第3話


「見習いとして入宮してから十五年で一人前ってことは、二十二歳かぁ」

 西陽が差しこむ針房チムバンで、ぼんやりとつぶやいた。

 公主のお召しが終わり、もちろん仕事中である。空腹は継続中でいまや頭がずしりと重く、体がだるい。ただ手だけが別の意識を持っているかのように、機械的な正確さで大王大妃の足袋たびを縫っていた。

 ちなみに公主は帰り際にやわらかくてふかふかの餅を明花に持たせてくれた。人間てこんなに大量のよだれが出るものなのかと驚くくらい口の中では大洪水が起こったのだが、露葉堂の門で待っていた針房の内人にちゃっかり取りあげられてしまった。

 つぎ会ったときに公主から餅の味を訊かれたらどうしよう。先輩に食べられたと言ったら悲しむだろうか。やはり最高でしたとしか言えそうにない。

「はー、二十二歳で内人ナイン、尚宮になるにはさらに十ウン年……」

 宮中で王に仕える女性たちを総称して内命婦という。

 この内命婦には官吏たちとおなじように、下は九品から上は一品までの序列をしめす品階が設けられている。さらにそれらひとつひとつに従と正の二段階があるので、全十八品階である。

 一人前の宮女、つまり内人ナインとなってその末端に加わり、そこから昇格できる最高位が正五品の尚宮サングンだ。従四品から上の品階は後宮フグンとよばれる王の側室のみが上がることができる。

 明花が目指すのは正五品の針房尚宮チムバンサングンなのだが、そこまでの道のりの長さに白目をむいてしまいそうだった。

「い……いやいや絶対なれる。時間はかかるけど大丈夫。針房チムバンで一番針がうまいの私だし」

 針房の見習いとなってからひたすらに努力を続けてきた。

 縫製で大事なのは基本の正確さだ。寸分の狂いなく断ち、いっさいのズレなく縫う。明花がはしを三巻縫製処理した生地はぜったいにほつれがないと評価をもらっている。できの悪い見習い宮女はクビになってしまうこともあるが、それだけはないと自信がある。

 腕がいいせいで内人たちにやたら仕事を押しつけられている感はあるが、そこは通過儀礼として耐えようじゃないか。

「そう、時間。年月さえ経てばこの手に針房尚宮チムバンサングンの地位がぁって、だめじゃん! ダメダメ、もっと早く出世しないと! 尚宮サングンでなくてもいいから、もちょっと下の……」

 ブツブツ言いながら房を出る。針房チムバンでの仕事は終わったけれど、明花にはまだ仕事がある。上司であり師でもある朴尚宮のお世話だ。

 手はじめに、水甕みずがめのたくわえが残り少なくなっていたので井戸から汲んで運ぶ。

 くらりとめまいがして水桶を落としそうになった時、とっさにそれを支えてくれた者がいた。

「――っと大丈夫かい?」

 ハイ、と答えようとして動転した。

 助けてくれたのは男性武官。それも伏せがちな長いまつ毛、通った鼻梁びりょう。どこかかげりを帯びた憂いある面差しの、厭世的ともいえる美青年だった。

「あのっ……す、すみませんでした!」

 飛び退いて頭を下げる。青年は内侍ネシと呼ばれる性をとり払った宦官数人を従え、紫の軍服クンボクをまとい戦笠チョンリプをかぶったいでたち――王の親衛隊と呼ばれる内禁衛の武官にちがいなかった。

「いいよ。見たところ見習いのようだけれど、針房では見習い宮女に雑仕女の仕事までさせているの?」

 まあ最近はずっと、など口が裂けても言えるはずがない。

「どうかお気になさらず」

「まあ、内命婦の事には王すら口を出さないもの。私などがどうこう首をつっ込めることではないけれどもね。それよりきみ、ちょっと手を見せてくれるかな?」

 じっと明花の顔を観察していたかと思うと、唐突に桶をわきに下ろされ手を取られた。

「きゃ!」

「やはりね、おもしろい手相をしている」

 長いまつ毛の下から鳶色とびいろの瞳が明花をのぞきこむ。武官とは思えないほどの白い指がつっと手のひらをなぞった。

「な、なにするんです!」

「私は易占えきせんが好きでね。顔相に手相がこうだとやはり足の相も見たくなるな。ダメかい?」

 足! 明花はのけ反った。

「お断りします!」

「驚かせてしまったかな。すまないね。女人にょにんの大事な足を見せろというのだから当然の反応だろうね」

 言って、志芳ジバンは内侍に視線で指示を出す。内侍が差しだしたのは風蘭ふうらんの咲いた小さな鉢だ。

「これはお近づきのしるしとしてきみにあげる。今年の一番花だと思うよ」

 玻璃のように繊細な微笑みを浮かべる。翳りすらもまぶしいと思うほど魅力的な笑みだった。

「花はとても愛らしいのですが、結構です。ムン武官」

「おや、私の名前を知っていた? もしかして会いたかった? そうならうれしいのだけど」

「……いえ、有名ですので」

 警戒感で一歩下がった。

 親衛隊のムン志芳ジバン。易占好きにして女好き、女性とみるや王の所有である宮女にすらほいほいと声をかけてくる美青年。しかも超がつくお金持ちで、女には湯水のように金品を配り歩くという、警戒されつつも宮女からはじつは大歓迎されている存在だ。

 志芳はそう、と気だるげなため息をつく。

「相易というのはね、顔を手が、手を足が、足を顔がとたがいに補いあっているんだ。きみの相はとても興味深いから、もし気が向いたらその全体像を見せてくれるとうれしいな」

「はあ、見習い宮女の相なんて見てもなんの得にもならないと思うのですが」

「なるよ」

 厭世的な見た目とは裏腹に、志芳はどこか油断ならないまなざしで明花を見つめた。

「体にきざまれた天命はこれからの波乱を告げている。その波は果たしてどこまで及ぶのか。私や主上をのみこむのか、運ぶのか……とても気になるね」

 それはなんだか不吉な予言めいていて、明花は頭を下げて彼の前から足早に去ったのだった。



明花ミョンファ、どこ行ってたんだい!」

「水汲みです、媽媽任ママニム

 戻ってくるなり、朴尚宮が苛立たしげに明花を迎えた。

「アンタって子は本当に間が悪いね。水汲みなんてしてる場合じゃないんだよ! アンタの大好きな公主さまが失せ物をされたとかで、露葉堂所属の内人たちが下っ端を貸してくれないかってあちこちに声かけてるのさ」

 明花は察した。朴尚宮のわきにはなにやら新品らしき食器が抱えられている。ふだん使っている食器よりもずっと立派なものだ。つまりすでに人を出す代価を受けとったのだろう。

 まあいいか、と明花は作業を切り上げた。公主さまの失くし物なら早く見つけてあげたい。頑張ろう。

「わかりました。行ってきます」

「場所は後苑だろうって話だよ。さがすのは金の蝶に翡翠の玉がついたノリゲだそうだ」

 ノリゲは上衣などの結び目につける、長い房飾りの装飾品だ。

「蝶に翡翠のノリゲ……ってそれ、母君さまの形見の品……!」

「なんでもいいからさっさと行ってきな。いいかい、門限のまえには戻ってくるんだよ。アンタにはやらなきゃいけないことが他にもあるんだからね」

 朴尚宮の言葉を聞き終えるや否や、明花は勢いよく針房を飛び出した。

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