第7話 【誕生】

 自然豊かな後苑の朝は、なんともいえず爽やかだった。

 空気はきんと冷えて清涼、鳥の声高く、風は緑と花の香りをふくんでいる。

「――ステキな朝だわ気分爽快! とはまったく言えないのが残念だわ……」

 謎の一晩を過ごした花仙亭。

 そこで明花は朝粥をいただいていた。

 当然のような顔で膳卓を並べるのはやはり、昨夜の親衛隊の将だ。

 なぜだ? と流し目のようにこちらを見るのをやめてほしい。謎すぎる人物だが顔だけはいいのでうっかり顔が赤くなってしまいそうだ。

「あのねえ、なにが嬉しくて見ず知らずの男と一緒に朝を迎えなくちゃならないの。スッキリ爽やかなわけないじゃない」

「そのわりに詳細を聞かせろと駄々こねたりしないんだな」

「次会ったときに教えてくれるんでしょ? いったん納得したものを蒸し返したりしないわよ。あ! もう会わないっていう狡いのはナシよ?」

「そんなに俺との逢瀬が楽しみか。それは男冥利に尽きるな」

「楽しみっていうより怖いもの見たさって感じよね」

 おもしろいし都合がいいからと言われたのだ。明花は見習いとはいえ宮女としての教育を受けてきたのだから、都合がいいからはまだ納得ができる。だがおもしろいってなんだと思う。

「まあでも、高官のお役にたててばっちり栄養も摂れるなんて幸運じゃないか! ……って思うことにしたわ」

 この粥、滋養に良いクコまで入っているのだから体力回復にはまちがいない。

「でもホントに姦通罪なんてならないのよね? ヘンな疑いかけられて王宮から出されるのだけは困るんだけど」

 昨晩、食事を終えると隣の間へと案内され、度肝を抜かれた。なぜかちゃっかりふかふかの寝具が二組用意されていたのだ。

 食事にしてもそうだが、親衛隊の将に後苑でそれほどのことができるとは思えないから、王の手配によるものなのだろう。

 そんな手配いらないです王さまと思いつつ、床でじかに寝ると翌日の仕事に響きそうだったので、結局ふたつの寝具を最大限に離して眠りについた。

 正直、夜中にこの男がよからぬことをするのでは……的な不安はあったものの、久々の満腹感のおかげで即刻夢の中へと突入してしまった。

 自分で言うのもなんだが油断しすぎである。猛省する。

「疑いねえ」

 彼はくつ、とのどを鳴らしたかと思うと、並んで座る明花の方へと顔をよせてきた。そのしなやかなしぐさはまさに猫科の肉食獣を思わせる。

「むしろ実際に手を出してすら、もみ消せる自信があるがどうする?」

「どうするって……」

 熱を持った指がそっと明花のあごをなでる。赤琥珀のような瞳に見つめられると、この場から急いで逃げ去りたいような居たたまれなさが湧きあがった。

「も、もう! からかわないで!」

 明花が顔をまっ赤にして手を払いのけると、彼は肩をゆらして笑う。

 なによそんなおもしろい? と言いたかったが絶対「おもしろい」と返ってきそうなのでやめておく。この人ほんとなんなのだろう。

「いつまで笑ってるつもり? だいたいあなた、親衛隊の将なのにこんなところでのんびりしてていいの? そろそろ経筵(けいえん)とかはじまる時間じゃない。殿下の護衛は?」

 王の朝は早い。いつまでも油を売ってていいのだろうか。

 だがその問いに、彼は途端に表情を変えた。

「……経筵などあるものか」

 吐き捨てるように言う彼を凝視する。

 経筵は王が受けるいわば勉強会のようなものだ。学識ある高官が集まり経書などの講義を行うほか、国事についてともに議論をかわしたりもする。朝一で行われる非公式公務である。

 それが『ない』という。休みなどではなく、『あるものか』ときた。

 なんとも言えない気持ちになる。

 なぜ、などと疑問には思わない。この国はもう長いことそうなのだ。

(今の殿下も、やはりお飾りなんだわ……)

 さかのぼれば三代前、十二代王の時代にそれははじまったのだという。

 現在大王大妃の座にいる黄氏が王妃であったころの話だ。十二代王は黄氏を寵愛し、黄氏のねだるままに彼女の一族を要職にすえた。

 その十二代王が崩御すると黄氏が産んだ世子が十三代王として即位したのだが、その虚弱を理由として黄氏が王の補佐の座についた。これを『垂簾聴政』という。玉座の後ろに御簾をたらし、御簾ごしに王母黄氏が臣下に接して政を代行する。

 その後、十三代王も若くして崩御、十四代王は七歳という若さで即位したため、これもまた黄氏が『垂簾聴政』による補佐を行った。

 そしてそのまま御簾が掃われることなく十五代王が即位となり、黄氏による政権代行はいまをもって続いているのだ。

 王に実権はなく、うわさでは玉璽ぎょくじすら大王大妃ににぎられているのだとか。

「…………立派な方に見えたんだけど」

 思案にふけるあまり、ぽろっと小声が出てしまった。

 あわてて口を押えたが、出た言葉はもどらない。人参茶の入った茶杯をもてあそんでいた彼が、こちらを見て目をすがめた。

「ほう? 主上のお姿は立派だったか。だが残念だったな。この国を動かすのは王にあらず。真の王は御簾の向こうにいるのさ」

「ごめんなさい。私が不敬な流れをつくったわ」

「不敬などつねに公然と行われている。経筵は行われず、高官たちは議案を王のもとには持ち込まない。朝議で官吏はあからさまに御簾の向こうに意向を尋ね、玉座の王はただ黙して座すばかり。王にできることは大王大妃の老衰を待つだけだが、果たして大王大妃の亡きあと、黄氏一族に牛耳られた朝廷は王の言葉に耳を傾けることがあるのだろうか」

 彼が浮かべた苦い笑みに息をのむ。

 その底にはふつふつと燃える炎が見えたような気がした。

「三代続いて王はただのお飾り。黄氏のために政治をふるう奸臣どもの目に民はうつらぬ。整備の進まぬ道路に物品は流通を阻まれ、安定せぬ経済に貨幣は信用を無くし、地方には農具すらまともに行き届かず、コメの収穫は減るばかりだ」

 明花は信じられず眉をひそめた。

 その内容は明花が王宮に入るまえ、つまりは十年ほど昔に父が口にしていたことだった。特に道路はひどかった。でこぼこと波打ち、雨が降れば泥水がたまってぬかるむ。車は通れないから、商人は荷を背負って歩くしかない。物が流通しないから貨幣も流通しない。国の経済は両班の懐を除き、冷え切っている。――その状況がいまだ変わらずに続いているなんて。

「この国は長いこと闇夜の中を転がっている。民は転がしている者が誰かも知らぬまま。だが、李。――李明花。知っているだろう? 夜というのはいくら長くとも、かならず明ける時がやってくるのだと」

 その強い瞳に怯みながらも、彼の言葉に記憶が刺激された。

 幼い時、よく母が口にした言葉。

「……明けない夜はない」

 王の親衛隊将は、その赤琥珀の瞳に密やかな炎を揺らめかせながら、とろけるように甘く微笑んだ。

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