第5話

「――――ん……」

「お。起きたか」

 男の声に、明花は跳ね起きた。

「え、なに、なんで寝てた!? ここどこ!?」

 頭が混乱する。見覚えのない薄暗いへやだった。しかも覗き込んできた見知らぬ男にぎょっとする。

「誰!?」

「あーなんだ……さっきは悪かったな。こっちのかん違いだった。すまん」

 バツ悪そうに謝られて思いだした。亭内に入ったとたん、背後から襲われたのだった。

「か、かん違いってあなたねえ……!」

 反射的に言い返そうとして留まった。相手をまじまじと見つめる。

 年の頃は二十歳前後。荒々しさを感じさせる、けれども優美な容貌だった。目もとがはっとするほどに艶っぽく見えるのは、角度によって赤琥珀にもみえる神秘的な瞳のせいだろうか。

 なんだか性を取り払われた内侍にしては男らしい感じがするが、美しいのも内侍の特徴だ。

 見習い宮女に対しても砕けた雰囲気で接してくるということは、きっと品階のない下級官にちがいないと思う。

 ただ、奇妙なのは彼の服装だった。なぜか内侍をしめす官服を着ておらず、官服の中に着る中着と袴だけを身に着けていた。髪などなにも被らず長い髪をそのままおろしている。なかなか非常識な人のようだった。

 とりあえず高官でなくてよかったとほっとして、はたと気がつく。

「あ! そうだ、ノリゲ! あなた公主さまのノリゲ持ってなかった!?」

「ん、ああこれか?」

 彼がふところから取り出した房飾りに、どっと安堵あんどが押しよせた。金の蝶、まちがいない。

「よかった、これで……って、え、なんでびちゃびちゃなの!? しかも翡翠ひすいがなくなってる!」

 天から地へと落された気分だった。公主が大切にしていた母親の形見は水にぬれ、結び目が一部ほつれて翡翠の飾りが失われていた。

「どうしてこんなことに……」

「誰かが池に捨てるところを見た。拾ってはみたが、この状態では……。かえって失くしたままにしておいた方がいいかもしれんぞ」

 そんな、と思う。

 受けとったノリゲをしばらく見つめてから、明花は大事に巾着きんちゃくへとしまい入れた。

「直してみるわ。せめて房だけでも元どおりにしてからお返しする」

「直すって……あぁ、おまえ針房チムバンの見習いか」

 彼は納得したように明花ミョンファの身なりを確認する。衣服は見習いの物、そして髪型は至密チミル針房チムバン繍房スバンの見習い宮女のみが許された左右二本の三つ編みだ。

 身分と所属をお披露目しながら歩いているのと一緒で、説明の手間が省けていい。

「しかしずっと怪しげな動きをしていると思っていたが、そうかこれをさがしていたのか」

「怪しげとは失礼ね。私の他にも捜索そうさくにあたってた宮女はいっぱいいたでしょ」

「植木に頭をつっ込んで這い回るような宮女はいなかったな。それに他はもうとうにあきらめて帰った」

 青年は呆れたように笑い、明花の首筋に手をのばす。

 びくりとしたけれど、どうやら髪に絡んでいた葉っぱを取ってくれたようだった。

「あ、ありがとう。……ところで一応聞いておきたいんだけど、夜鐘ってもう鳴ったかしら」

「とっくにな。針房尚宮チムバンサングンに怒られるか?」

「まあ、過ぎちゃったものはしょうがないわ。まだやることもあるし」

「やること?」

 明花は近くに置かれていた燭を手に取り、彼の衣服を照らし出した。

「……やっぱり。ごめんなさい、あなたの衣、さっきやぶってしまったみたい。直させてくれる?」

 かん違いとやらで捕らえられ暴れたとき、そんな手ごたえがあったのだ。あのときはこちらも必死だったとはいえ、絹の衣服を損なうだなんて申しわけなさすぎる。下級官にはよほど高かっただろうに。

