第2話 【後苑の出会い】

大陸の半島に位置する太伯テベク国の緑深き王都神陽シニャン

 自然と調和するように建てられたその荘厳なる王宮の片隅で、ひとりの少女が倒れていた。場所は内廷とよばれる王や王室の人びとの生活区域である。

「…………うぅ」

 ふらりと身を起こした少女が身にまとうのは、浅葱色のシニャンに退紅色の上衣チョゴリ。染めが薄い衣服は身分が低い証しだ。彼女はこの太陽宮テヤングンの見習い宮女だった。名前を明花ミョンファという。

「ご、ごはん……ごはん食べたい……」

 噛みしめるように言う。どうせ噛みしめるなら言葉でなく、ほかほかのごはんをしっかりじっくり噛みしめたかった。もう三日はまともな食べ物を口にしていないのだ。

 病気で食欲がないならともかく、健康でなおかつ働きながらこれではとても体が持たないと思う。

「遅い! どこほっつき歩いてたんだい!」

 明花が見習いとして所属する部署、王室の衣装や寝具を仕立てる針房チムバンへとたどり着くと、上司である針房チムバン尚宮サングンパク氏が仁王立ちで出迎えた。

「すみません、媽媽任ママニム!」

 媽媽任は宮中で尚宮の地位にある宮女への尊称だ。

「ちゃんと公主さまの採寸を終えてきたんだろうね?」

「はい。前回よりももう大きくなっておいででした」

「じゃあさっさと仕事にかかりな! ああ明花ミョンファ、そのまえに足だね」

 出しな、と言われて明花はしかたなく裳を引きあげてふくらはぎを露出した。鞭だ。竹製のよくしなる鞭で遅刻のお仕置きをされるのだ。

 ちょっと納得がいかない、と明花は心の中で思った。

 明花だって遅刻したくてしたわけではない。今年五歳になる幼い公主は育ち盛りなので頻繁に採寸にうかがわなくてはならないのだが、この広大な内廷において公主が住まう殿というのがまずやたらに遠い。

 人の目があるところはしずしずと歩き、誰もいなくなったら走るという褒められない裏技をつかっても、サッと行ってサッと戻ってこられる距離ではなかった。

 加えて、極度の空腹である。

 これは不可抗力だ。下働きの雑仕女ムスリとちがって宮女には食事も出てはいるのだが、この三日、明花の食事は針房尚宮チムバンサングンによって抜かれていた。おかげで途中、なんどかふらりと足もとがおぼつかなくなってしまったのだ。

 朴尚宮が鞭をふりあげたのか、まわりにいた宮女たちが息をつめた。彼女の鞭がとにかく痛くて執拗だということは周知の事実だ。明花もぐっと歯を食いしばる。

(ああ! どうせならこんな事じゃなくて、おいしいものを食べるために顎に力入れたい! 干し肉とか、干し肉とか、干し肉とか! まったくもって顎のムダ遣い! おなか空いたあ!)

