彼が三年前この寺を訪ねてきた時に撮ったものです。その時、彼は既に目を患っていて、いつまで見えるか分からないって言っていました。それどころか、彼と同じ病気の人がこの日本に何百万もいると聞かされた時はショックでした。彼も、かなり落込んでいましてね、あのまま放っておいたら本当に自殺するんじゃないかって心配した位ですよ。」

 真由は誠の意外な面を聞かされて驚いた。真由から見れば誠のどこからあんな強靭な精神力が生れてくるのか分からなかった。しかし、今耳にしている誠は自分のイメージとは少し違った誠であった。一体、三年前誠の身に何があったのか。

「彼は、あの日一晩ここに泊まりました。といっても実際は徹夜でしたけどね。私は一晩掛かって彼に般若心経を説教して聞かせてやったんですよ。」

「はっ、般若心経ですか。」

 真由は一瞬聞き返した。そう言えば、誠からプロポーズされたあの夜、誠の口から同じ言葉を聞いた。本能寺で薪能を観賞したあの夜、能の精神は般若心経に通じるものがあると、誠は言っていた。誠と般若心経の繋がりは本当はこの地から発していたのだ。真由の心中から先程の猜疑心は消え失せ、真由は一気に大西住職の話に引き込まれていった。

「ええ、地元の人はうちのことを「お般若はん」と呼んでます。先代、と言いましても私の親父ですが、般若心経が好きで、よく人を集めては講話をやってました。ただ、私が林田君にしてやった話は少し、いえ随分と親父のものとは違ってたと思いますがね。」

 真由は、二十年前祖母がこの寺に来た理由が何となく分かったような気がした。祖母はきっとその般若心経の講話を聞きに来たに違いない。それにしても般若心経とはそんなに有り難いものなのであろうか。たった一晩で人の性格を変えてしまうようなそんな素晴らしい教義がこの世にあるものなのだろうか。宗教なんて冠婚葬祭のための手段くらいにしか思っていなかった真由にとって、俄かには信じられない話であった。

 しかし、真由はこの後、とてつもなく深遠なそして不思議な話を耳にすることになるのである。

 

 住職は改めて机の前に座り直すと、背筋を伸ばすようにして話を始めた。

「私は、お寺の子として生れたのが嫌でした。学校に行っても、いつもお寺の子、坊主の子といって皆にからかわれていました。親父は私に寺を継いでもらいたかったようなのですが、私はそんな親父が嫌で嫌で、とにかくここから逃れたい一心で勉強に励み、それで洛大の理学部に進学したんです。

 大学では宇宙物理を専攻していました。宇宙物理は今の最先端の科学技術を使ってこの宇宙の謎を解き明かそうという途方もなく壮大な学問でした。私は毎日が面白くて面白くて、すっかりお寺のこと等忘れて研究に明け暮れていました。」

 住職は当時を振り返るかのように懐かしそうに話を続けた。

「ところが、五年前のある日のこと、突然親父が重い病気だと知らされたんです。親父のやつ隠してたんでしょうね、病院に駆けつけた時はもう手も付けられない程の重篤な状態でした。でも親父は一言も寺を継いでくれとは言わなかった。その代わり、一回でいいから般若心経を読んでみろ、いや読んでくれ、と懇願するように言いましてね。それでこれを渡してくれたんです。親父はそのまま息を引き取りました。」

 住職は山のようにある書物の中から、一冊の単行本を取り出した。手垢で真っ黒に汚れたその本は「般若心経入門」と背表紙に書かれていた。特段何の変哲もない宗教の入門書のようであった。ここに一体何が書かれているのか。誠を変え、そしてこの住職まですっかり変えてしまった般若心経とは一体何なのか。

「最初はまた般若心経かよ、と思いました。でも親父がそこまで言うんなら読んでやるかと思いました。まあ遺言ですからね。ところが……。」

 ここで住職は一区切り置いて、すっかり生ぬるくなった麦茶をぐいっと飲み干した。

「最初、私が般若心経を読んだとき、これが宗教かと思いました。そこに書かれていることは、私が今必死になって研究していることそのものだったんです。私は大変なショックを受けました。もう気も狂わんばかりでした。」

 これを聞いて真由もすっかり驚いた。般若心経が宇宙物理とどう繋がるというのか。般若心経と言えばお釈迦様が紀元前もの大昔に悟りを開いた教義ではなかった。それが今日の最先端の科学とどう繋がるというのか。

