4 会いたい、と、会えた

 干し肉を煮こんだスープを、エリが食べている。


 食べ方が上品だ。食べる前にはちゃんとお祈りをしていたし、空腹なのだろうに急ぐ様子もない。教養のある人にきちんと育ててもらったのだろう。


 それにしても、どうしてひとりなのか。


「どこから来たの?」


 向かい合わせに座って問うと、エリは手を止めて微笑んだ。


「ドラファンです」

「ドラファン? ごめんなさい、聞いたことないな」

「港町です。すごくいいところなんですよ」

「へえ……どこに行くの?」

「ロッベンです。知ってますか?」

「ええっと……ごめんなさい」

「山の中にある町なんですよ。わたしも行ったことないんですけど」

「その町に、あなたの会いたい人がいるの?」


 エリの表情が曇った。微笑んではいるけれど、どこか寂しそうだ。


「わからないんです。でも、その町で育った人なんです。だから、手がかりがあるんじゃないかと思って」

「そう……大事な人なの?」

「はい。大切な人です」


 マーリットを見返す瞳がきらりと光る。控えめだけれど、強い意志を秘めた眼差しだった。


 大事な人、ではなく、大切な人、と言い換えてきた。似ているけれど微妙に違う言葉だ。その意図をマーリットは想像する。


 たとえば何か複雑な問題にエリが巻きこまれていて、それを解決するための重要人物、というわけではなさそうだ。


 この少女にとって個人的に親しい誰か。とても会いたい、大切な人。大事、よりも切実な気持ち、かけがえのない人を表す言葉。


 恋人かな、と思った。何かの事情でいなくなってしまった彼を捜しているのかもしれない。


(わたしは捜せなかった)


 捜しきれなかった。行方をつかめないまま、どんな人たちかも思い出せないまま、きょうまで生きてきた。


「チャニアには行ったことある?」


 問いかけると、エリはきょとんとした。


「チャニア?」

「首都、チャニア。知らない?」

「知ってます。鉄道があるんですよね。でも、行ったことはないんです」

「そう」


 チャニアにいたことがないなら、同じ名前の別人だろうか。


 エリ・アーベル。何も思い出せなくても、教えられたその名前だけは忘れずにいようと、ずっとこの胸に抱えてきた。


 マーリットの娘。元夫と一緒に行方知れずになった、顔も思い出せない娘。


 娼館で出会ったイーダは、こんな話もしてくれた。


 ――姉さんは言ってました。もしも切羽詰まったら、子供を連れてそっちに戻るねって。子供も? って聞き返したら、あの人のところには置いていけないって、悲しそうに笑ってた。


 自宅だったらしいあの家をルーネと訪ねたあと、マーリットは子供のことを想像してみた。娘はまだ幼いという。母親が突然いなくなって、どう感じただろうか。玄関先で帰りをずっと待っていたという、娘。


 きっと、自分はひどい母親になってしまったんだなと思った。


 だから決めたのだ。


 大切だったものも思い出せない薄情者の自分にできることは、これから出会う人たちのことを、うんと大切にする以外にない。


「マーリットさんは、行ったことあるんですか?」


 エリが小首をかしげて聞いてくる。マーリットはにこりと微笑んだ。


「わたしはチャニアからこの村に来たの」

「すごい!」


 急にエリの顔が晴れやかになった。


「乗ったことはありますか? 煙を吐き出して走るんですよね? 船より大きいですか?」

「残念だけど、わたしがチャニアにいたころは、まだなかったの」

「ああ、そうなんですか……」


 がっかりさせてしまったらしい。エリの目線が下がる。それでも頬は赤くなっているし、口元も楽しそうに笑っていた。


 チャニアに鉄道ができたと知ったのは、去年だ。線路が敷かれているのはツヴォルという町までで、どちらもこの村からは遠い。二年前からここに住んでいるマーリットは、当然、見たことすらない。


 チャニアを出るときに乗ったのは馬車だ。隣にはルーネがいた。


 あの家から帰る途中、ルーネは滔々と語り出した。


 ――マーリットさん。僕は、思うんです。


 あなたのだんなさんは、借金を抱えていたらしい。きっとその借金は残ったままで、もしも借金取りがあなたを見つけたら、しつこく返せと言ってくるでしょう。


 でも今のあなたに借金を返せるお金はない。


 それにですよ。あなたの昔のお仕事を知っている人が、すくなからずいます。


 チャニアにはたくさんの人が住んでいるから、昔のあなたを知っている人に会うことはめったにないと思うけど、まったくないわけじゃない。


 そういう人に会ったとき、あなたは嫌な思いをするんじゃないかなって。なんだか、そんな気がするんです。


 だから、チャニアを出て暮らしたほうがいいんじゃないかなって思います。


 それで……これは僕の事情ですけど。僕には夢があるんです。


 あの病院を離れてみたいとずっと思ってるんですよ。医者がいない町や村に行って、人助けをしたいんです。


 暮らしは今より貧しくなりますが、そうだな、牛でも飼いながら、怪我や病気の人がいれば駆けつける、みたいな暮らしがしたい。薬をどう手に入れるかとか、そのへんは考えなくちゃいけないですけど。