 痛みよりも空腹で涙が出た。



 結局足はひどいミミズ腫れになった。

 冷やす間もなく、幼い公主の新たな衣を仕立てる作業に入る。

「アンタ立ち回りだけはどうやってもヘタだねえ、裁断と縫製はこんなに正確なのにねえ」

 作業に没頭していたところ、手もとをのぞきこんできたのは桃色の上衣に青い裳をまとった内人とよばれる先輩宮女たちだった。

「そりゃあ正確にもなるさ。この子ほど早く起きて縫製の手習いしてるのはいないもの」

「道具の手入れだってこまめにしてるよ。えらいえらい」

 ありがとうございます、と答えようか明花は迷った。かん違いしてはいけない。普段通りに考えれば、彼女たちは明花を褒めようとしているわけではないはずなのだ。

 予想通り、彼女たちは「でもねえ」と言っていっせいに顔を見あわせ薄く嘲笑う。

「よりによって公主さまに気に入られちまうなんて、ほんとバカだねえ」

「宮女の基本がなってないね。〝泥船には乗らない〟」

「沈む船に乗ったせいで、目をつけられちゃうなんて愚かなこと」

「――そんな言いかた、公主さまに失礼では?」

 明花は思わず声をあげてしまった。

 内心で、こういうところがまさに「立ち回りがヘタ」なところなのだろうなと思う。

 でも自分のことならともかく、幼い公主を悪く言われて黙ってはいられなかった。

 王宮の西、よう堂に住む公主は夭逝された先代王が残されたひとり娘だ。

 宮中で後ろ盾となるはずの母妃もすでに亡くし、しかも新王は遠方に住んでいた王族から選ばれたためにつながりが薄く、公主の宮中での立場は非常に弱かった。

 まだ五歳になろうかという年齢であるのに、近いうちに降嫁という形で王宮を出されるという噂があり、かなりの真実味を帯びていることも確かだった。

 だがそれにしたって、言っていいことと悪いことがあるとは思わないのだろうか。

「泥船だの沈むだの、撤回してください」

「なんだい、公主さまに言いつける気かい?」

「そんなことしません。撤回をお願いしているんです」

 明花がいくら訴えても、内人たちは嘲りの姿勢を崩さなかった。くつくつと肩をゆらして忍び笑い、内人どうしで意味ありげに視線をかわしあう。

「アンタほんと愚かねえ。見習い宮女があたしたち内人をどうにかできるとでも? バカやってないで、ほうらあたしたちのぶんもきれいに仕立てておきな」

 はじめからそうするつもりだったのだろう、内人たちはそれぞれの仕事を明花に押しつけ、へやを出て行ったのだった。

 任せられた膨大な仕事量に半目になる。

 これはもしや、今晩の食事に間にあわないというやつではないだろうか。

「うぅ、ごはん……わたしのごはん」

 おなかの音はもう鳴らなくなった。それでもやっぱりおなかは空いていて、なにか食べたい、噛みたい、のみこみたい味わいたいという欲求は強くなる。人一倍食べものへの執着が強い自信があるのにこんなの拷問だ。

「代わりに水ばっか飲んでたらおなか下ったし……あぁもうっっ! 見てなさいよ、ぜったいぜったい出世してやるんだから――――っ!!!」

 猛然と作業の手を動かしながら、たまりかねて明花は叫んだ。

「見習い卒業して内人になったらスッゴイ服仕立ててズンドコズンドコ階級駆けあがってやるぅ! そしたら山のような仕送りを実家におくって自分ももうこれでもかってくらいごはんたらふく食べてやるんだから!」

「ねえ、その昇格できるスッゴイ服ってどんなもの?」

 訊き返す声に驚いて、明花は勢いよくふり返った。

 いつのまにかへやの入り口には可憐な少女が立っている。部署はちがうがかつておなじ日に王宮入りした見習い宮女だった。

 針房の内人でなかったことにまずホッと胸をなで下ろす。

美成ミソン! そうね……王妃さまの唐衣タンイとか」

 現在王妃の座は空位のままだが、その頃には必ず埋まっているはずだ。

 王の妃となるくらいだから、きっと美しい深窓のご令嬢がやってくるだろう。聡明そうな美人なら大胆に吉祥文字を織りこんだ絹で仕立ててもいいし、美成のような愛らしい顔立ちの女性なら、季節の花に合わせた色の絹に花影を縫ってもいい。

「刺繍を担当する繍房スバンと相談して、風でふくらむやわらかな裳に……あ! でも昇格に絡むなら寝具のほうがいいかも。殿下との愛が深まるように、媚香を焚きこめた愛の寝具を贈るなんてどう!」

 殿下とは王のことだ。西に君臨する大帝国の皇帝にはばかって、太伯国では王を陛下ではなく殿下とお呼びする。

「明花、それちょっと引く。でもたしかにそれでお子ができたら昇格はしそうかしら。その頃には私も至密チミルの内人になっているから、あなたの案をうまくうちの媽媽任ママニムに取り持ってあげてもいいわよ」