「関口さんとおっしゃましたか。関口さんはご自身がどこから来て、そしてどこへ行こうとしていると思われますか。いえ、あなただけではありません、この広大な宇宙に存在する万物がどこから来て、そしてどこへ向おうとしているのか、全てはこの疑問から出発するのです。」

 いよいよ難しい禅問答が始った。真由は入口からつまずいたような気持ちになったが、とにかく必死になって頭脳を回転させ始めた。

「般若心経の根元にある考え方は「一切皆空」です。この世にある物は全て「空」、すなわち空虚な物、本来存在しない物だという考え方です。今日の宇宙物理学では宇宙は「無」から生れたというのはもう常識になっています。何もないところから急激にビッグバンと呼ばれる大爆発を起こして、宇宙は生れました。そしてその後数十億年に渡って未だに拡大を続けているのです。

 しかし、量子力学ではこの「無」の状態の方をむしろ常あるいは安定的と考えます。逆に物質に満ち溢れた現在の宇宙こそが異常な状態、あるいは仮の姿なのです。ですから万物の存在はとても不安定です。形ある物はすぐに壊れ、そしてどんどん新しい物へと変化していく。仏教では、こうした現象を「諸行無常」という考え方で捉えました。」

 真由はもう頭の中が混乱してぐるぐる回り始めていた。般若心経と宇宙物理という二つのとてつもなく難解な話を同時に頭の中にぶち込まれたのである。恐らく誠も三年前に同じ話を聞いたのであろう。真由は必死になって誠の足跡を辿ろうとするが、住職の話の半分も理解できないでいた。小首を傾げている真由の様子を見てか、ここで住職は少しトーンダウンした。

「アッハハ、ごめんなさい、いきなり難しいお話をしてしまいました。もう少し分かりやすくお話しましょう。この世にある物質を細かく砕いていくと、それはやがて原子になり、さらにそれよりも小さい素粒子という物質にまで分解されます。この位は関口さん、あなたも高校の化学の時間に勉強したでしょう。」

 真由は高校の化学の授業を思い出していた。酸素、水素、炭素いろいろな元素記号、そしてそれらが電子をやりとりして新しい物質を作り出していくことなど、朧げながらに記憶が蘇ってきた。真由は黙ったまま、コクリと頷いた。

「現代物理学の理論では、この世に存在する素粒子には必ずそれに対になる反粒子が存在すると考えます。なにも無いところから物質が生れ出るためには、必ずそれと対になる反物質が同時に生れなくてはなりません。ゼロからプラス一が生れるためにはマイナス一が同時に生れなくてはならないのが道理です。物理学の専門用語で、これを「対生成」と呼んでいます。

 今の宇宙は、針の先よりもさらに小さい一点からこの対生成が猛烈なスピードで発生することで一気に生れたのです。しかし、先ほども言いましたように、量子力学ではこの物質が存在する状態を異常と考えます。従って、今この宇宙に存在している物質はやがてそれと対を成す反物質と出会い合体して消滅してゆきます。これを「対消滅」と言います。

 そしてどんどん宇宙は消えてゆき、最後はまた針の一点、つまり無に戻っていくと予想されています。勿論、私達が生きている間にそんなことは起こりません。宇宙が完全に無の常態に戻るには数百億年はかかるでしょう。ただ、そんな途方もなく長い時間も、宇宙創世の過程の中ではほんの一瞬の出来事でしかないのです。

 お釈迦様は、恐らくこうした宇宙の成り立ちを二千年もの昔、まだ科学も無い時代に悟られたのでしょう。仏教でいう「空」の思想は、宗教でも絵空事でもない、科学的に証明された紛れのない事実なのです。」 

 真由は気が遠くなりそうになるのを覚えながら、住職の話に聞き入っていた。この世には必ず始まりと終わりがある。人の一生もそうであるが、この宇宙自体もまたそうなのである。無から始まり、そしてまた無へと戻っていく。真由は何度となく住職の講話を咀嚼し、その深遠な意味を理解しようとした。

