目覚め前
有澤いつき
この感情はきっと、誰も知らない
知らせが来たのは三日前のことだ。いつも通り粛々と、感情を圧し殺して仕事をしていたなんてことない一日。その日、やけに沈痛な面持ちをした上官に声をかけられた。
別室に通され、自分と上官しかいない密室に嫌な空気が流れる。気まずい、と言っていいだろう。上官は「まあその、なんだ」と意味のない言葉を繰り返しては視線を逸らす。何やら伝えにくいことを伝えるのだろうと、ここで察してはいた。
「今度な、ここに収容されてる死刑囚の死刑を執行することになった」
死刑の執行。刑務官として勤務してきたが、自分の働く刑務所から執行されるのは初めてだ。今の法務大臣は死刑執行を積極的に行っているとマスコミが騒いでいたが、なるほどついにここにもその波が来たのか。
それで、と上官は言葉を区切る。わざわざ自分に死刑執行を伝えた意味。わからない自分ではない。
「その『受け止め役』を、お前がやることになった」
「……はい」
「驚かないのか」
意外そうな顔で上官が問いかける。わずかばかりの嫌悪を感じる、疑い深い眼差しだ。驚かないのか、と言われれば是である。上官の挙動不審な動きで薄々感づいてはいたから。
しかし、それを変に解釈されても困る。死刑執行に立ち会うのに嫌な顔ひとつしないなと、そう非難したいのだろう。フォローはしておく必要がある。
「真剣な話だろうと予想はしてましたので。それに断れない話でしょう、これは」
「……まあ、な」
「自分は職務をまっとうするだけです」
「受け止め役」――拒否権のない、後味の悪い仕事だと聞いたことがある。
絞首刑を採用している日本において、その処刑は足元の床が開くことで執行される。首にかけられた縄が死へと確実に導く。以前は「意識が飛ぶので安らかな死を迎えられる」と言われたが、その学説は否定されているのが現状だ。
首を吊るされ、生への渇望と死への恐怖にもがきながら……死に至った身体を開いた床の底で受け止める。それが「受け止め役」の役割だ。
執行は三日後だと、そのあと淡々と告げられた。
死刑執行。普通なら人間は、どんな風にそのときまで過ごすのだろう。
執行日は当日まで死刑囚には知らされない。その間もいつも通りに時が流れて、ある朝唐突に死を告げられる。今まで通りが突然奪われると言うのは、どんな気持ちなんだろう。無論、同情ではなく興味だ。
刑務官である自分は死ぬわけではないのに、妙に落ち着かない三日間だった。遠足みたいなウキウキ気分ではない。地に足がつかない、胸の奥がざわつく……今から数十時間後、自分は死体を抱いているかと思うと、得体の知れない感情が渦を巻く。
しかし自分の葛藤もむなしく、そのときは刻一刻と迫ってくるのであった。
***
「死刑執行だ」
その日、自分が死刑執行を告げた死刑囚はやつれた面持ちの、無精髭を生やした男だった。年は四十八歳。死刑が確定したのは十二年前。その間、この男は味気ない独房で時を過ごしてきた。
それはなんて……言葉にできない時間なんだろう。
男は顔色ひとつ変えなかった。世の中を諦めたような生気のない瞳が、何かを懇願する素振りはない。自分の生き死にさえもどうでもよくなっているのだろうか。あまりの無反応に内心拍子抜けした。
こんなとき、どんな言葉で形容すればいいのかわからない。死が宣告された人間に対して憐れむとか拍子抜けだとかつまらないとか興味があるとか、どんな感情を抱いても不謹慎なのではないか? そう考えることもある。
執行される部屋まで、無情な靴の音がぺたぺたと響いた。
「…………」
沈黙が続く。男が口を開く気配はない。喋ったところで「無駄口を叩くな」と鞭打たれる世界なら、とっくの昔に諦めて正解かもしれない。どのみち、自分には想像するしかない世界なのだから。
「囚人に同情するな」とは、刑務官になりたてのころに上官に教わっていた。これは同情とは違うのだが、果たして。
死刑が執行される部屋は異空間みたいに不可思議だ。
部屋をふたつにわかつガラス窓。片方に死刑囚、もう片方に「観客席」。そちらには検察官やら警察関係者やら、そこそこの立場の人が並んでいる。
そのお偉いさんが一人の人間の死を見届け、命の重みを再確認する……なんて尊い儀式ではない。
ガラス窓をまるまる覆い隠す濃紺のカーテンが両サイドに控えている。そう、彼らは死刑の瞬間に「立ち会う」がその光景や音声は見ざる聞かざる――だから「観客」なのだと、以前「受け止め役」をしていた上官は語っていた。
「死刑囚を連れてきました」
報告する自分の声は変に上擦るでも沈着でもなく、極めて普通だったと思う。初めての大役で普通に振る舞えることこそが自らの動揺の表れだったのかもしれない。