 美成が所属する至密は、王や王妃の寝殿ではたらく最も格式高い部署だ。美成はなかでも王の寝殿のお世話をする至密内人の見習いだった。

「ヤッタ――! ありがとう美成、持つべきものは至密の友ね!」

 明花がむぎゅっと抱きつくと、美成はうっとうしげにそれを引き剥がした。

「なに言ってるの。最終的にはあなたの裁縫の腕が悪ければ採用されないのよ。でも一番大事なのはまず上司に好かれる事ね。いくら腕がよくたって上司に睨まれていたら出世もなにもムリってものよ」

「ぐうの音も出ません……」

「ところで明花、朴尚宮はどこ?」

 美成はがらんとした針房の中をきょろきょろとする。

「さっき内殿に行ったけど……って、あっ、もしかして仕上がり予定だった殿下の寝間着を取りに来たの? さっき媽媽任が自分で届けるって持ってったんだけど」

「えぇ!? 取りに行くって言ってあったのに」

 美成は春の花のようなかんばせを軽くしかめた。本当にかわいい子というのはどんな表情をしても様になるんだなあとつくづく感心する。

「もう、朴尚宮ってばほんと野心家よね。なんとか王室に取り入ろうと必死であきれてしまうわ。大王大妃さまに見向きもされないもんだから、まだ宮廷に馴染めない殿下に標的を変えたのね!」

 尚宮といえば手に職を持つ宮女としては最高位だが、そのなかでも王室の覚えめでたい者ほど影の権力がある。現在だと大王大妃の身辺に侍る至密尚宮チミルサングンが内廷で力を誇っており、朴尚宮はそれにあこがれているらしい。

 寝殿に戻ろうと身をひるがえしかけた美成は、ふと思いだしたように立ち止まり、懐から手巾の包みを取り出した。

「これ、食べていいわよ」

「うそ、ご、胡麻菓子!?」

「王はあまり食に熱心な方ではなくてね、よく残されるのよ。私はきのうも食べたからあげるわ」

 少し得意げに言う美成が女神に見えた。菓子なんて贅沢な物は、王室の方々から下賜されないかぎり口にする機会はない。それをきのうも食べたなんて、やっぱり至密はすごいなあと思う。

「ありがとう美成!」

「まあね。じゃあ私はもう行くけど、頑張りなさいね。朴尚宮のやり方は好きじゃないけれど、あなたは少し見習った方がいいのかもしれないわ。あなたの出世欲も食欲も人一倍強いってことは知ってるけど、もっと正しい形での努力は必要よ。公主さまに懐かれて、そのせいで上司に睨まれちゃうなんてのは下策の下策。公主さまとのつき合いはすぐに終わるけど、上司や先輩たちとのつき合いは今後ほぼ一生つづくのよ。女の嫉妬は怖いんだから気をつけなさい」

「下策って、懐かれようと思ってなにかしたわけじゃないんだけど……」

 以前、内人とともに採寸にうかがった時、昼寝で怖い夢を見たとかで公主が大泣きをしていた。亡き母君を呼びつづける様子があまりにも稚くてかわいそうで、明花は即席で巾着を縫って差しあげたのだ。お付きの宮女が公主はツバメが好きだと言うから、そのヒナを模してくちばしと小さな翼や尾もつけてみたところ、見事に泣き止んだ。

 たったそれだけのことだったのだが、なぜかすっかり懐かれてしまったのだ。泣き止ませようとはしたが取り入ろうとしたわけじゃない。

 以来ちょっとした絹地などを下賜されるようになって、野心家でありながら王族に見向きもされない朴尚宮としてはおもしろくないのか、なにか事あるたびに強く当たられるようになってしまった。

 もともと見習いいびりの厳しい人だったけれど、それが増し増し大増量中である。

「どうせあなたのことだから公主さまに懐かれて悪い気もしてないんだろうけど、実家、お金に困ってるんじゃないの? 内人として認められるのは入宮して十五年目だなんて言うけれど、実際には上司の推薦で早く認められてる子たちだってたくさんいるじゃない。あなただって早く内人になってたくさん仕送りしたいでしょう?」

