第6話

「さあ令監」

 軍服を着つけようとしたら避けられた。それどころか明花から受けとると自ら袖を通すので目を丸くする。転んでも自らの手では起き上がらない、つまり自分の手ではなにもしないというのが両班ヤンバンの男のあり方なのに。

ヨン……」

「俺を令監ヨンガムと呼ぶなら、俺もおまえの無礼を咎めなくちゃならないな」

 薄く笑いながら傲然とあごをあげる。荒々しさのある美貌だけに、やけに様になった。

 明花はものすごくためらったのちに、口調をもとに戻してみた。

「あ、あなた、両班ヤンバンの家柄じゃないの?」

 おそるおそる正三品堂上官をうかがい見る。緊張したけれど、相手はどうやら不快に思った様子はない。

「確かに両班ヤンバン家庭ではないな。いろいろあって説明がめんどくさいが」

 なるほどと思う。だから明花の無礼をおもしろがりこそすれ、咎めようとしないのだ。だがそれでも変わり者にはちがいない。

 ほっとしてしまうと肩の力は一瞬で抜けた。明花自身、堅苦しいのは苦手なのだ。

「そう、とにかく本当にいろいろ失礼を言ったわ、ごめんなさい。大事な官服まで敷いて休ませてくれてありがとう。私、そろそろお暇するわね。さすがに戻らないと」

「まあ待て」

 同等に話すことが許されたとはいえ高官は高官だ。待てと言われれば待つしかない。

 親衛隊将は房の外に顔を出し、誰かと話しはじめた。

 そこに人がいたことにも驚いたが、そのこそこそという話し方と、どこか悪だくみを思わせる彼の横顔になんだか怪しさが湧いてくる。

 ちょっとだけ、と明花は房の外をうかがって、驚きに心臓が跳ねあがった。

 彼が話をしていたのはふたりの青年。うち、ひとりは昼間も会った親衛隊の志芳だ。だが問題はもうひとりの方だった。

 なぜかまたしても官服を着ておらず簡素な袴姿だったのだが、その腕に下げていた衣装がもうとんでもなさすぎる。

(金の龍紋、真紅の袍! つ、つまり……)

 ごくりとのどが鳴る。

「しゅ、主上殿下!!」

 どう見たってそれは王のみがまとえる袞龍袍(コルリョンポ)だった。針房で仕立てているのだからまちがいようがない。

 なによりいかに簡素な装いとはいえ、その佇まいからは落ち着きと高貴さがあふれている。玲瓏として奥ゆかしい面差しはまさに想像しうる若き王そのものだった。

 明花のかすれた声に三人が振り返る。

「いや待て、私は」

 なぜか困惑したような声で王がこちらへ来ようとすると、すかさず残るふたりがそれを止めた。親衛隊のふたりはなぜかとても楽しそうだ。

「まあお待ちください、主上」

「ってわけでな……じゃなくて、というわけでございます、主上殿下。あとは頼みました主上殿下。ほら主上殿下」

 にんまりしながらふたりは王を宥めつつ、ついには外にまで押し出して、戻って来たときには王も志芳もおらず親衛隊将ひとりになっていた。

「……殿下なんだか嫌がってなかった? いいの? あんな強引な態度」

「平気平気。それより軽い飯を運んでもらうことにしたからおまえも食え。明花だったか。おまえ骨と皮しかないぞ」

「え? や、待って。飯ってなに? いや飯が飯なのはわかるけど、なんでここで? それ以前にもう帰るんだけど」

 言われた言葉が理解できず、頭が混乱した。会話をさかのぼって整理してみてもなぜそういう流れになったのかわからない。

「腹減ってないのか? どうみてもまともに食ってるようには見えないんだが」

「減ってる! 減ってるに決まってる! けど、それとこれとは話が」

「腹いっぱい食ってけよ。そんで泊まって行け。その方が都合がいい」

「泊ま……泊まるぅ!?」

 驚きすぎて声がひっくり返った。しかもつっ込みどころが多すぎて的確な言葉が出てこない。

 落ちつけ。順番に片づけよう。明花は眉間をもんだ。

「あのねえ、私もう帰るの」

「問題ない。帰れないって言伝させといた。飯頼んだついでに」

 ――は?

