第三話

 深い霧の中をあてどなく進む。木々に挟まれた陰鬱な山道、それも未舗装の細い道を何時間も歩いていてきた。大きく肩で喘ぐ。黒い泥がぬかるんでべっとりと靴に張り付く。その様がまるで血痕のようで、既視感と共にズキン、と頭に痛みが走る。


 フラッシュバックする惨劇。あれから何か月も経つというのに、脳というものは都合よく忘れさせてはくれないらしい。蘇るのは暴徒共に見つかった時のこと。抜け目なくレーダーや赤外線探知機を使用していた奴らにあっけなく見つかり、狙撃銃や果ては迫撃砲による弾幕。その威力は凄まじく。至近弾すら私たちの車に破損を与えた。やむなく車中から逃れた私たちは───。

 

 断続的な痛み。頭を押さえて蹲る。ぎりぎりと歯噛みしながら発作が収まるのを待つ。知らず荒れ始める呼吸を鎮める。白い吐息が現れては消えていく。やめよう、ここで過去を振り返って何になる。あの後さんざん泣きはらしたではないか。どのみち兄は死んだのだ。私一人で生きなければ。


 胸のペンダントを握りしめる。白金の縁取りにオパールがあしらわれた母からの贈り物。その中に収まるのは家族の写真。ほら、落ち着いてきた。もう大丈夫。足に力を込めて立ち上がる。歩く度にぬちゃぬちゃと嫌な音が立つ。


 靴下にまで湿り気が忍び込む。まずい。この冷気では放置すると凍傷になりかねない。どこかに家屋はないだろうか。寂れた山小屋でも構わない。気ばかり急くが、深い木立の中にあっては陽光も遮られ、足元も覚束ない。鬱蒼と生い茂る樹木の合間に建物の影を見つけ、重い足を引き摺ってその場所を目指す。


 やっと辿り着いたそこは、赤煉瓦の塀に囲まれ、鉄柵の門扉の奥にずっしりと身を横たえる洋館。天を突き刺す幾つもの尖塔が、亡霊のようにぼやけた輪郭を霧の中に浮かび上がらせる。半開きの錆びた金属の門を押し開けた。


 館までの一本道、霜の降りた石畳を踏みしめる。両脇の庭園には冬枯れの雑草が微風に揺られるばかり。飾り鋲の打ち付けられた重々しい扉まで辿り着き、黒い鉄製のドアノックを叩く。長い静寂にしびれを切らし無断で扉を引くと、ぎぃ、と音を立てて扉が開いた。


 誰も顔を出さない。内部に足を踏み入れたがやはり人の姿はなく。尤も、動作停止した家政婦ロボットが倒れて埃を被ってはいたが。これも核の電磁波で回路が狂ったに違いない。館の中は暗くじめじめしていて、歩くたびに床板が軋む。壁面や柱の塗装があちこちで剥がれ落ち、その破片が床に散乱していた。しばらく進むと暖炉のある部屋に至る。

 火が落ちて久しいのだろう、暖炉の焼け炭には厚く埃が積もるばかり。だが人一人疲れを癒すのに何の不都合があろう。ソファの埃を叩き払い、コートにくるまり身を横たえる。


 暖かな空気が頬に当たる。うっすらと瞳を開く。起き上がり改めて部屋を見回す。暖炉に炎、窓には暗緑色の厚手のカーテン、床には分厚い絨毯、燭台に蝋燭の炎。安楽椅子から身を起こす。私はまだ微睡の中にいるのか。