「うん」

 美成は、だから公主とはうまく縁を切れと言外に告げて去って行った。

 そしてやはり、この日も食事にありつくことはできなかったのだった。


***


「みょんは、みょんは、こっちです」

「ミョンファです。公主さま」

 公主さまの背は明花の腰あたりまでしかないのに、なかなか足が速い。

 息を切らし、空腹のせいで意識を飛び飛びにしながらようやく追いつくと、公主さまはつま先立ちで露葉堂の軒先を見上げていた。視線の先にあるのはツバメの巣だ。

「みてくださいみょんは、ヒナがとってもおっきくなったんです」

「わあ、本当ですね!」

 以前見に来たときにはただ口を大きく開けてエサをねだるだけだったのが、いまでは巣のふちに立ったり羽をばたつかせてみたりとすっかり大きく成長していた。

「もうすぐ巣立ちですね」

「たのしみだけれど、すこしさみしいです。ヒナもすだつし、みょんはもなかなかあえなくなるのでしょ?」

「そうですね……今てんてこ舞いの忙しさなんです。なにせもうじき『揀擇カンテク』が行われますから、仕立てなくちゃならない衣装が山ほどで」

 『揀擇カンテク』とは、王室に妃賓をむかえるための選抜試験のことだ。

 国民の身分は大きく分けて四つ、上から両班ヤンバン中人チュイン常人サンイン賤民チョンミンに分かれているのだが、対象となるのはこのうち両班と呼ばれる士族の適齢期にある国内すべての娘だ。

 先代の十四代王は若くして崩御されたため世継ぎ(世子セジャと呼ばれる)がおらず、しかも近縁にふさわしい男子がいなかったことから急きょ遠方より王宮に戻されたのが、昨年王位についたばかりの十五代王だった。

 妻帯していなかったため、今回の『揀擇カンテク』によって王妃を決める。

 とり仕切るのは大王大妃であるファン氏だ。十二代王の正妃として宮中に入り、子が十三代王として即位したことで大妃となり、孫が十四代王の座についたことで大王大妃にまでのぼりつめた女性。いまや内廷どころか朝廷にまで君臨する女帝である。

「『揀擇カンテク』に臨まれる大王大妃媽媽の礼服は、最高の格式と威厳あるものをつくらないといけません。その後は王妃さまを迎えるさまざまな儀式がめじろ押しです。それらにも新たな礼服が必要ですし、なにより新婚となられる主上殿下の衣装もよいものを仕立てなくては」

 公主はその細い首でしょんぼりとうなだれた。

 この幼い公主は駄々をこねることをしない。両親を亡くし宮女からも軽んじられ、それでもまだ四歳の少女がじっと境遇を耐えている。そのいじらしさにむぎゅっと抱きしめたい衝動に駆られるのだ。

美成ミソン、縁なんて切れるわけない)

 嫌われるようなことをすれば済む話だが、それはできない。したくない。

「公主さま、こんなことを言うのは僭越なんですが、繁忙期が終わったらまたこうしてお呼びくださいますか?」

 公主はハッと顔をあげ、頬を染める。

「も、もちろんですよ!」

「よかった。明花はうれしいです。それに実は私、『揀擇カンテク』がとても楽しみなんです。きっと美しくてお優しい方が選ばれますよ。その方にお子が生まれたら公主さまは義理のおねえさまではないですか。すてきです」

「わたくしが、おねえさま……」

 ぱあっと公主の顔が明るくなった。

 思わずその小さな頭をなでそうになり、あわてて手をひっこめる。かわりに携帯していた裁縫具から針などを取りだした。

「さあ、公主さまはツバメの他にどんな生きものがお好きですか? 猫なんてどうです? しっぽつきの巾着は愛らしくていいと思いますが」

 出世したい。ごはんを抜かれたりせず、実家にたくさん仕送りできるような立派な品階を手に入れたい。

 けれどそのために今、この幼い公主を悲しませるようなことだけは絶対にできないのだ。それをあらためて強く思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る