第6話

 来る時と同じ密やかなノックの音がして、僕はすぐにドアを開けた。

「おかえりなさい。上手く行きましたか?」

 僕は薄暗い廊下に立ちつくす彼女に微笑んで言った。

 彼女は微かに頷くと、そっと片手を差し出した。僕はその手を見て思わず顔をしかめる。黒く汚れて痛々しい痣もある。差し出された小さく畳まれた紙片も破れてはいないものの、汚れてくたくたになっていた。

「ええっと、伊藤さん?」

「ぶん殴ってやりました」

 暗がりで、彼女は不意に明るく笑った。

「だから、もうすっきり。思い残すことはありません」

「本当に?」

「はい」

「そうですか。それは良かった。地図を作った僕としてもそれは幸甚というもの。では、これは最初にお話しした通り回収させていただきます」

 彼女の手からその紙片……地図をそっと取ると、伊藤さんは、ほっとした表情になった。

「あの、それでいいのですね? 地図を返すだけで」

「ええ。それも最初にお話しした通り。この地図を返却していただくだけでいいですよ。つまりは」

 僕は小さく畳まれた地図を目の高さに掲げて言った。

「あなたのために作ったこの地図が、僕にとっての報酬というわけです。これで充分。今のあなたならその意味が判るのでは?」

「……そうですね」

 消え入るような声で彼女は言うと、浴衣の襟元を今更ながら気にして指先で整えた。

「あいつ、あんな奴だけど、私を庇ってくれました」

「そうですか」

「ぶん殴って、それですっきりしたんはずなんですけど」

「まだ、好き?」

「はい。駄目ですね。また別れられませんでした。彼をひとりにすることも出来なくて。……馬鹿ですね。みんな、私を笑うでしょう」

「なんの」

 僕は優しく言った。

「あなたが満足なら、僕はそれでいいと思います」

 ふと、彼女の体が震えたような気がした。

 笑った?

 そして、彼女は後ろを肩越しにゆっくりと振り返った。

 後ろに誰かいるのかとその暗闇を覗こうとした時、それを遮るように彼女が言った。

「では、私はこれで失礼します」

「ああ、はい。お気をつけて」

 一礼して彼女は薄暗い廊下の向こうに消えてしまった。僕はドアを閉め、すぐさま作業台に取って返すと、台の上に彼女の地図を広げた。

 それは思ったよりもかなり汚れて皺くちゃになっていたが、ちゃんと内容は確認できる。

 ぱちりと作業台のスイッチを入れるとライトが下から灯り、地図の細部が更にはっきりと浮かびあがった。

 そして。

 その地図から微かに漂うのは、夜の気配と人々のざわめき、それから火薬の匂いとそれに伴う激しい音、音、音。

「こいつは……花火か」

 僕は、その地図から立ち上がってくる過去の匂いや音に、そしてそれに混ざり合う人の想いに心を奪われていた。それらは古い映画の画像のようにざらざらとそして艶めかしく僕の中を巡って行くのだった。


 どのくらい時間が経っただろうか、ふと気が付くと古いパソコンは起動したままで、僕が検索した画面をまだぼんやりとそこに映していた。

『……M高校二年の澤田芳樹くんは、友人との待ち合わせのため、桜の木に下にいたところを爆発に巻き込まれて亡くなった。

 澤田くんの近くでは花火の打ち上げ準備が行われており、消防は何らかの原因で打ち上げ前の花火に引火して爆発が起こったと見ている。

 作業をしていた花火師たちは、澤田くんの存在には気が付かなかったと口をそろえて話し、爆発が起こった時は全員が少し離れた別の場所で作業をしていたため、死傷者は出ていない。

 また大きな爆発は二回起こっており、亡くなった澤田くんの友人で後から待ち合わせの場所に来たと見られる伊藤かずみさんが二回目の爆発に巻き込まれている。伊藤さんは重度の火傷を負い、病院に搬送されたが一時間後に亡くなった。澤田くんが伊藤さんを庇うように倒れていたため、周囲からは痛ましいとの声が……』

 いつの間にか文面は少し変わっていて、亡くなったのは高校生ひとりだったのがふたりに増えていた。

 重たい溜息をつきつつ、パソコンの画面を閉じた。

 それから作業台の彼女の地図を手に取ると、隣室のドアを開けた。そこは本棚がずらりと並んでいるだけの空間だ。

「十年前の今日。夏祭り。……これでいいか」

 本棚には分厚いファイルがいくつも収まっていて、僕はその背表紙を目で追いながら、一冊のファイルを抜き出した。そこにその地図を挟み込むとすぐに本棚に戻す。そして、後ずさって少し離れたところから本棚全体を眺めてみた。ファイルはもう何十冊にも増えていて、なかなか圧巻である。

「さて、次は誰の地図がここに収まることになるのやら」

 僕がゆっくりと隣室を出ると、どんと外から音が響いてきた。

 どうやら今年の打ち上げ花火が始まったようだ。


 僕は見えもしない花火を見るために、窓際に寄る。

 黒々とした山の向こう側が時折、赤や黄色の火花が弾けてうっすらと燃えた。その瞬間瞬間に散る火花が、まるで人の魂が砕けているようで、僕は少し薄ら寒く感じる。

「火花を刹那散らせ、か」

 微かに肩を竦めると、僕は窓のカーテンを閉めた。



おわり

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火花を刹那散らせ 夏村響 @nh3987y6

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