2 自分じゃない自分のこと

 ルーネは手書きの地図と睨めっこしながら歩いていた。


 ある交差点にさしかかったとき、マーリットはこめかみを指ではじかれるような心地がした。足が自然と左の道を選ぶ。


「マーリットさん? この道、知ってるんですか?」


 知っている、と思った。この道の先に何があるのかはわからないけれど、この道は来たことがある。頭よりも身体がおぼえているという感じだった。


「まあまあ! マーリット! あんた痩せたねえ! ちゃんと食べてるの?」


 辿り着いたのは娼館だった。女将が懐かしそうに相好を崩して中に入れてくれる。


 若い女たちが集まってきて、「マーリット姉さん!」とか「戻ってくるの?」とか聞いてきた。女将の部屋はさして広くないので、入りきらずに廊下から覗きこんでいる人もいた。


 マーリットは椅子に座って女たちの顔を見上げる。何も返事ができなかった。困り果てて、隣に座るルーネに無言で助けを求める。力強いうなずきが返ってきた。


 マーリット・コルヴァールは十歳でこの娼館にやってきた。もとは首都から遠い田舎の生まれだという。


「斡旋の男が売りに来たんだよ。親に売られたのか、もしくはさらわれたのか、そのへんは聞いてないけどね。うちは高く買ってあげたよ。マーリットは美人に育つって思ったから」

「ああ、きれいですよね、マーリットさん」


 ルーネは横目でこっちを見て、照れたように笑った。


「マーリットはほんとによく稼いでくれたよ。気立てもいいし、どんな客にも物怖じしない。うちの若い子たちにとっては頼れる姉さんで、先輩の姉さんたちにとっては気が利く妹」

「へえ、活発な人だったのかな。今とちょっと印象が違いますね。それで、マーリットさんは今もこちらに?」


 集まっていた女たちは、話が始まるとつぎつぎにいなくなった。夜の仕事に向けて、ひと眠りするのだという。


「いやいや。とっくに出て行ってる」


 目線を斜め上に向けて、女将は椅子の背もたれに背中をあずけた。


 女将の正面に座っているマーリットは背筋を伸ばしたままだ。緊張していて、背もたれを使う気になれなかった。お化粧やら香水やらの匂いが部屋にしみついているせいか、なんだか息もしにくい。


「ええっと、六年前か。客の子供を妊娠してね。その相手と結婚したいっていうからさ。じゅうぶん元は取れてたし、マーリットもどんどん歳を取っていくわけで、まあいいかって」

「マーリットさんはおいくつだったんですか?」

「二十六。まあ、世間一般からしたら遅いほうだけど、娼婦としては頃合いでしょ。そもそも娼婦を嫁にしようっていう男はまれだからね。愛人にしようってのならいるけどさ。子供をどうするかって問題もあるし、結婚できるならそのほうがマーリットのためだと思ったの」

「じゃあ、結婚したんですね? 相手の男性はどんな人だったんでしょうか」

「教師をやってるっていう男だった。名前は……そうそう、ヘンドリー・アーベル。気前のいい客でねえ、どっちかっていうと男のほうがマーリットに惚れてたね」

「どこに住んでいるか、わかりますか?」

「さあねえ……子供が生まれたとき、いちどだけ顔を見せに来てくれたけど、それっきりだし……」

「お子さんは、ええと、今は六歳かな? 名前はわかるでしょうか」

「なんていったかねえ……」

「エリちゃんです」


 答えたのは女将ではなかった。


 女たちはみんな出て行ったけれど、たったひとりだけ、部屋に残っている娘がいた。透きとおるような白い肌と、灰色のつぶらな瞳が印象的な、きれいな娘だ。


 夏だから使われていない暖炉の脇に突っ立って、女将とルーネのやりとりをずっと静かに聞いていたのだ。マーリットはさっきから何度も、彼女の視線を感じ取っていた。


「エリちゃん、ということは女の子ですね」


 ルーネが背後を振り向いて彼女を見る。でも彼女はルーネではなく、マーリットと目を合わせてきた。


「マーリット姉さんと会ったんですよ。去年の夏に。わたし、ちょっと用事があって遠くまで歩いたんです。そしたら、ひさしぶりね、って話しかけてくる人がいて。マーリット姉さんでした。だんなさんが子守をしてくれているから、ひとりで買い物に来たって。幸せですか、って聞いたら、さあどうかなって言って」