 しかし、住職の、般若心経とも現代物理学とも解らない講話はさらに先へと続いていく。

「「輪廻転生」という言葉を聞いたことがあるでしょう。」

「ええ、人は必ず生まれ変わるという意味ですよね。」

 真由は、それくらいなら自分にも分かるという気持ちで、即答した。しかし、住職の禅問答はそれでは許してくれなかった。

「確かに人々はそのように解釈しています。でも一旦死んだ人が、また生れて出てくるという意味ではありません。正確には、その人を構成している物資が形を変えるということです。人を細かく砕いていくとなんと六十兆もの数の細胞に分かれます。その細胞はさらに何十兆、何百兆という原子、つまり酸素や水素、炭素の粒の集まりより出来ています。

 人が死ねば、腐敗してその形はどんどん崩れてゆきます。そうまさに土に帰るのです。でも、人の身体を構成している物質は不滅です。私の肉体は滅びても、私の身体を作っている酸素の粒は、ある時は花に、ある時は犬畜生かもしれない、いえそれどころか単なる路傍の石ころにだってなり得るのです。この世に物質が存在し続ける限り、このサイクルは永遠に続いてゆきます。輪廻転生とはそういうことなのです。」

 真由は再び驚いた。人が生まれ変わるなどというのは確かに非科学的な話である。でもこの住職の話を聞けば妙に納得させられる。真由の肉体が滅びても、真由の身体を構成している物質は別のものに姿を変え存在し続けるのである。

「この世に宇宙が生まれた瞬間から消滅するまでの一切の過程は物理の法則によって支配されています。つまりあらゆる現象には原因があり、そして結果がある。あなたが今ここにいるのも単なる偶然ではありません。あなたのご両親がいて、そしてそのさらに向こうにご先祖様がいた、その結果なのです。この因果の全ては「無」から始っているのです。

 無から宇宙が生まれ、そしてこの地球が誕生し、やがてそこに生命が宿りました。最初は目に見えないほどの小さいものでした。それから数十億年の進化の過程を経て今の私たちがあるのです。仏教ではこうした一連の法則のことを「縁起」と呼んでいます。ほら、縁起がいいとか悪いとかいう、あの縁起です。

 人が病気になるのも、死ぬのも全て縁起によるものなのです。あなたの目の病気は、あなたの遺伝子のごく一部の塩基配列の書き間違いにより生じています。それも、ある意味ではこの縁起によって決められたと言えるのです。」

 住職が説明し終わるのを聞いて、真由は長い長い嘆息をもらした。一切皆空、輪廻転生、諸行無常、縁起、今まで宗教用語だ思っていたこれらの言葉一つ一つにこのような深遠な意味が隠されていようとは、思いもよらなかった。

 真由のような一人の人間がどうあがこうと、この縁起の法則は止められない。人は、いや人だけではない、凡そこの世に存在する万物は全てこの決められた法則に従って、長い長い時間をかけて再び「無」へと戻っていくのである。何という恐ろしくまた不思議な世界観であろうか。真由は何時の間にか両の腕に鳥肌が立っているのに気付いて、思わず手の平を当てて身をすくめた。


 住職はそこまで話すと、喉の渇きを潤すかのようにすっかり空になったコップをグイッと飲み干す仕草をした。

「少し休みましょう。私はまだ般若心経が説くもう一つの重要な思想についてお話しなければなりません。そのためにもっとふさわしい場所があります。」

 えっ、この講話にはまだ続きがあるのか。真由にとっては、これまでの話だけでも十分過ぎるくらいであった。この上さらに住職は何を話そうというのか。ためらっている真由を横目に、住職はさっさと立ち上がると、先に立って寺の奥へと向い始めた。真由も慌てて後に続く。

 宿坊の奥からは細く長い廊下が、裏庭を回り込むように本堂の方へと続いていた。強烈な真夏の日差しが木々の間からこぼれ、セミの鳴き声がうるさいほどに耳を衝いた。苔むした岩の間を流れる泉水も、暑さのせいですっかり淀んでいる。

 しかし、微かな遠雷とともに裏山から吹き下りてくる湿った風が、わずかに夕立の気配を感じさせた。住職は廊下を端まで進むと、さらにそれに続く渡り廊下へと進む。この渡り廊下は本堂の脇に繋がっていた。二人は渡り廊下を渡って本堂へと向った。

「さあ、どうぞ。暗いですから気をつけて下さい。」

 住職は本堂脇の扉を開くと先に中へ入り、真由を中へと案内した。庇が長く張り出した本堂の奥にはほとんど陽の光は届かず、真昼でもほんのりと薄暗かった。歩みを進める真由の足の裏には、冷たい板張りの床の感触が心地よく伝わってきた。住職に促されるまま、外陣の正面に着座した真由はそっと顔を上げた。

