信長を化かしたキツネ ~小牧山吉五郎伝
すのへ
第1話 吉五郎、山をおりる
時は戦国時代。
尾張平野のまんなかに、こんもりとした小山があった。
東西に長く、東のほうに山頂があり、西にむかってなだらかに下っていた。ちょっと見には、古墳のようにも、ひょうたん島のようにも見えた。山全体を木々がおおい、四季おりおりのすがたが美しかった。
はるかな昔には人も住み、木の実の採集や狩りなどで暮らした。時が下って稲作がさかんになると、人々は田をたがやすため、里におりて生活するようになった。
いまや人影はなく、ときどき猟師がこそりと入ってくるだけだった。
こそりと。
そう。音もたてずに、おどおどと。
イノシシやシカなど、えものを見つけたら、さっさと仕留めて、かついで走る。いそいで逃げないと、ひどいめにあうからだ。
この小さな山には、人にかわって、ここを代々のすみかとしてきたものがあった。
それこそ、猟師がおそれるキツネである。
キツネは古来より神のつかいとされ、とくべつな力をもっている。なかでもこの山のキツネは気が荒く、力もすぐれていた。そのすみかに侵入した者は、見つかったら、まず、ぶじに下山することはできない。えものをとりあげられたうえ、こっひどく化かされるのだ。
里人たちはここのキツネのことを『吉五郎』と呼びならわしていた。
「吉五郎にえりゃあ化かされてまってよお」
「いかんわぁ、吉五郎に見つかってまったで」
いのちまでとられることはないが、気も狂わんばかりの目に遭わされ、その恐ろしさにキツネの力を思い知り、もう二どと山に足を踏み入れまいと、だれもがふるえながら心に誓うのだった。
そんな恐ろしいキツネだが、神さまのつかいとされるだけあって、静かな暮らしを好んだ。猟師を化かすのも、平穏な生活を乱されることをきらうからだ。
だが、いまは戦国時代。ここにも四方八方から、あらそいの喧騒が風にのって聞こえてくる。何千本もの矢が空気を切りさく音、鉄砲のパンパンいう音、刀や槍がぶつかりあう音、大地がふみならされる音、人や馬がたおれる音、どれもキツネたちが嫌う音である。
ときおり血なまぐさいにおいや火薬のにおい、焼けた家々のこげくさいにおいなども運ばれてきて、それぞれの季節の花々の香りを台なしにした。
幸い、この山が戦場になることはなかった。
しかし、ある日のこと。キツネたちが山のてっぺんにあつまった。
そのまんなかに、ひときわめだつ美しいキツネ。大きなからだ、黄金色の毛なみ、するどい目、しなやかな身のこなし。どれをとってもほかのキツネとはちがう。
これこそキツネの親分、『吉五郎』である。
『吉五郎』という名はこのころには、その時代のキツネの親分を指すようになっていた。
当代の吉五郎は化けるのがうまく、なかでも人に、それも
吉五郎はときおり里におりては人のうわさを探っていたのだが、そのとき使うのがこの美女子化けだった。里人は目をうばわれ、思わず警戒心がうすれる。そこにつけこんで人の世の警戒すべき動きを知ったのだ。
その吉五郎が、山のてっぺんから南南西の方角をじっとにらんでいる。その視線の先には、土けむりをもうもうと立てながらやって来る者たちがあった。
織田信長の家来衆である。
織田信長は三年ほど前、桶狭間で今川義元をやぶって大いに名をあげた武将だ。もう尾張にほとんど敵はいない。越後の上杉謙信や甲斐の武田信玄のように地元でどっしりとかまえ、領地を守って暮らすこともできたのだが、この信長の心はもっと大きな世界をもとめていた。
その信長が清洲の城をひきはらい、ここへ引っ越してくる。吉五郎はとくいの美女子化けによる探りで、それを知った。
家来衆はこの山に城を築くよう命じられている。武将たちのすまいや道もつくるらしい。そのために木々が切りたおされ、草もかられるだろう。
たくさんの人馬に小さな山が占領される。もうキツネは住めない。
吉五郎の決断は早かった。さっと尾をひるがえし、なかまをひきつれ、山の北へおりていった。
北のふもとからつづく沼地をぬけて荒れた草の原に立ち、キツネたちは山を見あげた。うっそうとしげる緑の美しい山は、まもなくはだかにされるだろう。
吉五郎は歯がみして、ものすごい目で山をにらみつけた。その目は、そこに近々あらわれる信長をはじめとする武将たちを見すえていた。
吉五郎は山をすてたのではない。ふたたび山をとりもどし、なかまと静かに暮らす、そのためのたたかいを、いま、はじめようとしていたのだ。
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