6 暗闇を歩く手伝いを

 朝食をふるまったあと、マーリットは贈り物をした。


「わたしのだけど、使って」


 エリの細い首にマフラーを巻きつける。驚いた様子で首元に触れた手を素早く引き戻し、手袋を押しつけた。


「これもあげる。羊の毛皮を使ってるから、あったかいよ」

「でも、あの」

「はめてみて。――よかった、ぴったり。それとね、これもあげる」


 食卓のランタンを持ち上げて、エリの前に置き直す。金具がこすれる音がした。


「灯りがないと歩けないでしょ? 持ってって」

「そんな! いただけません!」

「エリ・アーベルさん」

「……はい」


 やや格式張った口調で名前を呼ぶと、エリは困惑を顔に浮かべて、手袋をした両手を静かに下ろした。


「わたしね、あなたのことが好きなの。好きになったの。だからあなたの旅を、応援したいの」


 ぽかんとした顔が見上げてくる。マーリットは笑顔を崩さなかった。


 娘かもしれないけれど、娘だという実感はない。会いたかったけれど、会ったらどうしたいという願いはなかった。だから母と名乗り出ることはしない。できない。


 エリも、求めているのは母親ではないだろう。会いたいのは別の人だ。そのための旅なのだ。


 ずっと愛していたと言えば嘘になってしまう。けれど、好きになった、という言葉なら胸を張って言える。


 礼儀正しくて、愛嬌があって、意志が強いこの女の子のことが、マーリットは気に入った。


 だからマフラーと手袋をあげようと思った。マーリットが町に出かけるときに使っているものだけれど、ちゃんと手入れをしていたから汚れていないし、どこも破れていない。


 パンと燻製肉とチーズも持たせることにした。どれも自家製だ。とはいえ、マーリットたちが冬を越すための蓄えだから、そんなに多くはあげられない。ほんの気持ちだ。


 燻製肉は切り分ければ調理しなくてもそのまま食べられる。ナイフはあるかと聞いたら、さすがに持っていた。旅の必需品だ。


 エリは喜びつつも、やっぱり困惑しているようだった。


 エリの水筒にはお湯を入れてあげた。すぐに冷めてしまうだろうけれど、ただの水よりいいはずだ。ランタンが油切れしたときのために、替えの油が入った小瓶も渡した。


 エリには教えなかったけれど、パンを入れた袋の底にお金もすこしだけ入れておいた。「あなたの願いがかないますように。マーリット・コルヴァール」というメモも添えた。いつか気づいて、役立ててくれたらいい。


 そして、もうひとつ。

 

「準備できたよ!」


 玄関先からルーネの大声が聞こえた。


 旅支度をととのえたエリを連れて、マーリットも外に出る。午前八時。まだ日が昇る前だから、ルーネはランタンを手にしていた。


「え!」


 エリが驚きの声をもらす。マーリットは微笑んだ。


 家の前に馬がいた。ランタンに照らされて、馬の後ろに橇(そり)がつながっているのも見える。


「これで行けるところまで送っていくわ」


 ゆうべ、ルーネはマーリットと話し合ったあと、村長さんを訪ねてくれた。寝ていたところをルーネが起こしてしまったわけだけれど、村長さんは機嫌を損ねることなく会ってくれたらしい。


 ルーネは事情を説明して、馬と橇を貸してほしいとお願いした。


 マーリットたちは牛や羊を飼っているけれど、馬は飼っていない。借りた馬は返さないといけないから、二人乗りできる橇も必要だった。小さい橇ならうちにもあるけれど、あれではひとりしか乗れない。