閉ざされていないガラス窓の向こう側に、厳つい面持ちの人間がずらり。その顔もしかしあと少しでしばしのお別れだ。
所定の位置に男を立たせる。足元の床は向こう側の男達がスイッチを押すと開く仕組みだ。自分にも、死刑囚にも、そのタイミングはわからない。
相変わらず無表情の男を別の刑務官に任せ、自分は持ち場につく。階段を降りた先が地獄の釜だ。ここに、首を吊られて命を落とした亡骸が落ちてくる。それを受け止めるのが役目だ。
「では、カーテンを閉めます。各人所定の位置につくように」
ジャッ、とカーテンがレールを走る音が聞こえる。余計な音は何もない。必要な音だけが鳴る世界。刑の執行は、自分の体験したどんな出来事よりも異質で、緊張感のある出来事になる。それを確信した。
人が死ぬところは見たことがない。死体はある。そういう場所で働いてきた。親の死に目には間に合わなかったし、目の前で殺人事件が起こるということにも遭遇していない。この年まで「死」の現場を見たことはなかった。幸福なことだったと思う。
そんな「幸福」は――今日でお別れだ。
バタン、と床が口を開けた。
男の姿が見える。吊るされた縄に首をくくられ、全体重を支えるために機能する。首がぐんっ、と伸びた。喘ぐように顎は空を向き、下からその顔は伺えない。それでもじたばたと足が空中で忙しなく動く。本能的な生への渇望なのだと理解した。
「…………!」
男は何かを叫んでいたのかもしれない。死にたくないとか叫んだり、あるいは意味のない悲鳴をあげていたのかもしれない。しかし絞められた首からその音が発せられることはない。
――必死だ。
そのことがなんだか、自分にはひとつの驚きに思えた。迎えに行ったときは生に執着などしていなかった、そう見えた。瞳は濁り頬は痩せこけ骨ばった指先は力なく垂れて。
あの人と、今吊るされている男は、同一人物なのだ。
足の動きが弱くなり、そして止まった。一人の人間から何かが抜けたような、まさしく「ぬけがら」がぶら下げられている。上を向いてもがいていた顔もがっくりと力尽きて床を見る。
……目が合った。
「ッ……!」
そのとき――そのときなのだ、きっと自分の中で「感情」が爆発したのは。名前のわからなかったふたつの感情がまざりあい、化学反応みたいに新たな物質を生み出す。
死体がこちらへと下ろされていくなか、自分自身はとんでもない変化を起こしていた。
死体が手の届くところまできた。普通の人間なら嫌がるだろう仕事。死体との接触。長年独房で過ごした体臭。男性特有の生理現象――
さっきまでは生きていた。でも、今は生きてない。
全体重が無情にも自分に委ねられる。うっすら張り付いた汗。熱を持った身体。でも死んでいる。
生きようとしていた。あの人でも。どんなに生前厭世的な眼差しをしていても……結局死が迫ると人間は本能のままに死に抵抗する。意識があれば。もしかしたら意識を失っても身体が。
こんな、至近距離でそんなドラマが起こる、なんて。
「大丈夫か?」
気づくと上官が近くに来ていた。死体を抱えた自分を見て気遣ってでもいるのか、距離を取りつつも心配そうな面持ちをしている。
「初めてには、ちとショッキングな光景だったか」
「そう、ですね……自分には、確かに刺激が強かったです」
そうか、と何とも言えない顔をして上官が頷く。一拍ののち、言いにくそうに自分を激励する。
「初めては誰だってそうだ。出来れば何回もお目にかかりたいもんじゃないが……」
「わかってます」
次がある、と上官は口にはしなかった。でもわかる。「受け止め役」は拒否権のない半永久的な役職。自分が刑務官を退くか後継者が来るまで、この刑務所では自分が死体を受け止める。
それよりも。
自分は自覚してしまったこの感情が恐ろしい。
「大丈夫です。『次』も……粛々と執行するだけですから」
「お前」
上官はまだ言いたげだったが、それ以上口にはしなかった。後輩の決意に口出しするのは野暮とでも思ったか。
部屋では撤収作業が始まっていた。カーテンが開けばもうそこに人の姿はない。でも最早どうでも良かった。足早に人が遠ざかる。上官も「早く運べ」といってそそくさと上へ昇っていった。
「…………」
芽生えた感情。きっと不謹慎だと罵られる。
生が死に切り替わる瞬間。無様でもあり美しくもある生へのあがき。生前無頓着に見える人ほど、そのギャップに感動する。
人が見せる最期の姿は美しい。
死体と天井をもう一度見る。ついさっきまで吊るされて、生きるためにもがいた男がほんの数メートル先にいたかと思うと――
「……じゃあ、また」
そう、また期待する。自分がここに戻ってきて、あたたかい死体を抱き締める瞬間を。
目覚め前 有澤いつき @kz_ordeal
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