3 知ったときには失っていた

 イーダはマーリットがどこに住んでいるのか、おおざっぱな住所を知っていた。


 それを聞いても、ルーネが書きとめたメモを見ても、記憶に引っかかってこない。


「あ、読めない? そっか、字も忘れてるのか……いや、もとから読めなかったのかな。それも女将に聞けばよかった」


 娼館からの帰り道、ルーネはぶつぶつと呟いたあと、「大丈夫」とマーリットに微笑みかけた。


「字なら僕が教えますよ。思い出すことができなくても、マーリットさんは新しくおぼえることができる。過去も大切ですが、過去がなくても未来はつくれます」

「過去がなくても……」


 つっかえながらだけれど字は読めます、と訂正するのを忘れて、ルーネの言葉を噛み締めた。


「そうですよ。まあ、思い出せるなら、それが一番なんでしょうけどね」


 そこまで言うと、ルーネはあたりをきょろきょろと見まわした。来た道とは逆に、十字路を右に曲がる。


 夏は日が落ちるのが遅い。夜の九時でも昼間のように青空が見えているから、街路灯もついていなかった。


 入り組んだ小道に建ち並ぶのは居酒屋だ。お酒と食べ物の匂いが充満し、喧騒が絶え間なく続いている。


 食事はさっき済ませたものの、支払いをルーネに頼っていることが気になって、すこししか注文しなかった。満腹じゃないせいか、路地に立ちこめるおいしそうな煙をつい目で追ってしまう。


 どんな食べ物だろうと興味を持ったのはある意味、逃げだ。頭の片隅では常に、娼館で聞いた自分の過去が問題を突きつけていた。


 ぐい、と腕を引き寄せられる。


 はっとして振り向くと、痩せた男がそばを駆け抜けていった。ルーネに腕を引かれなければぶつかっていた。


 曲がり角の向こうから怒号が聞こえてくる。「コソ泥め!」という太い声だ。追いかけるつもりはないのか、それ以上の騒ぎは起きない。さっきの痩せた男も人混みに紛れていなくなっている。


「大丈夫ですか」


 マーリットの腕が解放された。意外と強い力だったな、とルーネの顔を見つめ返す。


「はい……ありがとうございました」

「泥棒ですかね。盗みはよくないけど、でもさっきの人、すり切れた服を着てましたね。きょう食べるものにも困ってるのかもしれない。多いですからね、そういう人」

「そうなんですか。――ええっと、そうですね。そうでした」

「思い出したんですか?」

「はい。仕事が見つからないんですよね。どこも人手があまってて。そういうご時世だって、急に頭に浮かびました」

「思い出せてよかった。――マーリットさんのだんなさんも、仕事を探していたようですね」

「そうらしいですね」

「それは、思い出せない?」

「ごめんなさい」


 何から何まで助けてもらっているのに、肝心なことは思い出せないままだ。もどかしいし、ルーネに申し訳ないと本当に思う。


「謝らなくていいんですよ!」


 あわてた様子で手をばたばたと振り、ルーネがにっこりと笑った。


「早く、帰りましょうか」

「はい」

「天気がよければ、あしたの午後に迎えに行きます。マーリットさんの本当のおうちを探しに行きましょう」

「はい」


 行きたくないな、と思った。


 娘がどんな子なのか会って確かめたいと思ったように、夫がどういう人なのか、その姿を見てみたいとは思う。けれど「どうしても会いたい」という強い気持ちにはなれない。


 今のマーリットにとってはまったく知らない相手なのだ。元の自分も夫をそれほど好いてはいなかったらしいし、嘘つきだというし、会わないほうがいいんじゃないかと思ってしまう。


 過去がなくても未来はつくれるとルーネは言った。それなら、もうそれでいいじゃないか。


 そう思う一方で、じゃあどんな未来をつくるのかと考えたら、とたんに足元の木箱がぐらぐらしはじめる。こんなに不安定な足場では、暗い未来にしか行けない。そんな気持ちになる。