「いやこれは自業自得ってやつなんだが、まあいいか。頼む」

 彼は怒ることもなく、脱いで無造作に投げてよこす。

 裁縫具を取り出すと、明花は衣のやぶれをつくろい始めた。

 きっと朴尚宮は帰りの遅い明花をかんかんに怒っているだろう。けれど朴尚宮パクサングンの世話をする宮女なら他にもじゅうぶんいるし、いつも彼女たちのぶんも仕事をこなしているのだから、たまにくらいは許してもらおう。どうせむちを受けることにかわりはないのだから。

(よし、もうこうなったらやぶれるまえよりもずっと丈夫にしてやるわ。だいたいちょっともみ合ったくらいで袖が取れかけちゃうなんて縫製ほうせい甘すぎ!) 

 やけくそのようにていねいに縫う。彼は針と明花の顔とを交互に見やった。

「しかしおまえ、なんか見覚えがあるような無いような顔をしているな」

「それってどっちなのよ。まあでもおなじく内廷で働いてるんだし、見かけた事くらいは無きにしも非ずかもね」

 と言いつつ、明花には彼を見た記憶は皆無だ。こんな変わり者なら見かけただけにしても覚えていそうなものだと思う。

 しかし彼は記憶を探るような目で明花の顔をじっと眺める。「いや、そうか。やはり……」などとこぼすものだから、だんだん不安になった。

「名前は?」

「……明花ミョンファだけど」

 恐る恐る名乗る。

……?」

「あの……私が忘れてるだけで、まえに会ったことあった?」

 こちらが忘れていただけなら申しわけない。

 そう思って尋ねたが、「いや無い」と彼はきっぱりと否定した。人違いか。拍子抜けの気分だ。

 彼の方もくつろいだ雰囲気に戻り、胡坐に肘をついた。

「しかし李明花、針房チムバンの見習いなら苦労をしているだろう。あそこは見習いいびりで有名だからな」

 明花は答えに迷って首をかしげる。

 確かに朴尚宮パクサングンは厳しい。必要以上にいびられているという自覚だってある。

 しかし明花が王宮入りする前の貧しさやひもじさに比べたら、王宮の中は別世界だ。この程度を苦労と言ったら王宮の外で暮らす家族に申しわけない気もする。

 それを言うと、彼は少しだけ真剣な顔を見せた。

「家族か……。ところで、おまえはなぜ王宮に入った?」

「そんなの、内侍メシと大して事情は変わらないわ。家のためよ。貧乏だったから」

 特別おもしろい話でもないが、時間つぶしにくらいはなるだろうか。

 明花は手を止めることなく、かいつまんで語った。

「うちね、私が一、二歳くらいまでは正真正銘の両班ヤンバンだったのよ」

 両班ヤンバンだった――つまり過去形で今はちがう。

 明花の家の身分が特権階級の両班から常人へと落とされたのは、物心つくよりまえのことだった。

「じいさまが掌苑署しょうえんしょの正六品、父さまが宗簿そうぼの従六品。高官ではなかったけど、それより前の代もずっと官吏かんりを輩出してきたの」

 掌苑署しょうえんしょは宮中の園を管理清掃する衙門やくしょ。宗簿寺は王室の族譜かけいずを記録する衙門だ。

「でもじいさまが落馬事故で亡くなってから、ガタガタっと来ちゃってね。父さまが……じいさまを深く敬愛していたという父さまが、その死を受け入れられなかったのよ」

 父はおかしくなった。

 敬愛する祖父を生き返らせるとわめくようになり、あやしげな呪術師にたよって散財し、持っていた土地まで売り払ってしまった。呪術の道具を手に入れるためと言って遠出することも多くなり、朝廷への出仕をおろそかにして職を解かれた。