 より多くの人を助けるために、もっと研究したり外国に学びに行ったりすることも重要だと思います。僕の友人はどっちかっていうとそういう考えの人で。


 でも僕は、今というのを大事にしたい。今まさに困っている人を助けたい。


 あの、だから、提案なんですけど。


 マーリットさん。僕と一緒にチャニアを出ませんか?


「わたし、一回は乗ってみたいんです、鉄道……汽車」


 エリの目が遠くを見ている。


 この子は乗り物が好きなのかなと思ったとき、マーリットのこめかみがうずいた。


 ルーネの顔が頭に浮かぶ。チャニアを出ようと誘ってくれたときの、今よりちょっとだけ若いルーネだ。すぐにかき消えて、娼館の女将の顔が浮かんだ。それも消えて、記憶をなくす前に住んでいたというあの家が、目の前に現れた。


 玄関は閉まっている。それなのに、家の中が見えた。


 部屋に誰かがいる。いや、さっきから、いた。背の高い男だ。


 マーリットはこの男を知っている。こうして向き合って、話をした。ひどく悲しい、腹立たしいような感情を持てあましながら話をしたのだ。


 ――俺のことが好きだから、産んでくれたんだろ?


 男の声が聞こえたと思った瞬間、幻は消えた。一瞬だけ姿を見せた魚があっという間に川底へ逃げるのと似ている。つかめそうでつかめなかった。


「マーリットさん?」


 はっとした。心配そうな顔つきのエリと目が合う。


「なんでもないの」


 笑顔で答えたものの、どくんどくんと鼓動が速くなるのを抑えられなかった。


 思い出したのだ。ルーネと出会う前、事故に遭う前、かつての自分と、誰かのことを。


 俺のことが好きだから……、その言葉をマーリットは確かに聞いた。昔、誰かに言われた。


 あれは、誰だっただろう。はっきりとは思い出せない。けれど――たぶん、推測は当たっている。


 ずっと思い出せなかったのに、どうしてなのか。この子がいるから? この子と話すことで、暗闇に沈んでいる記憶が刺激されたのだろうか。


「ところで、あなたのご両親は? 一緒じゃないの?」


 聞きたいことを聞いてしまおう。


 いまさら過去を思い出したところで、築きあげてきたルーネとの暮らしを変える気はない。だから思い出しても、思い出せないままでも、どっちでもいい。そう言いきれるくらいには、今の自分に満足している。


 ただ、ほんのわずかでも記憶を揺さぶってきたこの子の正体を、見極めたい。


 エリは目を泳がせて沈黙した。呼吸をひとつ、ふたつ、整えるような間を置いてから、視線をマーリットに戻す。静かに微笑んでいた。


「父は、亡くなりました。母は知りません」


 短い返答が、ちくりと胸の奥を刺してくる。


「お母さんのこと、知らないの」

「小さいころにいなくなったんです。だから今どうしてるのかは、知らないんです」

「会いたい……?」


 エリは微笑んだまま首を傾けた。悩んでいるようだ。わずかな沈黙のあと、自分の気持ちを確認するようにゆっくりと、告げた。


「どこかで、幸せに生きていてくれれば、それでいいです」

「そう……。お父さんのお名前は何ていうの?」

「え?」


 なぜそんな質問をするのかという顔をしながら、それでもエリは答えてくれる。


「ヘンドリー・アーベルです」

「――そう。亡くなったのね」


 神様、と叫び出したい気分だった。吐いた息がなかなか吸えない。やっと吸うと、今度は吐き出す息がふるえた。


 この子は、わたしの娘だ。絶対にそうだ。


 エリはチャニアに行ったことがないと言った。たぶん、幼かったせいだろう。自分が住んでいる町の名前を知らないまま、別の町へ移ったのだ。


 あるいは知っていても成長するうちに忘れたのかもしれない。それは、とても自然な忘れ方だ。幼かったなら、仕方のないことだ。


 マーリットに子供を産んだという記憶はない。娘と一緒に過ごした思い出もない。だから娘かもしれない女の子が目の前にいても、懐かしさがない。


 それでも、会ってみたかった。

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