第14話 吉乃御殿に怪しい影
三河のタヌキは、吉五郎に負けたことを家康にちゃんと報告しただろうか。いや、獣のことゆえ、そのままどこかの山にかくれてしまったかもしれない。
信長は、とにかく礼状だけは家康に出しておいた。
勝負の次第については、すでに諸国へ知れわたっていた。家康もタヌキが負けたことを知っているはずだが、きまりがわるいのか、なんの連絡もよこしてこなかった。
いっぽう小牧の城下町は、キツネとタヌキの派手な一戦でまたも評判になり、いっそうのにぎわいを見せるようになった。
戦いの場をひと目見ようと近在の衆や旅の衆が、引きも切らず押し寄せ、キツネやタヌキの置物、吉五郎のお守りや絵などが飛ぶように売れた。
どの店も、それまで以上に華々しく、きらびやかな品物が所せましと並べられ、どの通りも人でごった返していた。すべて吉五郎のおかげである。
そんな小牧の町のにぎわいを背に、信長は美濃攻略に明け暮れる毎日だった。
どこから攻めても美濃方の守りは固く、斎藤
いくさをくりかえすあいだにも、信長は家来衆の住まいや馬場の整備などを続けていた。そのなかに、信長が完成をひそかに心待ちにしていた
吉乃は信長の三人の子の母である。信長にとっても子どもたちにとっても、かけがえのない存在だった。早く小牧山にむかえたかったが、いくさや町つくりで思うままにならず、月日がいたずらに過ぎていた。
水も風もあたたかくゆるみ、
さっそく信長は吉乃の生家へ馬を飛ばした。
「吉乃! 迎えにまいったぞ。小牧山へまいれ」
そのとき、折り悪く吉乃は体をこわし、寝たり起きたりの状態だった。小牧までの道のりを歩くなどとてもできなかった。しかし信長は一刻も早く吉乃を小牧に迎えたかったので、
吉乃は小牧山城の御殿に入り、信長や子どもたちのそば近く、養生しながら満ち足りた日々をすごすことになった。信長も、吉乃を城にむかえることができ、戦いに明け暮れる日々のなか、生涯はじめての安らぎをおぼえるのだった。
小牧山とその城下町は、やかましくにぎやかながら、穏やかで静かなひとときを迎えていた。町衆も家来衆も信長も、そして吉五郎もふっとひと息ついた。
だが、その平穏を乱す、みょうなうわさが城内で交わされるようになった。ほかならぬ吉乃の御殿に、
御殿の庭先に、夜になるとまっ黒い影があらわれる。影はズシ、ズシと重そうに庭を歩きまわり、そして、吉乃の部屋へ消えていく。うわさはそう伝えていた。
「なにを、ばかな」
信長はうわさなど気にかけなかったが、吉乃の身が心配で、ほとんど毎日、吉乃の部屋に足を運んだ。
「吉乃、なにも変わりはないか」
「はい」と答えながら吉乃は目をふせた。なにやら、かくしているようなそぶりである。
「そうか。変わりないか。それならよい」
しかし信長はあやしんで、伝助に言いつけて吉乃のやかたを夜どおし見張らせることにした。
「殿、やはり、あらわれましてございます」
伝助によると、それは夜もだいぶふけたころ、庭に、夜より暗い影が、地面からわいてくるように出たという。
伝助は門のかげにかくれて、それを見ていた。
熊のようにまっ黒だったが、すがた形はよく見ると武者のようだった。まるで落ち武者のごとく、頭や肩のあたりに折れた矢羽が突き刺さって見えた。
武者はゆっくりと庭をまわり、やがて立ちどまって吉乃の部屋のほうへ顔を向け、小さくうなずいて足を進めた。その重そうな足が縁先の踏み石にかかったとき、武者はふっとかき消えたのだという。
「わたくし、よほど吉乃さまのお部屋にふみこもうかと思いましたが、出すぎたことと思い直し、ようすを見るにとどめましてございます」
「それでよい。ごくろうであった」
信長は、その武者のような影の正体に見当をつけていた。それを確かめるべく、その夜、自ら出向いて吉乃御殿の門に身をかくし、庭を見張った。
深夜に近いころ、庭のすみに黒い影がわいてきた。まっ黒なその影は、すっくと立ちあがって歩きだした。
伝助が言っていたように武者だ。信長はなんら恐れることなく庭に踏み入った。
「おい、きさま! 止まれ!」
信長の声に黒い影はビクッと肩のあたりをふるわせ、動きを止めた。
「きさま、吉五郎であろう!」
影はふりかえって信長を見た。そのとたん、がくんと頭を垂れ、凍りついたように動かなくなった。
「やはり、そうであったか。吉五郎、いたずらがすぎるぞ。このたびは見逃してやるによって早々に立ち去れい。こんどあらわれたら、ただではおかぬぞ。よいな!」
信長がまくしたてると、影は足のあたりから、すーっと消えていった。
次の夜からは、伝助に命じて交代で見張り番を立てるようにした。
影はその後の数日、あらわれることはなかった。もうだいじょうぶだろうと見張りをやめさせようとしたころ、影はまたあらわれた。
影は最初、見張りがいることに気づくと、そのまま土のなかへ消えていった。だが、何度か土から顔を出すうち、見張りが信長ではないと気づいたからか、元のようにゆうゆうと土から全身をあらわしたのだった。そして以前と同じく、吉乃の部屋の前まで行き、縁先の踏み石に足をかけるや、そこで消えた。
その報告を聞いた信長は烈火のごとく怒った。
「伝助を呼べ!」
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