 話を聞いた村長さんは、快諾してくれたという。


「日が昇るころに町に着けると思う。そこからもうちょっと送っていきます。明るいうちに二つか、三つぐらい先の町まで行けると思うよ。さあ乗って」


 ルーネが橇を手で示しながら言った。送っていくのはルーネだ。すでに身支度は終えている。マーリットは馬の扱いに慣れていないから、残ることにした。


 これを忘れたらいけない、とマーリットは水筒と昼食用のパンが入った革袋をルーネに渡した。


 水筒は、チャニアを出てからこの村に落ち着くまでのあいだ、ずっとルーネが使っていたものだ。久しぶりの出番だった。


 荷物を腰に巻きつけると、ルーネはランタンを橇に取りつけはじめた。


「あの、でも……ここまでしてもらえるなんて……わたし、何もお返しできません」


 空に月はなく、星は見えているけれど明かりは弱い。夜明けが近いからだ。闇は青みがかっていて、近くにいればランタンに照らされなくてもエリの表情がわかった。まだ戸惑っているようだ。


「お返しは、あなたが無事に旅を終えること」


 エリの肩の上で、背負った荷物の紐がピンと張っている。マーリットはそっと手を置いた。ケープ越しに伝わってくる肩の細さに、申し訳ない気持ちがこみあげてくる。


 この子が娘でも、娘じゃなくても。


 これ以上は何もしてあげられない。橇で送ったあとは、またひとりにさせるのだ。


「会いたい人に、ちゃんと会えますように。エリ・アーベルの願いがかないますようにって、祈ってる」


 想いをこめてマーリットは告げる。


 もう二度と、この子に会うことがなくても。絶対に忘れない。エリ・アーベルという女の子と過ごしたことを、忘れない。


 エリはまっすぐマーリットを見つめていた。真剣な顔をして、ほんのわずか前のめりになって、口を開く。


「ありがとうございます。わたし、マーリットさんとルーネさんのこと、一生忘れません」


 くすっ、と笑ってしまった。同じことを同時に思っていたのがおかしかった。おかしくて、心がゆるんで、こぼれそうになる涙をこらえた。


「あの、マーリットさん! あの、」


 エリが何かを言いたそうだ。けれどなぜか、ものすごくためらっている。マーリットは笑顔で首をかしげた。


「なあに?」

「あの、わたしのお母さんの名前、マーリットっていうんです。おんなじだなあって思ってて。だからあの、マーリットさんがとっても優しくて、親切で、それがとっても、とってもうれしかったんです。ありがとうございました!」


 マーリットは腕を伸ばした。はっとしたような息づかい、髪の毛の匂い、ぬくもりを遠慮なく抱きしめた。声には出さず、胸の内で語りかける。


 名前、おぼえていてくれたのね。


 ゆるされたような気がした。これまでのことを、すべて。


 忘れてしまったこと、捜しきれなかったこと、その後に出会った人たちを大切にしてきたこと、そういうマーリットの人生をまるごと、ゆるしてもらえたような気がした。


「わたしもうれしい。来てくれて、ありがとね」

「は、はい」


 かわいい声が耳元で返事をしてくれた。泣くつもりはなかったのに、涙がこぼれ落ちてしまった。


 目を上げるとルーネがいた。よかったね、と眼差しが微笑んでいる。きっとマーリットが今どんな気持ちでいるのか、ルーネにはお見通しなのだ。


 この人についてきてよかった。心から、そう思った。


 橇が出発する。


 ちらちらと揺れるランタンの光が完全に見えなくなってしまうまで、微動だにせず見送った。


 闇が晴れたのは、それから一時間ほどあとだ。


 教会を開けて掃除をした。朝のお祈りをしてから帰宅して、いつもどおりに家畜の世話をした。


 夕飯の支度を終えた午後三時、また闇が降りてくる。完全に暗くなる前に教会を閉めにいった。


 ルーネはどこまでエリを送っていけただろう。


 できるかぎり遠くへ。エリの旅がすこしでも楽になるように。だけど、なるべく早く帰ってきてほしい。


 居間で椅子に座り、暖炉と向き合った。不規則に揺らぐ炎を眺める。眺めながら考えた。


 エリと話しているときによみがえった記憶。あの人影と、言葉。あれは、前の夫ではないだろうか。


 前の夫に自分は別れ話を切り出したという。なんとなく、そのときに言われたのかもしれないという気がする。


 ――俺のことが好きだから、産んでくれたんだろ?


