マーリットのランタン
晴見 紘衣
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ランタンをかかげると、星明かりの中で見慣れない少女が立っていた。
「あの、教会に泊めてもらおうと思って探してるんですけど、どう行けばいいでしょうか?」
「教会に泊まる? 無理よ」
マーリットは即答した。
村の教会は日が暮れると鍵をかけてしまう。日暮れ――つまり午後三時には誰も入れなくなるのだ。
鍵をかけるのは当番制で、今週はマーリットの家が担当している。だから教会まで案内してあげることはできるけれど、泊まるのは無理だ。
「教会に暖炉はないの。死んじゃうかもしれないでしょ」
マーリットの家よりも小さな教会だ。牧師もいない。夏ならまだしも、今の時期は寝泊まりなどとんでもない。
困ったように眉根を寄せて、少女は何度もまばたきをした。小柄な体のむこうから切れそうに冷たい風が吹いてくる。
玄関は二重扉だから家の奥まで寒くなることはないけれど、マーリットの手足はだんだん冷えていった。それはもちろんこの少女も同じ――いや、もっと寒いはずだ。
「それじゃあ、あの……今晩、泊めていただけませんか?」
遠慮がちに、けれどしっかりとした声音で少女は言った。
白黒模様のスカーフで頭を覆い、ケープを羽織ってはいるけれど、少女はマフラーも手袋もしていない。こんな格好で夜風に当たりながら寝れば、それこそ死んでしまう。
うちがだめならほかの家を当たるだろうけれど、最初にうちを選んで来てくれたことにマーリットは感謝した。
「どうぞ。入って」
他人に優しくすること。善行を積むこと。それこそがマーリットの贖罪だ。
少女は安心したように笑って玄関の内側に入ってきた。
ドアが閉まり、星明かりが遮断される。壁掛けランプの小さな灯りと、マーリットが手にしているランタンだけが闇を照らす。
「ありがとうございます。あの、わたし、エリ・アーベルといいます」
鳥肌が立った。
ランタンの光を当てて、少女の顔を確認する。青とも緑ともつかない瞳の色。小さな顎に、まるい鼻先。ふっくらした唇はすこし荒れているように見える。年齢は十代なかばといったところか。
――知らない顔だ。
「マーリット・コルヴァールよ」
平静を装って微笑み返した。この名前に少女がどう反応するか、様子を窺う。
エリと名乗った少女は、にこにこと笑ってマーリットを見上げてきた。「おじゃまします」と礼儀正しく告げて、後をついてくる。
肩すかしをくらったような気分だけれど、マーリットの胸はどきどきしたままだ。もう一枚のドアを開けて、少女を振り返りながら廊下を歩いた。
「旅をしてるの?」
「はい。会いたい人に会いに行く途中なんです」
「会いたい人……」
「絶対に、会いたい人がいるんです」
エリはきっぱりと言い切った。
大きな荷物を背負っていて、紐が肩の上でピンと張っている。とても重そうだ。この少女が抱えている事情そのものを表しているように見えて、マーリットはそれ以上の質問をためらった。
うかつに踏みこんではいけない。そう思わせる重さが、少女のたたずまいに滲み出ている。
「うちは、わたしと夫の二人暮らしなの。でも夫はいま外に出てるから、帰ってきたら紹介するね」
エリを客間に通すと、マーリットは暖炉の準備を始めた。
一人用の個室だからベッドはひとつしかない。狭いからほかの家具も置けない。それでもちゃんと暖炉はあるのだ。
掃除は行き届いている。隣村から夫を訪ねてくる患者や、その家族を泊めるために、いつでも部屋を使える状態にしているのだ。
マーリットが火をおこしているあいだ、エリは荷物を下ろして中を確認していた。床に置いたランタンの光が、エリの背中に流れる髪の毛を蜂蜜色に照らしている。
「ごはんは? もう食べたのかしら」
「あ、えっと……」
エリはサッと顔を上げて、はにかんだ。
「パンを食べました。朝に」
つまり、おなかがすいている。食糧の配分を間違えたのか、お金がないのか。そんな自分が恥ずかしくて言いよどみ、結局は正直に答えたのだろう。
「夕飯の残りがあるわ。温め直してあげるから、よかったら食べて」
「ありがとうございます! うれしいです!」
満面に笑みを浮かべるエリを見たとき、こめかみがうずいたような気がした。
――何か、思い出せましたか?