「イーダ、そんな話は聞いてないけど」


 女将が眉根を寄せる。イーダという名前の娘は、「ごめんなさい」と声を落とした。


「お母さんにうまく説明する自信がなかったから」

「説明ったって……」

「どんな話をしたんですか? マーリットさんと、あなたは」

「マーリット姉さんは、だんなさんのことを嘘つきだって言ってました。嘘つきで見栄っ張りだって」

「嘘つき?」


 ルーネの声が裏返った。びっくりした顔をしている。


「教師じゃなかったそうです。教師なら国からお給料をもらっているから、お金持ちとまではいかないけど貧乏になることもない。優しい人だし、べつに嫌いでもない。そんな人が妻にしたいって言ってくれた。暮らしも成り立つんだろうし、自分を好いてくれている人のところに行くのが幸せかなって、それでマーリット姉さんは結婚したんです。でも違ったって」

「本当の職業は何だったんですか?」

「工場労働者。でもいちど体調を崩して休んでから行かなくなって、うちに来たのは賭け事をして儲けたときだったみたいって言ってました。マーリット姉さんによく思われたいから嘘をついたんだって、白状したらしいです」


 まっすぐ自分を見つめてくる目の中に、マーリットは過去の自分を探した。


 どれだけ探しても、見つからない。彼女が語るマーリットの話は、マーリットの記憶にはない。自分のことらしいけれど、自分じゃない誰かの話だった。


 チッ、と女将が舌打ちした。悔しそうな顔をしている。ルーネが一瞬だけ女将を振り向いて、またイーダに視線を戻した。


 イーダの表情は動かなかった。マーリットが顔を向けると、いつでもイーダと目が合う。笑わない目元に、かすかな怒りがただよっているように思えた。


 誰に対しての怒りだろう。ヘンドリーという人だろうか。イーダのことも忘れているマーリットだろうか。


 そんな目で見られても、どうすることもできない。マーリットは視線をそらした。


「ヘンドリーさんはよく天文学の話をしてくれたけど、それは知り合いから聞きかじったことを言っていただけで、教師だと信じこませるための嘘だったらしいです」

「イーダ、何ですぐにあたしに言わなかったの」


 女将が咎めるように言うと、イーダは肩をすくめた。


「マーリット姉さんにナイショにしててって言われたの。お母さんが心配しちゃうからって」

「みずくさいねえ」


 女将がマーリットを見る。目には涙がうっすら浮かんでいた。


「あんたがそんな気遣いをすることないのに。やだねえ……ごめんね、マーリット」


 返事のしようがないから、曖昧に首を振って、うつむいた。


 何もおぼえていないけれど、きっとこの女将は悪い人じゃない。この人のこともイーダのことも思い出せなくて、謝りたい気分だった。


「ヘンドリーさんは人にお金を貸してって言われたらすぐに貸しちゃうし、食事をおごってあげたりするんだって。貸したお金は返ってこないままなのに、またお願いされたら貸しちゃう。困ってるんだから助けないとって。入るお金より出ていくお金のほうが多いって、姉さんは怒ってた」

「稼ぎはどうしてたんだい?」

「マーリット姉さんがお針子の内職をして、それでなんとか食べてるって言ってた。ヘンドリーさんも職探しをしてるって。工場は嫌だって言って、皿洗いの仕事をしてたらしいけど、それより賭け事のほうが儲かるって言ってやめて、あげく大損したらしくて。ちゃんと働くよって、約束させたみたい」

「かわいそうにねえ」


 女将が溜め息をついた。


「女がひとりで食べていくなんて難しいからね。工場で朝から晩まで働いても貧乏だって聞くし、金持ちの家の召し使いになれれば最低限の暮らしはできるだろうけど、小さい子供を抱えてとなるとね。だめな亭主でも、見限るよりは尻をひっぱたいて働いてもらうほうがいいって考えたんだろうね」

「ここにいたときより、顔色がよくなかった。でも今は、あのときより元気そうに見えます」


 イーダが表情をやわらげると、女将とルーネも揃ってこっちを見た。


 マーリットは目を泳がせる。女将の憐れむような顔と、微笑むイーダ、気遣わしげな目つきのルーネ。


 結局、ルーネの視線だけを受け止めた。


「何か、思い出せましたか?」


 優しい声音で問いかけてくる。マーリットは頭(かぶり)を振った。


 夫や娘がいると言われても、面影すら浮かんでこない。愛しいという感情もわかなかった。


 ただ、娘がいるなら会ってみたいと思った。


 愛しくて会いたいのではなく、知りたいから会いたい。どんな子なのだろう、という興味だ。

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