第4話

起伏に富んだ地に広がる太陽宮テヤングンの後苑は、王室憩いの広大な庭園である。

 豊かな緑の植栽の中に季節の花が咲き、いくつもの池と趣を凝らした亭や露台ろだいが点在する。

「――ない、ない……なんでないの!?」

 あれから明花は空腹でふらふらになりながらも駆けずり回った。

 露葉堂の内人たちに聞いた場所はすべてさがし終えた。海棠かいどうの木がならぶ麗春楼れいしゅんろう、まっ赤な皐月さつきのなかを進む玉石の小径こみち牡丹ぼたん園と休息用の花仙亭かせんてい、そして鏡が池。

 内人たちとともに地を這うようにしてめぐったのに、みつからない。

「みつからないはずない。どこに落ちてたって目立つはずなのに!」

 もとは先代王の王妃おうひが大切にしていたノリゲだった。ひとり娘である公主の手に渡ったのは、王妃が亡くなったその日のことだ。

 もしかしたら落とした場所がちがうのだろうか。後苑ではなく、どこかべつの場所だったとか。あるいはすでに誰かが拾い、欲に負けてくすねてしまったのかもしれない。

 みつからないのでは、そんなあきらめが一瞬よぎる。

「ダメ、このまま見つからなかったら公主さまが悲しまれる……」

 幼い公主があのノリゲを大事にしていたことはよく知っていた。毎日毎日、お守りのように大切に身に着けていたのだ。

 西に傾いていた陽は、すっかり空を茜に染めていた。

 一緒にさがしていた内人たちもひとりふたりと帰って行く。

 明花にももう時間がない。へやの門限を報せる鐘がなるまえに戻り、朴尚宮サングンに食事を用意したり寝床の支度を整えたり着替えを手伝ったりと、やらねばならないことがたくさんあった。

「最後にもう一度だけ!」

 沈む陽を一瞥して、明花は植栽の中に頭をつっ込んだ。もしかしたら、花を楽しんだ時に植えこみのなかに落としてしまったのかもしれない。

 こうして植え込みの中を確認しながら公主の足どりをたどり、全力で走って戻れば鐘がなる前に帰れるはず。

 かなりのギリギリになるが、やるだけの価値はきっとあるはずだ。数日続いた空腹で目がまわりそうだったが、それはもう考えないことにする。

(ん……なに? 誰かいる?)

 そうこうする中ふと話し声を耳にしたのは、あたりがだいぶ暗くなり、ほとんど手探り状態となってきたころのことだった。

 首をめぐらせてみれば、花仙亭のまえで三人ほどの男性がなにか立ち話をしているのが見えた。

 内廷に入れる男性といえば王とその護衛、宦官かんがんである内侍ネシに限られている。

(んーまあ、王さまならわらわらと人数引き連れてるだろうし、護衛がこんな時間に後苑うろついてるわけないし、内侍よね……?)

 目を凝らし、あっと思った。

 三人のうち、ひとりの手に視線が釘付けになる。薄暗くてはっきりとはしないが長い房が見えた気がする。

「待って、もしやそれは……! あっ」

 あまりに慌てすぎたせいで、牡丹の一枝に袖が引っかかって折れてしまった。

 どうしよう、すでに花の終えた枝とはいえ王家の庭を損なうなどとんでもない。音を立てて血の気が引いた。

 しかし立ち止まっている間に人影は花仙亭へと入って行く。明花は一瞬ためらったのちに、枝を手にしたまま楼閣へと飛び込んだ。

「あのちょっと待――――んぐぅっっ!!」

 それは一瞬のできごとだった。

 暗い入口へと一歩踏み込んだとたん、背後から伸びてきた手が明花の口をふさぎ、片手をひねり上げたのだ!

「なに者だ」

 冷たい刃物のような声。

 明花は「痛い!!」と叫びたかった。明花を拘束する男の力には容赦というものがない。関節が軋む音すら聞こえそうだった。

「ンむ――ぅうむ――――ぅ!!」

「動くな。わめくな。武器を離せ」

(武器なんて持ってない! つか苦しい!!)

 わけがわからず必死で抵抗したが、男はびくともしなかった。

「夜陰にまぎれての急襲とは、大王大妃の手の者か」

(大王大……ナニ!? つか苦しい、苦しいって……)

「ん、なんだこの武器。……じゃ、ない……木の枝?」

 拍子抜けした声とともに手を離される。

 ぶはっと息を吸い込んだが、もう体力の限界だった。

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