あれからもう何年たつのだろうか。夫に連れられて見知らぬ道を歩きまわっていた、あの日々から。
真っ青な空に白い綿雲が浮かんでいて、街路樹の緑がまぶしかった。肌に触れる風が暖かくて、短い夏のさなかだということは教わらなくても知っていた。
「何か、見覚えのある景色とか、番地とか、どんな小さなことでもいいから」
そう言われても何も思い出せなかった。前を見ても後ろを見ても、すべて知らない景色だった。
夫は――当時はまだ恋人ですらなく、病院に運ばれたマーリットを治療してくれた医者だった。名前はルーネ。ルーネ・オルセン。
ルーネによると、馬車が横転する事故があったそうだ。
マーリットは買い物籠をさげて道を歩いていた。逃げるのが遅れて、倒れてくる馬車に巻きこまれてしまった。――ということらしい。
マーリットの怪我はたいしたことがなかった。青痣と擦り傷はあるものの、骨折はしていないし、肩を動かすと痛かったけれど、それも日ごとに消えていった。
こういう事故の場合、重症になることがほとんどだという。怪我をした手足は切断するしかない、ということもめずらしくないそうだ。
運がいいと言われた。
ただし、事故から三日も眠りつづけていた。そのうえ目をさましたときには、記憶が欠落していたのだ。
「ここがどこだかわかりますか?」
「……いいえ」
「自分の名前を言えますか?」
「……わからない」
「自宅の住所は?」
「……さあ?」
「では、家族や、友達の名前は言えますか?」
「――わかりません」
事故のことも自分のことも、まったくおぼえていない。あなたは馬車の下敷きになったんですよと説明されても、「そうなんですか?」と首をかしげることしかできなかった。
持っていたという買い物籠を見せられても、それが自分の持ち物だという実感がまるでわかない。
落ち着かなかった。
いったい自分は誰なんだろう。どこに住んでいたんだろう。誰とつながっていたんだろう。
「外を歩きましょうか。何か思い出すかもしれない」
ルーネに連れられて、街を歩いた。
「ここは首都チャニア。それはおぼえてますか?」
「いいえ」
「ですか……。あなたはどこで生まれ育ったんでしょうねえ。誰か、あなたを知っている人に会えればいいんだけど」
ここで事故に遭ったそうですよ、と交差点に案内された。
「ここを馬車が曲がるとき、車輪が外れてしまったんです。あなたはあっちの通りから歩いてきて、ちょうどこのあたりに」
ルーネが曲がり角に立つ。
「あなたがここを曲がろうとしたとき、反対側から馬車がやってきて、傾いた。あなたは逃げられなかった――思い出せませんか?」
道は広くて、両端に街路灯が立っていた。
人がたくさん行き交っている。馬車が来れば道をあけるけれど、そうでないなら往来の真ん中を歩くのは普通だ。そういうことは、おぼえていた。
でも、この場所を歩いたことがある、とは思えなかった。どこにでもあるような道のひとつだけれど、知っている道だとは感じない。
マーリットは素直にありのままを説明した。
「そうですか……。でも、そうか、何もかも忘れてからっぽになっているわけではなさそうですね。言葉は忘れていないし、物の名前とか、道を歩くときの慣習とかもおぼえている」
なるほどなるほど、とルーネは微笑んだ。
マーリットは自分の身に起きていることに戸惑うばかりで、どうすればいいのかもわからないし、何をしたいのかもわからない。言われたことに従うしかできない。
けれどルーネは冷静で、マーリット自身よりも、今のマーリットのことを理解しようとしてくれていた。これからどうすればいいのかも、ルーネは考えてくれていた。
数日後、マーリットは退院した。
病院にいてもこれ以上の治療はできず、むしろ日常に戻ったほうが記憶の回復につながるかもしれないから、だという。
「あなたがどこの誰かわかるまで、あずかってくれる家を見つけてきました。その……あなたはお金を持っていないから、アパートとかには住めないと思って……治療費? ああ、それは無料ですよ。この病院は国営なので」