 両班は自分の家庭だけでなく、親戚まで養わなくてはならない。土地も俸禄もなくなり、いっきに困窮した。

 生活はとうぜん維持できず、父が金のために顔見知りの官吏に詐欺を働いたことでついに常人へと身分を落とされてしまったのだ。

「家が没落したことを母も嘆いてた。代々の両班が小作農になってしまうなんて、父さまを支えきれなくてご先祖さまたちに申しわけないって。こんな不孝なことはないって」

「母君は、父君の事をなんと?」

 明花は首をふる。

「母さまは父さまになにも言わなかったわ。貞淑だったとかじゃないのよ? 父さまはそれはとても立派な官吏だったんですって。だから信じてついて行くって」

「……そうか」

「それにまだ希望があったの。うちにはね、弟がいたのよ。科挙はムリでも武科ならなんとかなる。弟が将来武官になればお家再興、じいさまや父さま、ご先祖への孝行となるわ」

 青年はとても真剣な顔で明花の話に聞き入っており、その一言一句逃さないとでもいうような真摯さには驚いた。

 正直、そんなめずらしい話でもないのに変な人だと思う。喜劇としては笑えないし、小作農として生活できていたのだから悲劇にするにはぬるすぎる。

「――そうか……」

 青年は口もとをおさえ、なにごとかをぶつぶつとつぶやいたが聞こえない。目で問い返したが、彼はなんでもないと首をふった。

 怪訝に思いながらも話を締める。もう服のやぶれも縫いあがる。

「ま、そういうことよ。だから早く出世して早くバリバリ仕送りしなくちゃいけないの。なんだかうまくいかないんだけど」

 今もまさにそうだ。朴尚宮に気に入られれば早めに見習いを卒業できるとわかっていながら、けっきょく門限を堂々とやぶっている。性格だからしかたないとはいえ、本当になかなかうまくいかない。

「よし、終わりっと。できたわよ」

 縫い目を確認した彼は「ありがとな」と言って笑った。

「借り物だから助かる」

「借り物って、そもそもあなたね、官服はどうしたのよ。そんな格好でうろうろしていたらさすがに懲罰の対象になるわよ?」

「俺の官服?」

 彼は突如、ものすごく悪い笑みを浮かべた。

「な、なによ」

「おまえの下」

 いったいなんだと警戒しながら下を見て、あまりの衝撃にめまいがした。

 数拍硬直したのち、飛び退って床に額をこすりつける。

「――た、たいへん申し訳ございませんでした、令監ヨンガム

!」

 やってしまった。完全に。全身から冷や汗が噴きだした。

 令監とは従二品と正三品の堂上官を呼ぶ言葉だ。というのも明花がずっと敷物として座っていたのがまさに彼の官服だったのだ。

 上質な絹でつくられた黒の細袖に、紫を基調とした袖なしの戦服チョンボク。ひと目でわかる王の親衛隊の軍服クンボクだ。しかも肩と帯が赤地、つけられた帯に金糸で飾られているのは二匹の虎――親衛隊最高位である将だとわかる。

(ど、どどどどうしようどうしようっっ!? まぎれもなく正三品堂上官! タメ口叩いた上に内侍だなんて言っちゃたああああ!!)

 罰せられる。罰せられる。出世どころかすべてが終わった。

 顔面蒼白になる明花をみて、親衛隊将は肩をゆらして笑った。

「はっはっは、おまえおもしろいな!」

「おもしろいどころか卑しくつまらぬ者でございます! どうかおゆるしを!」

「まあ、そうかしこまるなよ。堅苦しいのは苦手だ」

 ひょいっと腕を取られて立たされる。

 向き合った彼は頭ひとつぶん明花よりも背が高い。細身ではあるがひょろ長いという感じはしなかった。しなやかな獣を思わせる。

 明花は彼の言葉を鵜呑みにしていいものか、すこし迷った。

(……でもまあ、無礼を咎めるくらいならとっくに罰せられてる、ような気も……?)

 明花はひとまず、敷物にしていた軍服を拾いあげてほこりを払った。

「……お返しします。ありがとうございました、ってあああっ! 官服も破れてる! 今すぐ直しますのでどうかご容赦いただけないでしょうか……!」

「だからかしこまるなって言っただろ。肩がこるし疲れるんだ、やめてくれ」

 超速で官服を縫う。いまだかつてない正確さと速さで仕上げると、ほっと息をついた。

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