 天井の高さは五メートル位あるであろうか、薄暗くてよく分からない。正面の内陣の奥には本尊と思しき阿弥陀如来の像が安置され、仄かに揺れるローソクの火に照らされて安らかな御顔が浮かび上がった。像の前にはみずみずしい供物が添えられ、さらにその下に小さな経机が置かれていた。特に何の変哲もない、よく目にするお寺の本堂の風景であったが、今の真由には何故かとても新鮮な気がした。住職は真由の斜め前に着座すると、先程の講話の続きを始めた。

「般若心経はこの「一切皆空」の真理から始まり、やがて「五蘊(ごうん)皆空」へと人々を導きます。五蘊すなわち「色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)」の五つは、人々が物質を認識するパターンを言い表しています。つまり、あなたが物を見るという行為がどういうことなのかを説明したものです。

 人は「見る」、「聞く」、「触る」などの五感の働きを単純な一言で言い表してしまっていますが、実はこれは極めて複雑な物理現象の結果なのです。般若心経は、そうした人の認識のパターンを五段階の現象として捉えました。」

 真由は再び不思議な感覚に襲われはじめた。物を見るとか聞くということがそんな大袈裟なことなのか。そしてこの単純な人の動作をそこまで細かく分析することに果たしてどういう意味があるというのか。住職はさらに話を続ける。

「色(しき)は「いろ」という字を書きますが、これはこの世に存在する物質のことを言い表しています。あなたの身の回りに見えるありとあらゆる物、これらが全て「色」です。見るという動作は、この色に光が当るところからから始ります。

 光もまた光子という極小さい粒子の集まりです。この光子の束が物質に当ると反射され、四方に散乱します。その一部が、あなたの目の奥にある網膜に届き、そしてそこに並んだ視神経が刺激を受けるのです。これが般若心経でいう第二の段階、つまり「受」です。外界からの刺激を受け止めるという動作です。」

 真由は、初めて緑内障の診断を受けたときに説明された目の解剖図を思い出していた。目に入ってくる光りは最初に角膜というレンズを通過する。ここで屈折した光は次に眼球の中にある水晶体という液体の中を通り、網膜の上に像を結ぶ。網膜には光の刺激を受けるための視神経細胞が無数に並んでいる。この視神経が一つ一つ死んでいくのが緑内障の原因だと真由は聞かされていた。しかし、真由がその時受けた説明はここで終わりであった。人が物を見るためには、この先まだ三段階もの作業が本当に必要なのであろうか。住職はさらに講話を続ける。

「刺激を受けた視神経の中では、ロドプシンというタンパク質が変化を起こし、それによって電気信号が生まれます。その電気信号はすぐさま脳へと送られます。脳では送られてきた電気信号を再合成して、脳内に映像を再生します。これが三段階目の「想」です。想は想像するの想の字を書きますが、文字通り頭の中に映像を想い浮かべるという行為です。

 しかし、この時あなたの脳はまだこの映像を単なる図形としか見ていません。本当に物を見るためにはさらなる情報の分析が必要です。」

 真由は人間の感覚作用の複雑さに圧倒され、無言のまま住職の話に聞き入っていた。

「あなたの脳は、送られてきた電気信号の情報から色、形、大きさ、などいろいろな情報を読み取り、それが何であるか突き止めようとします。ある時は嗅ぐ、触るなど他の感覚器官の助けを必要とする場合もあるかもしれません。そうした行動が「行」なのです。

 例えば、赤くて、丸くて、手の平に乗るほどの大きさの物は何かというようにナゾナゾをしてゆきます。そして最後にそれが「りんご」だと答えを出す。つまり最終段階の「識」に至るのです。文字通り認識するということです。この全ての動作が完了した時、人は初めて物を見たことになるのです。」

 そう言いながら住職は、供物として備えられた果物の山を指差した。真由が視線を移したその先には、山と積まれたりんごと梨があった。この瞬間、真由は五蘊の全てを体験し、りんごを認識した。それに要した時間はわずかO・O一秒ほどである。

「見るという動作はこのように複雑な過程を経て実行されているのです。でも、人はこうした認識パターンを一瞬のうちに処理しています。ですから意識にすら上ることはありません。聞くという動作も、嗅ぐという動作も、全く同じです。全てはあなたの体の中で起きている物理現象の結果なのです。」