「ねえ、あなた誰?」


 幼い声。腰を屈めて私を覗き込む少女。随分と端正な顔立ち。金髪に青い瞳。陶磁器のような白い肌。まるで西洋人形のよう。年の頃は十くらい。


「勝手に入ってごめんなさい。無人だと思ったものだから。道に迷ったの。一晩泊めてくれる?」


 少女はふっと人差し指を顎に当てて考える素振りを見せた。


「私はいいけど…………お母さまに聞いてみないと」

「そうよね。今どちらに?」

少女は頷き、付いて来て、と言った。

「ところで、あなたの名前は? 私の名は──────」


 少女───マリアに連れられ、館の長い廊下を進む。


「お母様はね、長いこと臥せっておいでなの」

跳ねるように前を進む少女。廊下の窓に視線を移すとただ広大な灰色の、死の世界。

「外、寒い?」

私の視線に気づいて少女が問う。

「寒いよ。とても」


 身も心も凍り付きそうなくらいにね。心の中の呟きは少女に届かない。ふうん、と興味なさげに返したマリアは、廊下の最奥までスキップして振り返る。


「ここよ」


 ノックもせずにドアノブを回して開け放つ。部屋の中は真っ暗だが、ベッドに横たわる何者かの姿が朧に見える。


「ねえ、お母さま。お客様がいらしたわ。ご挨拶がしたいんですって」

「失礼します」


 部屋の中に進み、ベッドにいる誰かに頭を下げる。すえた臭いが漂う。歩み寄って膝を屈め、皺だらけの顔を見つめる。ほつれた髪には艶もなく。干乾びた唇。脱力しきったその手を握る。既に冷たい。恐らく、何日も前から。


「お母さま、なんて?」


 背後から覗き込む彼女に微笑を返す。


「少し休むって」


 そっとマリアの背中を押して部屋を出る。扉がガチャリと閉まる。ここは屍の檻。窓から差す灰色の光が私達を嘲笑う。


「ねえ、お外、寒い?」


 同じ問いを繰り返すマリア。子供らしく、外に出て遊びたいのだろう。だが。


「寒いわ。あんな所、駄目よ」


 見上げるマリアの目。大人の嘘を見破る子供の瞳。私もかつてはこんな目をしていたのか。思い出せない。


「私が一緒にいてあげるから、ね」


 嬉しそうにうん、と頷く少女の手を取る。


「ねえ、絵本読んで」

「いいわ。読んであげる」


 ソファに腰を下ろした私の膝の上にマリアが陣取る。軽い。

「────こうして眠り姫は、王子様と末永く幸せに過ごしました」


 頭を私の胸に預けたまま、すやすやと寝息を立てるマリア。今にも折れそうな腕。暖かで柔らかなその感触。


「お姫様は最初から言い付けを守れば良かったのに」


 眠る直前の少女の言葉。全くその通りね。眠り姫よ、どうか言い付けを守って。あなたの幸せのために。王子様はきっと来ないから。マリアをベッドに寝かせる。彼女の部屋には年頃の少女趣味の調度品で溢れていた。

 

 蝶よ花よと愛でられて育ったのだろう。時の流れから切り離されたようなこの空間で。しかしどこにだって現実はある。時代から完全に孤立することは出来ない。文明のもたらすものが繁栄でも、あるいは破滅でも。


 母親が枕元に残した小さな手記。こっそりと隠し持っていたそれを開く。それは少女の成長の記録。そこに垣間見えるのは母の愛、そして苦悩。神よ、なぜあなたは我らを見捨て給ひし?


 薪も蝋燭も、食料も。全て地下倉庫に膨大な量が蓄えられている。中世の自給自足を美徳とする人々はいつの世にもいて、この館もその拠点の一つ。しかしそれにも限界がある。科学技術なしに生きることは一つの理想かも知れぬが、理想で生きていけるほど人は強くなく。ここでも科学の恩恵が一つ。浄水装置を駆使して雨水を飲用水にまで滅菌濾過。よくここまで持ち堪えたけれど、あちこちに不具合があるようだ。


「何をしてるの?」


 浄水器はイオン交換フィルターとUV照射機、そして金属片探知機、急遽取り付けたらしいサーベイメータから成る。フィルターとUV照射機の交換と流水制御装置の点検。マリアに懇切丁寧に教えるが、困惑して私を見つめるばかり。年齢を考えれば仕方がない。私が来なければ、マリアは遠からず汚染水を飲むことになったろう。