マーリットは、とある工場経営者の屋敷に身を寄せた。
客人ではなく、住み込みの洗濯女として働きながら日々を過ごすのだ。正式に雇われたわけではないから給料はもらえないけれど、暮らしには困らない。
用意してもらえた寝室は一人部屋だった。ほかの部屋にくらべたら狭いけれど、最低限の家具はあったし、ベッドの寝心地も悪くない。
なによりも、他人の目を気にせず寝起きできるのはありがたかった。入院中はそれが嫌だったのだ。
このときのマーリットは、ヒルデという名前で呼ばれていた。よくある名前で誰でも親しみやすいから、とルーネがつけてくれた仮の名前だ。
名前をもらったとき、うれしくて笑った。目をさまして以来、心から笑ったのはこのときが最初だったと思う。
屋敷に来て部屋でひとりになったとき、「わたしはヒルデ」とこっそり声に出してみたこともある。空白だらけの記憶を、新しい名前がほんのすこしだけ埋めてくれるような気がした。
ガス灯を導入している工場は冬の夜でも稼働できる。人の手ではなく機械で物を作る場所だから、生産量も多い。だから工場経営者はお金持ちだ。
このことを思い出したのは、屋敷でほかの使用人たちに紹介されたときだった。パッと目隠しをはずされたように、唐突に思い出したのだ。
思い出したことはほかにもある。洗濯の仕方だ。
汚れが目立つ衣服はまず水に浸して、洗濯板でこする。お湯を張った盥に移したあとは、かき混ぜて、さらにゴシゴシこすって――と考えながら洗濯場に向かったら、洗濯機があった。
木製の樽にハンドルがついていて、石鹸を溶かしたお湯と衣服を入れたらハンドルを回す。それで洗えるらしい。
終わったら濡れた服を手絞り機のローラーに一枚ずつ挟んでハンドルを回す。手で絞るより力がいらないし、水切れもいい。
どこの家でもこうなんですかと尋ねたら、貧しい家には洗濯機がない、と年配の洗濯女が返事をくれた。そういう家での洗い方はマーリットが思い出した方法で合っているらしい。
そっか、わたしはお金持ちじゃなかったか。
残念なような、自分の過去が垣間見えてうれしいような、複雑な気分だった。
料理のことも思い出した。用意してくれたごはんを食べるときに、「これ、知ってる」という気持ちになり、作り方が頭に浮かんだのだ。
どこでどうやって料理や洗濯をおぼえたのか。それは思い出せないままだったけれど、やり方はおぼえている。
脆い木箱の上に立っているような気持ちになった。
中身はからっぽで、ぐらぐら揺れていて今にも壊れそうだけれど、この木箱だけが唯一の足場。落ちたら闇に吸いこまれる。そんな恐怖があった。
ルーネはよく外に連れ出してくれた。事故のあった道を中心に、いろんな場所へ連れて行ってくれた。
「マーリットじゃないか! ひさしぶり!」
何度目かの外出のとき、知らない男にそう声をかけられた。ずいぶんと親しげで、マーリットの肩をなでさすってくるのが不快だった。
「この人を知ってるんですか?」
ルーネに問われた男は、怪訝そうな顔をした。事情を聞いたあとも半信半疑の様子で、それでも教えてくれた。
マーリット・コルヴァール。それが自分の名前らしかった。
生まれはわからない。けれど育ちはわかった。娼館だ。男はマーリットの客だった。
娼館とか娼婦とか、どうしてそういう言葉はおぼえているのに、自分自身の生い立ちは思い出せないのだろう。男が語る「マーリット・コルヴァール」は、他人としか思えない。
ルーネの横顔を見つめた。
さらさらの茶色い髪の毛、耳の形、唇の形、鼻の形――まつげが長いなあと思った。どういう気持ちでこの話を聞いているのかが気になった。
――どぎまぎしたよ。
だいぶあとになって聞いたら、答えてくれた。
――そういう女性だったって、思いもしなかったからね。でもうろたえてるって思われたくないし、あたりまえみたいな顔を取り繕うのに必死だったんだ。
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