 そこまで話すと、住職はすっくと立ち上がると本堂正面の巨大な観音扉をパタリと閉めた。一瞬にして表からの光は遮断され、薄暗かった内陣はさらに真っ暗となった。わずかに残った二本のローソクの火に照らされて、かろうじて阿弥陀如来の塑像がボンヤリと浮かび上がった。

「ほら、こうやって光がなくなると本当に何も見えなくなるでしょう。所詮この世とはこんなものです。全ては外界とあなたの脳とのインターフェースの成せる業なのです。仮に物質の存在自体が「空」であるとしたら、見る対象となる物も、その機能を担うあなたの目も、脳も全てが、空虚なものなのです。五蘊皆空とはそういうことなのです。言い換えれば、あなたがこれまで見聞きしてきたものは全て五蘊が作り出した幻影のようなものなのです。」

 真由は今全てを聞き終わった。そして、誠が最期に「北山不動へ行け」と言ったことの意味がようやく分かった。

 「見える」ということが幻影であるとしたら、「見えなくなる」ということはそうした幻影が消えるということでしかない。光があるから目が必要となる。光がなければ目は無用のものとなる。洞穴ヤモリの目は退化してなくなってしまったのではなかったか。いつか誠の口から聞いた話が真由の脳裏に蘇った。

 一切皆空、輪廻転生、縁起、五蘊……、真由はこれまでに聞いた話を静かに反復していった。そしてその含蓄に富んだ内容を何度も咀嚼した。「見えなくなる」ということをあれほどまでに思い悩んできた自分が何と浅薄だったことか。真由は深い深い後悔の念とともに、言い知れぬ安らかな気持ちに包まれ始めていた。

「さあ目を閉じて、静かに心を無にしてご覧なさい。全ての五感を閉じ、外界とのインターフェースを遮断するのです。」

 住職はそう言うと、最後まで残っていたローソクの火を吹き消した。何もない漆黒の闇が襲ってきた。真由は言われるがままに目を閉じて、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の全てを一つ一つ閉じていった。途端に真由は不思議な感覚にとらわれ始めた。

 体全体が突然言いようもなく軽くなり、先ほどまで膝にごつごつ当っていた床板の痛みも消えた。真由は、自らの身体を構成している細胞の一つ一つが雲散霧消していくのを感じた。もう右も左も、前も後ろも分からない。生きているのか死んでいるのかすらも分からない。無限に広がる空間を自由自在に飛んでいけそうな、そんな不思議な気持ちにとらわれた。

 どのくらい経ったのであろう。ほんの五分くらいしか経っていないはずであるが、真由にはそれが無限の時間のように思えた。その真由の安らかな瞑想を破り、現実世界へと引き戻したのは、突然の突風であった。

 バタンという大きな音とともに、観音扉が両開きとなり、湿った空気が一気に堂内に流れ込んできた。ギョッとして二人が外に目をやったその時、ガシャーンという轟音とともに、眩い閃光が走った。咄嗟のことで何が起こったのか真由には分からなかった。しかし、次の瞬間真由は目を押さえて床にひれ伏した。

「目が、目が……。」

「ど、どうされました?。」

「目が見えないんです。目の前が真っ白で。」

 長時間真っ暗闇の中にいた真由の瞳孔は、これ以上大きくならないというほどに開いていた。その開き切った真由の瞳孔の奥底に落雷の強烈な閃光が一気に差し込んだのである。何億兆個という光子の束が、真由の網膜に並んだ視神経を直撃した。

 正常な人間の場合、明るい光りが目に入ると瞬時に反応して目を閉じるが、視力の半分以上を失っている真由の目は反応が遅かった。わずかO・O一秒の違いが、繊細な人間の視神経には致命傷となることがある。真由の視神経は完全に機能を停止してしまったのである。

「しばらく、ここで休みましょう。きっとすぐに見えるようになりますよ。」

 住職はそう言うと、鎹を使って風に揺れる扉を止めると、真由の隣に座った。外はいつしか真っ暗となり、大粒の雨がバラバラと音を立てて降り始めた。時折走る閃光と耳をつんざくような雷鳴が代わる代わる襲ってくる。湿気を帯びた風が真由の頬に横殴りに吹き付けた。

