第6話
九月になり、僕は突然違う課へ異動になった。
隣の棟にある課が人材不足らしく、現場経験のある僕が必要らしい。あまりに突然の事だったが、会社勤めをしているとこういう事は避けられない。あと二週間で今の仕事の引継ぎをしなければならない。
ばたばたしていると、椎名さんに会った。
「いきなりだけれど来月から隣の課に異動になった。椎名さんにも色々お世話になったね、ありがとう」
簡潔に伝えた。いつもの明るい調子で返すと思ったら、彼女は暫く黙っていた。椎名さんの目が何かを語っているように感じたのは何故だろう。
黙っていたと感じたのは多分ほんの数秒だろう。すぐに彼女は「いきなりだね」とか「菊池さんがいなくなると大変だね」等と発言した。けれども彼女の本心は分からない。発言と表情がリンクしていないからだ。
四年間この課にいた愛着なのか、メンバーと離れる寂しさなのか。感傷的になっている事に自分でも少し驚いた。仕事をこなして、中にはちょっと仲良くなる奴もいてそれなりに愉しかったのだろう。
新しい課へ行く不安は、あまり無い。そこまでかけ離れた仕事では無いだろう。
○
十月になり、新しい課へ来たばかりの僕は社員の名前や仕事を覚える事で慌ただしく過ごした。
ひと月ほど経った頃、仕事上の気持ちに余裕が出てきた。
ふと椎名さんを思い出し、彼女以上の印象的な子がいない事に気づく。
椎名さんは髪型が個性的なのもあり、最初から目を引いた。茶髪やロングヘアの女性が多い中、椎名さんの黒髪は、まさに漆黒といえよう。形は、所謂おかっぱ頭だった。最初見た時はウィッグかと思う程、綺麗な形のおかっぱだった。
僕はこの時、日本女子古来の美しさというものに出会った気がした。
よく見ると顔立ちも可愛らしかったので、初めて話した時はちょっとドキドキしたものだ。
話した時のギャップにも驚いた。おとなしそうな黒髪の日本女子というイメージはすぐに吹き飛んだ。
○
会社にいる時、気づいたら椎名さんの事を思い出す時間が多くなっていた。本人に会わないせいか、僕の中で椎名さんのイメージはどんどん美化されていく。
それでも家に帰ると新婚の妻がいて、まだ慣れない結婚生活に気持ちの余裕はあんまり無い。
けれども時々空き時間に小説等を読んでいて、ふとした恋愛の描写を見かけるとつい椎名さんの事を思い出す程度に好意は持っているのだろう。
そこまでだ。
同じ課で一緒に仕事をして愉しい時間を過ごした事を時々反芻する。
○
暫くはライブに行かない事にした。もしライブハウスで椎名さんに会ってしまったら……久しぶりに会ったらきっと、話に花が咲くだろう。
そして椎名さんはきっと、更に美しくなっている。あのタイプの女性は、年を重ねるごとに内面からの美しさが出てくる筈だ。
全くの僕の想像だが、万が一土曜の夜にライブハウスで椎名さんと会ってしまったらその後どうなるだろう。
僕には新婚の妻がいる。披露宴は、上司にも出席してもらった。離婚などありえない事だ。僕はこの会社でまだまだ目指す地位がある。
波風の立たない普通の生活と人生がきっと一番、楽への近道なのだから。
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