 過去を取り戻したいけれど、怖い。怖いけれど、知りたい。知りたいけれど、気が重い。


 気が重くても、行くのだ。


 こんなにもマーリットのことを考えてくれているルーネが行こうと言っているのだから。世話をしてもらっている屋敷にだって、いつまでもいられない。ちゃんと帰る家が必要で、だから、行かなくちゃいけない。


 その夜はよく眠れなかった。


 窓から見える空は日が落ちても真っ暗にはならず、夕暮れのように薄青い。夜明けまでずっとこの薄明るさが続くのだ。夏は、白夜だから。


 先月はもっと明るい夜空だった。きっと来月の夜空は真っ暗だ。そうして一日の大半が闇になっていく。冬が来る。


 そんなことをどうして知っているのか。いつ知ったのか。どうでもいいことをおぼえていて、大切なことを忘れたのはなぜなのか。これからどうなるのだろう。どうすればいいんだろう。


 考えて考えて、眠気はいっこうに訪れてくれない。何度も寝返りを打つうちに朝日が昇ってしまった。






 正午の鐘のあと、迎えに来たルーネについていった。


 見覚えのある景色には出会えず、娼館のときのように身体が自然に道を選ぶということもなかった。


 メモした住所が近くなると、ルーネは「ヘンドリー・アーベルさんのおうち」を人に尋ね歩いてくれた。


 そのなかには、マーリットを見て怪訝そうな顔をする人もいた。


 もしかしたら記憶をなくす前のマーリットを知っているのかもしれない。けれどあまり親しくはなかったのか、関わりを避けたいのか、何も言ってこなかった。


 家は見つかった。


 お世話になっている屋敷にくらべたら小さいけれど、立派なおうちだ。まわりに建つ家も大きくて、お金持ちばかりが住んでいるようだった。


 マーリット・コルヴァールが住んでいた家の玄関を、ルーネが叩く。「ごめんください」と言いながら何度か繰り返す。


 中にいるのは誰? 夫? 娘? いったいどんな人が出てくるのだろう。


 マーリットは緊張しながら待った。けれど、どうやら留守のようだった。


「マーリットさんじゃないか。え? だんなと子供?」


 ルーネが呼び止めた人は近所に住むおじさんで、マーリットのことも知っていた。


「いつの間にかいなくなってたよ。夜逃げじゃないかって噂があるけど、真相は知らないね。マーリットさんは、家出してたの? ケンカしたって言って、だんなさんが青ざめてたよ」

「ケンカ、ですか?」


 ルーネが顔を前に突き出して問う。おじさんは苦笑してマーリットを見やった。


「詳しいことは聞いてないけど。ただ、マーリットさんが別れ話を切り出したって。ほら、借金取りが来てたの俺も知ってるからさ。そのへんの事情でしょ? この家だって借家らしいけど、家賃も払えてなかったんじゃない?」


 マーリットは愛想笑いを浮かべて首をかしげる。


 ケンカ、借金取り、別れ話。


 知らない。何も思い出せない。わたしの過去は空白だ。


「まあ、あんたなら、別れても食べていけるだろうからねえ……」


 おじさんの目に、意味ありげな光が浮かんだ。


 ぞっとした。気持ち悪いと思った。よくわからないけれど、この目つきは好きじゃない。


「どういう意味ですか?」


 尖った声が耳に飛びこんでくる。振り仰ぐと、いつもより険しい横顔があった。


 ルーネが、わたしのことで怒ってくれている。そう思ったら、不快な気分がすうっと消えていった。


「いや、だってこの人はもともと……まあいいや」


 大きな咳払いをして、おじさんが真面目そうな顔をする。


「それより、ヘンドリーさんが捜してたよ、あんたのこと。エリちゃんもね。玄関の前に立って待ってるのを見たよ。帰ってこないお母さんと、捜しに行ったお父さんの帰りをね、待ってたんだよ」

「ヘンドリーさんたちは、いつごろいなくなったんでしょうか」


 ルーネの声はさっきより落ち着いている。けれど表情はまだすこし険しい。


 おじさんは首を横に振って、突き放すような声で答えた。


「知らないよ。……三週間前までは見かけてたけど、はっきりしたことはわからないね」


 その時点で、事故から二ヶ月が過ぎていた。

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