「終わった?」


 首を振る私。


「外部タンクからの給水に異常があるみたい。給水パイプを交換しないといけない」

「お外に出るの?」

「ええ」


 言ってしまってはっとなる。目を輝かせるマリア。


「あなたは駄目よ。寒いから」


 むくれる少女を宥めすかす。必死になって説得した甲斐があった。少女は夕食のビーフシチューを交換条件にこちらの要請を承諾。いつの世も食べ物の威力は凄まじい。


 屋上に出る。一面塵と霜。放射線反射スーツを着込んでの作業。放射線はとっくに安全レベルに低下はしているけれど、油断はできない。バルブを閉めて流水を断ち、金属パイプを交換。作業中に白く冷たいものが降り始めた。ああ、この感触──────。


 兄が殺された時もこんな風に雪が舞っていた。ズキン、と頭に痛みが走り、スパナを取り落とす。兄の破裂した頭部。飛散した血液と脳漿。赤い液体が雪を染め上げる様子は途轍もなく冷酷で、なのにどこか綺麗で。呆然とする私。気が付いたら奴らに取り囲まれて──────。


「お姉ちゃん?」

声に振り向く。

「どうして──────」

外に出るなと言ったのに。なぜ…………。

「具合悪そうだったから」

少女は決まりが悪そうにもじもじと身をくねる。

「早く、戻りなさ────」

異変はすぐに起きた。突如両目を見開いた少女の全身に血管が浮かび上がり、筋肉が無造作に、無制御に緊張と弛緩を繰り返した。

「マリア!!」

彼女の体を抱えて館に飛び込む。いつしか彼女の名を叫び続けた。ごめん、ごめんなさい、マリア。こんなはずでは──────。


 少女の体は変貌し続けた。既に原型を留めぬ肉塊となり、骨格までもが変形して奇妙な唸り声をあげている。美しかった相貌は絵本で読んだ怪物のようで───。牙が生え、爪が伸び、肌の色までもくすんだ茶色となり。私に爪を立てようと追い縋る。時すでに遅し。


 マリア、許して…………。手にしたのは“奴ら”から奪ったレールガン。合衆国製の最新式護身用拳銃。奴らが恐らく基地跡から奪取したそれは、私の兄を吹き飛ばした凶器。後ろ腰に提げていたそれを、マリアだったそれに向ける。


「ごめん、マリア」


 あなたのためには死ねない。あなたに誰かを殺させはしない。引き金を引く。ドガン、と空気を揺るがす独特の低い発砲音。青と赤の入り混じった稲妻のような閃光。反動で後ろに倒れながらも、狙いは外れず。胸部を撃ち抜かれたマリアは上体を吹き飛ばされて倒れた。後には肉片が蠢くのみ。


 母親の手記に残されていたのは、マリアの体質。紫外線アレルギー。そして変異特性。核戦争後に頻繁に見られる症状の一つ。紫外線への暴露を避けさえすれば免れうる、突発型の劇症性遺伝子変異。


 変異した“元”人間は、獰猛な本能に従いひたすら血肉を求め続ける。厄介なのはそれが生物全般にも見られる症状であったことだ。鼠やカラスは勿論、昆虫ですら狂暴化して人を襲う。あの時も、私を犯そうと圧し掛かっていたスキンヘッドの男が突如変異を始め、混乱に陥った暴徒集団からこの銃を奪い逃げ出した。奴らのその後など知らない。


 マリアだった肉塊を集め、彼女のドレスを着せて母親の隣に寝かせる。部屋に火を放つと炎は瞬く間に燃え広がり、全てを包み込んでいく。濛々と沸き立つ黒煙。門外からその様を見守る。意図せずして漏れる呟き。


 眠り姫よ、安らかにお眠り。誰も妨げはしないから。

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遥か灰燼のアルカディア Gorgom13 @gorgom13

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