 五分、十分……、時だけが経過していく。しかし真由の視覚はなかなか戻ってこなかった。一時的な眩み目にしては回復が遅い。もうこのまま見えなくなってしまうのでは。真由の脳裏に不安がよぎった。一切皆空、五蘊皆空、真由は先ほど住職から聞いた講話を脳裏に写経するかのように何度となく復唱しながら、じっと待ち続けた。待つこと三十分、ようやく真由の目に朧げな住職の姿が戻ってきた。

「もう大丈夫のようです。」

 真由はまだ少し陰の残った目をさすりながら呟いた。

「そうですか、よかった。本当によかった。」

 住職はやれやれというように胸を撫で下ろした。そして、ゆっくりと立ち上がると先に立って真由を宿坊の玄関口へと案内した。先ほどまで滝のように降っていた雨も上がり、切れた雲間から傾きかけた陽光が一条の光となって差し込んできた。それとともに騒がしいセミの声も戻ってきた。

 真由の口にもう言葉はなかった。今の安らかな心の安寧をどのように表現しても到底言い尽くせるものではなかった。真由の心はようやく誠の心と融和した。溢れ出る涙を抑えながら、真由は何度となく住職に頭を下げると北山不動を後にした。

 豪雨に洗い流された山の草木、そして玉砂利の一つ一つまでが傾きかけた陽光に照らされて美しく輝いた。今の真由にとっては、周囲にある全てがみずみずしく、生まれ変わったように感じられた。


 丁度その頃、真由の知らない間に世の事態は大きく進展していた。

「♪♪さあみんな手を取り合おう。人は等しく生ける者、友に幸あれ光りあれ・・・」

 国会議事堂の周辺は十万人を超す群集で埋め尽くされ、高らかに歌う合唱の声が天までこだました。

「ご覧下さい。この熱気です。全国から集まった緑内障患者友の会のメンバー、そしてそれを支援する全国障害者協会、その他の支援団体の皆さんは、今百万人の署名を携えて、産児制限法の撤廃の訴えを起こしました。産制法の制定以来、数多くの議論がありました。人間の生きる権利かそれとも国家の存立か、多くの専門家の意見も真っ二つに割れました。しかし、日本国民は今ようやくこの論争に結論を出そうとしています。」

 昂奮したレポーターの声がテレビを通じて全国津々浦々に流れていた。今、何百万何千万という日本人がテレビの前でこの中継を見ているはずであった。一年半の忍従の時間を経て、今国民の怒りが爆発した。画面の片隅には、誠の遺影を掲げた節子の姿が、そして誠のお陰で一児を授かったあの女性の姿もあった。

「視聴者の皆さん、日本人はまだ捨てたものではありません。一年半前、あの産制法の公布の日以来、子供を産みたいという緑内障患者のために愛の診断書を書き続け、そして獄中で非業の最期を遂げた眼科医師林田誠さんの志は今何十万人いや何百万人もの国民に受け継がれようとしています。命を賭して闘ったその勇気ある行動は、曇りかけていた日本人の目に再び輝く灯火を点してくれました。彼の名は歴史に残る名医として長く後の世に語り継がれることでしょう。」

 押し寄せる群衆を眼前にして、我が子の遺影を胸にして微動だにせず佇む老親の姿は、見る人の心を打った。誠の善行は、口伝て、ネット伝に全国に伝わり反対集会を一気に盛り上げたのであった。

 世の中は皮肉なものである。誠の死後一週間、国連の下部組織である世界人権保護委員会が公式に日本政府に対し、産児制限法の撤廃を促す勧告を発した。

 翌朝の新聞には、産制法撤廃を確信する見出しが躍った。

「首相、産制法撤廃の検討を確約。」

「人道主義の勝利。産制法撤廃へ。」

 本来なら大喜びすべきはずのこの知らせも、しかし今の真由にとっては単なる文字列に過ぎなかった。何故これがもっと早く来なかったのか。せめてあと十日早く。そうすれば誠は死なずに済んだかもしれない。いくら名誉が回復されたとしても、逝ってしまった者は帰って来ない。人々の喜びが大きくなればなるほど、真由の悲しみは大きくそして深くなるばかりであった。あの楽しかった日々はもう戻っては来ない。あの優しかった誠の声もそして笑顔も。夢のように過ぎ去ったこの三年間が走馬灯の如く真由の脳裏を駆け巡った。初七日を迎えた真由は改めてかけがえのない人を失った悲しみを実感した。


