5 ふるえてるから抱きしめて

「ただいまあ」


 玄関が開く音と一緒に、間延びした声が聞こえた。


 出迎えようと腰を上げる。身体が重かった。暑いような、寒いような、よくわからない混乱が全身を駆け巡っている。


 ドアを開けようと手を伸ばしたところで、勝手にドアが開いた。明るいランタンを持ったまま、ルーネが入ってくる。


「あれ?」

「おかえりなさい。お客さんよ」

「あの、おじゃましてます」

「いらっしゃい。なんだろう、なんだか二人、よく似てるね。びっくりした」


 ルーネがランタンを食卓に置くから、光がふたつ並んだ。うちは家の中でもランタンを使うのだ。持ち運びに便利だから、というルーネのこだわりだった。


「……似てる?」


 マーリットは懸命に笑顔をつくって聞き返した。記憶のことやエリのことを今すぐ伝えたいけれど、エリの前でする話じゃない。


「似てる似てる。まるで姉妹みたいだよ」


 言葉に詰まった。


 横目でエリを見ると、姉妹と言われたのがくすぐったいのか、はにかんでいる。


 似ているだろうか?


 エリの髪はまっすぐな金髪だけれど、マーリットの髪はすこし癖がある。色も暗めの金で、ぱっと見は茶色だ。瞳の色だって、エリは緑っぽいけれどマーリットは深い青。では、眉とか鼻とかが似ているのだろうか。


「そう? そんなに似てる? だいぶ歳も離れてるんだけど……」

「雰囲気というか、笑い方かな。口元がいちばん似てる。そっくりだよ」


 エリが照れくさそうな笑顔をマーリットに向けてきた。


 そんな顔をされるとこっちまで照れくさい。胸の奥がむずむずとして、瞼が熱くなって、うれしいんだけれど、ひどく落ち着かない気分で笑い返した。


 ルーネが居間の隅で荷ほどきを始める。近所の家に呼ばれて患者を診てきたところなのだ。疲れている様子はないし、表情も穏やかだから、たぶんそれほど大きな怪我ではなかったのだろう。


 いつもなら、「どうだった?」と聞くところだけれど、今はしない。マーリットは息を整えた。平静に、平静に。そう言い聞かせながら、エリにルーネを紹介する。


「これがわたしの夫、ルーネ。お医者さんなのよ」

「これとはひどい」

「ルーネ。エリ・アーベルさんよ」


 包帯を取り出すルーネの手が止まった。


 やっぱり、ルーネもおぼえていてくれたのだろう。この名前を。そのことだけでもうれしかった。


 忘れないというのは、優しさだ。忘れてしまうのは、ひどいことだ。


「いらっしゃい。エリさん。お若いですねえ、おいくつですか?」


 ルーネは身体ごと向き直って、にこやかに話しかけた。


「十四歳です」

「十四……ひとりで旅をしてるんですか? 女の子なのに……。どうしてこの村に?」

「あの、わたし、ロッベンに行く途中なんです」

「ロッベン?」

「この先の山を越えたところにある町……のはずです」

「山? ここも山だけど……もっと先っていうと、隣の県か。まだ遠いね。どうしてそこに行きたいんですか?」

「会いたい人がいるんです。どうしても、会いに行きたいんです」

「あした、出発ですか?」

「はい。急いでるので、一晩だけお世話になります」

「それはいいんだけど」


 ルーネが困ったように笑う。


「道が凍ってると思うんです。ここ何日か雪は降ってないけど、積もったままだし、ずっと曇ってるから。今夜は晴れてるけど、昼間は曇りがちでした。この村でもところどころ地面が凍ってて」

「あ、はい。外で転びそうになりました。でも大丈夫です。転んでも泣きません」

「そういう問題じゃないわ」


 すこしずれた回答に思わず口を挟んでしまった。


 どういう意味ですかという顔でエリが見てくる。この時期の旅の大変さを、この子はわかっていないのだろうか。


「歩いて山を越えるなんて、すごく大変よってこと。泣くとか泣かないとかの話じゃなくてね。雪が道を隠してるし、オオカミだって出る」

「でも、行かなきゃ」


 声は、小さかった。


 弱々しいというのではない。大きな声になってしまうのを直前でこらえたような気配だ。その証拠に、エリの目は力強く輝いていた。


 ああ、この子は頑固だ。何を言っても、行くと決めた以上は行くのだろう。


 ルーネも同じ感想を持ったに違いない。「そうか……」と吐息をこぼした。


「そこまでして会いたい人が、いるんですね」

「はい」

「じゃあ、今夜はゆっくり眠ってください」

「はい。ありがとうございます」


 エリが食器を洗うと言い出したので、いいからおやすみ、と促す。エリは感謝を述べて、居間を出ていった。


「あの子は……そっくりだよ」


 驚きを瞳に浮かべて、ささやくようにルーネが告げる。


「ルーネ」


 救いを求めるようにマーリットは両腕を伸ばした。


 不安なときはいつもこうする。もういい歳なのに、子供みたいだと自分でも思う。ルーネが受け止めてくれるから、つい甘えてしまうのだ。


 ルーネの胸に顔を寄せると、膏薬の匂いがした。治療で使って、匂いが服に移ってしまったのだろう。


「すごく似てるけど、名前も――偶然かな。同姓同名で、他人の空似……でも十四歳って。ええっと、八年前? あのときたしか、五歳か六歳か、そんなもんだったよね。――じゃあ、合ってるのか……こんなことって――」


 背中にまわしてくれた手を感じ取る。顔は見ずに、ルーネの声だけを聞く。聞きながら、じっと考えた。


 マーリットは娘をおぼえていない。エリも母親をおぼえていない。だからこれ以上は答えに近づけない。ただ――マーリットはあの子を娘だと思った。


 親が子を忘れてしまうことは罪だ。


 でも思い出せないものは仕方がない。それならせめて、これから出会う人に親切にすること。それだけがマーリットの贖罪だった。


 贖罪のはてに、まるでご褒美のようにして、この出会いがあるのだとしたら。


 マーリットは顔を上げて、考えていることを声に出した。言いたいことが前後してしまって、あまり上手に話せない。それでも懸命に伝えた。


 ルーネは急かすことなく、親身になって聞いてくれた。

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