 だったら別れるなんて言うな――そんな言葉が続いたのかもしれない。


 そして自分は、別れるのをやめたか、返事を保留にした。エリを連れずに買い物へ出かけていたらしいから、そういうことだろう。そこで事故に遭った。すべてを忘れた。

 

 マーリットを見つけられなかった夫は、幼い娘を連れて夜逃げした。首都を離れて、港町でエリは育った。そういう光景を想像してみた。


 もしかしたらエリは、実の父ではない人のもとで育ったのかもしれない。夜逃げまでした「嘘つきな夫」があんなふうに上品に食事をする娘にエリを育てられたとは思えない。


 それとも、どこかで改心したのだろうか。立派に、娘を育ててくれたのだろうか。


「好きで――産んだ」


 マーリットはおなかをさすった。


 ルーネとのあいだに子供はいない。けれどこのおなかには、子供を宿したことがあるという確かな証が残されている。


 ひび割れのような白い線がうっすらと走っているのだ。妊娠や出産を経験すると、こういう痕が残ることもあるらしい。


 おぼえていない。おぼえていないけれど、身体には残っている。


「エリ……」


 名前を呼んでみた。橇にルーネと並んで座り、「初めて乗ります!」と瞳を輝かせていた女の子の名前。


 急に、喉の奥が締めつけられるように苦しくなった。目から熱いものがにじんでくる。


 どうしてだろう。どうしてこんなに涙があふれるのか。今朝エリを抱きしめて流した涙とは違う。もっと痛くて苦しい涙なのだ。


 会えないと思っていた娘に会えた。それはうれしいことで、驚いたし、戸惑いもしたけれど、悲しい出来事ではない。それなのに。


 身体が泣いてるんだ、と思った。身体があの子をおぼえていて、再びの別れを惜しんでいる。


 ひとしきり涙を落として、息をついた。目が腫れぼったい。でも泣いたおかげで気分はすっきりしている。


 遠くから蹄の音が聞こえてきた。マーリットはいそいそと表に出る。


 村の入り口のほうから小さな光が近づいてくる。馬の影と、地面に近いところに人の姿も見えた。橇に座っている。ルーネだ。


 光はマーリットの家まで来ることはなく、途中で横道に入って見えなくなった。村長さんの家に寄っているのだろう。


 今夜は曇っていて、星明かりはない。闇だ。でもそのほうがいい。ランタンの光を見つけやすいから。


 今か今かと、光が木の陰から現れるのを待った。冷えた手に息を吹きかけ、祈るように組んで、待った。


「お、ただいまあ」


 光が現れた。玄関先で立ち尽くしているマーリットに驚いたあと、間延びした声でルーネが笑う。


「おかえり」


 両腕を伸ばして抱きついた。光が顔の横を通り過ぎる。背中にそっと添えられる手を感じ取る。


 この腕に抱きしめられるのが好きだ。悲しいことも、不安な気持ちも、すべて飛んでいくから。


 暗闇に揺れるランタンのように、ルーネは出会ったときからずっと、マーリットを導いてくれた。おかげで足元の木箱は、揺らがない地面に形を変えたのだ。


「マーリットさんによろしく、って言ってたよ。何度もお礼を言われた。――母親かもしれないってこと、伝えなかったけど、本当にそれでよかったんだよね?」

「うん。ルーネって、ランタンみたい」


 想いのひとかけらを声にする。


「え? なに?」


 意味がわからず困っているような声だった。


 ふふ、と笑って、マーリットは教えない。身体を離して玄関を開ける。


 ドアが閉まらないように支えて振り返ると、光が入ってきた。ルーネの動きに合わせて、キイ、と音を鳴らし、優しく揺れる。


 忘れてしまったことはたくさんある。でも思い出せない不安を消してくれるほどの大切な思い出を、マーリットはもう持っている。それは間違いなく、この人のおかげだ。


 エリも、会えるといいな。エリにとってのランタンみたいな人に。


 そう願いながら、宝箱を閉じるように玄関の鍵をかけた。




(完)

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マーリットのランタン 晴見 紘衣 @ha-rumi

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