 しかし、それから半年後。

「不思議ですね。進行が止まっています。」

 医師は二枚の視野検査の結果表を見比べながら、しきりと首を傾げた。視野検査表に描かれた真由の視野の陰影は半年前とほとんど変わっていなかった。末期の緑内障としては異例であった。

「やはり、進行が止まっていますね。半年前とほとんど同じです。」

 医師は今度は眼底鏡を覗き込みながら繰り返した。一頻り慎重に眼底の診察を終えた医師は、真剣な表情で真由に尋ねた。

「この半年間特に変わったことはありませんでしたか。例えば食生活が大きく変わったとか、何か変わった目薬を使ったとか、何でもいいんです。」

「変わったこと?」

 真由はしばらく考えていたが、考えうることと言えば誠の死くらいであった。人は精神的に大きなストレスを体験したときに、病気が発症したりあるいは逆に平癒したりすることがあるという。真由の緑内障もその類のことであろうか。真由はもうすっかり完全に失明することを覚悟していた。それが一転、緑内障の進行が止まっているという。これは喜んでいいことなのか、真由はまだ半信半疑であった。何かが原因で一時的に進行が止まっているだけかもしれない、また半年後には進んでいるかもしれない。

「とにかく、一度眼底写真を撮っておきましょう。隣の部屋で看護師の指示にしたがって下さい。」

 医師は眼底撮影の指示を出した。真由は指示されるままに眼底カメラの前に座った。

「では、目を大きく見開いてこの穴を覗いて下さい。赤い点が見えますね。瞬きを止めてこの点を見てて下さい。少し光りますが、瞬きしないで下さい、いいですね。」

 眼底カメラのレンズを覗きながら、看護師は器用に機械を操作する。もう何度となく眼底写真を撮っている真由にとっては、慣れた検査であったが、今日はいつもと違った。いつもは検査を受けるたびに症状は悪くなっていた。結果を聞くのが怖くて、検査を受ける眼球までが固くなっていくような気がしていた。

 だが、今日はとても気持ちがリラックスしていた。カメラを覗き込む瞳孔が自然に開いていくような感覚に襲われた。その時、眩いフラッシュの光が輝き、一瞬目の前が真っ白になった。

「あっ。」

 真由はこの瞬間、半年前のあの体験を思い出した。あの時は今の何倍も何十倍も強烈な刺激であった。

「そうですか、半年前ですね。眩み目にしては三十分というのは長すぎますね。やはり視神経細胞に何かが起きたんでしょうかね。とにかく次回の定期検査までは何とも申し上げられませんが……。」

 医師は真由の話しを聞きながら、カルテに何かを走り書きした。結局、詳しい原因も、また本当に治ったかどうかも分からないまま、真由の診察は終わった。


 その翌日、山村工房。

「真由、えらいこっちー。」

 親方が、一通の手紙を片手に真由のところに駆け寄ってきた。

「いやいや、えらいことになった。」

 見れば、親方の皺顔がさらに崩れて、ぐちゃぐちゃになっている。こんな嬉しそうな親方の顔を見るのは、真由が弟子入りしたいと言った時以来であろうか。

「親方。一体、ど、どうしたんですか。」

 親方は、何度も何度も手紙に目を通す仕草をして、ようやく真由に手紙の内容を告げた。

「お前のあの作品、ほら半年前にコンクールに出したあの清水焼の皿、あれが大賞に選ばれたそうや。」

「えっ?、ウ、ウソでしょう。」

 真由には全く望外の知らせであった。入選すら覚束ないだろうと思っていたあの作品が大賞?、何かの間違いではなかろうか。

「大賞に選ばれた関口真由氏の作品「カキツバタ」は少し霞のかかった淡い緑の色調と朱に輝く一輪のカキツバタの色が見事に調和し、何ともいえない優雅な雰囲気が描き出されている。これまでの清水焼きになかった新しい技法を用いたこの作風は、長年の伝統工芸に新風を吹き込むものとして高く評価される。」

 選評を読み上げる親方の声は、興奮と喜びで震え、次第に涙とともにかすれていった。

 視力の低下した真由は、ミリ単位の繊細な筆運びを止め、自らの見える範囲で描ける最良の方法を工夫していたのであった。その芸術性が高く評価されたのである。

「健常者には到達し得ない高い芸術性を体得する」、いつか本能寺で誠が話していたあの盲目の能楽師のことが思い出された。あの話を聞いたときは俄かには信じられなかったが、今の真由にはその意味がよく分かるような気がした。

 視力が低下し全く描く気力を失していた真由を励まし筆を持たせ続けたのは誠であった。「一OO%完璧なものなんてありえない。これも立派な作品だ。」あの誠の言葉がなかったら、今日の真由はなかったであろう。そしてこの作品も…。

 誠に諭されて後、真由は自らの視力の続く限り筆を動かし続けようと決心した。うまく描こうとする気持ちを抑え、見える範囲で最大限の努力をしてきた。どんな障害があろうとも、人間の可能性は無限である。その可能性を自らの手で摘み取ってはいけない。障害者と健常者を隔てるものはほんの紙一重なのである。


エピローグ~退化から進化へ


 三年後。

「誠さん、私、緑内障の進行が止まったようなの。難しいことはよく分からないけれど、お医者様は強い光を一時に見たことで、遺伝子の退化プログラムが解除されたのが原因じゃないかって。失われた視力は元には戻せないそうだけど、残された視力だけでも日常生活は大丈夫そうなの。」

 今日は誠の命日であった。真由と節子は三年前のあの暑い夏の日のことを思い出しながら、誠の墓前で祈りを捧げていた。「林田家の墓」と書かれた墓石はどこまでも冷たく無言であった。真由は薄れていく誠の記憶を必死に胸に留めようと祈りを続けるが、誠は沈黙を守ったままであった。

 真由の症例を聞きつけた眼科学会がその後実験と研究を重ねた結果、強烈な光が一時に視神経に入り込んだとき、緑内障の退化プログラムが解除されるらしいことが分かった。かつては、光を避けることで遺伝子の退化が起こってしまった。今度は逆に一時に強い光を見ることで遺伝子の「進化」が起きたようであった。

何千年と受け継がれてきた退化のプログラムを解除する方法があることが、全くの偶然により発見された。もはや緑内障が不治の病ではなくなる日もそう遠くないことが予感された。

「でも、誠さん、私素直に喜ぶ気持ちにはなれない。最近はあのまま見えなくなっていた方が幸せだったんじゃないかと思えて。目が見えるようになればなるほど、あなたが私の傍から遠ざかっていく、そんな気がして。」

 真由がそう呟こうとした瞬間、今度は真由の耳にはっきりと呼ぶ声が聞こえた。空耳なんかではなかった。

「真由、それは君が進化したからだよ。」

「えっ、進化?」

 真由は思わず声を出して聞き返した。

「ほら、言っただろう。退化と進化は表裏一体、いや実際は同じものだって。人は体だけじゃなくて、心も進化するんだよ。いつも暗い陽の当たらない方ばかり向いて生きていると人は心までも退化してしまう。あの洞穴ヤモリの目のようにね。

 真由、君の心は進化したんだ。これからはもっと明るい方だけを見て生きていくんだ。どんな障害を背負っていても、いつも心を光の当たる方に向けていれば、人は必ず幸せになれる。君はそのことを身を持って体験したんだよ。もう大丈夫。僕がいなくても君は立派に生きてゆける。」

 真由の目に今はっきりと誠の姿が見えた。幻影なんかではなかった。人は死ねば必ず土に帰っていく。誠の身体を構成していた酸素原子や水素原子の粒々は、今墓石の傍らに咲く一輪のリンドウとなって、真由を見つめていた。風にそよぐその清楚な花を摘み取ろうとした真由の手は、しかしはたと止まった。今目の前に見えているものは所詮「空虚」なもの。そんなものを手にしなくとも、誠の心は永遠に真由の心の中に生き続けていた。

「真由さん、そろそろ戻りましょうか。」

 真由がはっとして顔を上げると、傍らには節子の顔があった。誠が亡くなってから、節子の身体はやつれてさらに一回り小さくなったように思えた。しかし、そんなことは微塵も表には出さず、真由の前では節子はいつも明るく振る舞った。

「ねえ、真由さん。お見合いしない?」

「お見合いですか?」

 真由は突然のことに驚いて、思わず聞き返した。

「誠が死んでもう三年になるし、あなたもいつまでも若くないんだから。私、いいお見合い写真一杯持ってるのよ。」

「あらー、いやだ。お母様ったら。」

 真由は、立ち上がろうとする節子に手を貸すと、頬を赤らめて苦笑した。野辺の石段に、二人の談笑する声が静かに消えていった。

(了)

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