「言伝って誰が誰に!?」

「部下が。針房尚宮チムバンサングンに」

 部下とは聞志芳ムンジバンか! 絶句しそうになったが、いや待て。まだ言いたいことはある。

「あなた、こんなところでごはん食べて泊まるなんて発想どっから出るの! 王室の方々の後苑よ!?」

「主上殿下もおゆるし下さったぞ」

「え、殿……そ、そうよ殿下、殿下よっ、宮女といえばすべて殿下の所有! こんなところに連れ込んで一晩明かそうなんてそんな、は、破廉恥はれんちなことゆるされるはずが!」

「主上殿下もおゆるし下さったぞ」

 …………は。

「主上殿下も」

「くり返さなくたって聞こえてるわよ!」

 ああ、大きな声を出したらめまいがする。

 頭を抱えて息をととのえていると、ふと鼻先に甘い脂ののった出汁の香りが流れてきた。

「さすが用意が早い」

 言うなり近づいてきたかと思うと、身構える間もなく彼は明花を抱き上げる。

「ちょ、なっなにするのっ!」

「ふらふら歩くよりこっちのが早いだろ」

 見習い宮女として七歳で入宮してからこれまで、男の人と接したことがない。昼間は志芳に手を取られたりしたが、それ以上の近さに緊張で体が硬直した。

「おまえな、ヘビに睨まれたカエルか。なにも取って食うわけじゃないからそう怖がるな。むしろ食わせてやる。――ほら」

 彼は明花を抱いたまま隣室に足を踏み入れる。そこで目にした光景にあっけにとられた。

 贅沢に灯りのともされた室内には食膳用の円卓がふたつ用意され、麺を中心として小皿のキムチやナムル、おとし卵などがそれぞれに用意されていた。

「なに……これ、いつの間に?」

「親衛隊の将ともなると、これくらいなんとでもなるんだよ。ほらあれだ、主上にもおゆるしをもらったしな」

 そんなバカなと思いつつ、ついつい視線は麺に吸い寄せられた。甘い脂の香りに鼻がひくひくする。ああ、上に乗っているのはキジの肉だ。どこからどうみても極上のキジ肉の切り麺!

 下ろされた流れでふらりと着席しそうになってあわてて首をふる。

「いやぜったい変、ぜったいおかしい! なんでこんなこと」

「頑固だな。その方がおもしろいし都合がいいからだって言わなかったか?」

「だからなにそのつっ込みどころ満載な理由! おもしろいとか都合がいいとか! なんで私があなたをおもしろがらせなくちゃいけないのよ。あなたの都合につき合う義理もないし!」

 なので帰ります、と言おうとして言葉に詰まる。

 すでに腰を下ろした彼は、余裕ある不敵な笑みを浮かべて明花を見つめていた。

「帰っていいのか? ほんとうに?」

「う…………」

 そう言われると確かに返す言葉がない。

 見習い宮女にすぎない明花は、なにか言われて断れる立場にないのだ。

「そう肩ひじ張るなよ。腹減ってるだろ? 泊まるってのもべつにおかしなことしたりはしない。姦通の疑いで王宮を追い出される心配も無用だ。針房尚宮にはちゃんと話を通してある」

 動けずにいる明花の手を取り強引に座らせる。かと思うと、切り麺の出汁を匙ですくい、明花の口もとにつきつけた。

「なんでそこまで」

「だから言ったろ。おもしろいのと都合。それにこれもまだ俺の手にあるが、どうする?」

 彼が軽く掲げて見せた物にあっと声を上げた。

「公主さまのノリゲ! いつの間に……!」

 確かに巾着に入れ、身に着けていたはずなのに!

「さっき運んだ時にくすねた」

「くすねたって……もう、そんな手癖の悪い令監っている!?」

 ぱくっと匙をくわえ、そのまま身をのり出してノリゲを取り返す。

 あっけなく手が届いたことに明花は驚いた。てっきり「返して欲しくば」的な脅しをされるとばかり思ったのに。

「で、どうだ味は?」

「美味しいわ……ありがとう」

 よくわからない青年だ。

 でも抵抗を試みる明花を脅すことも、命じることもしなかった。

 言える立場でありながら権力をふりかざさなかったところには少し好感が持てる気がした。

 青年がもういちど匙で出汁をすくい、明花の口に近づける。なんだか拒絶するのも悪い気がしてきて、観念しておとなしく口にした。

 なんだろう、人に食べさせてもらうのはこんなにもくすぐったくいものなんだろうか。むずむずするくらい恥ずかしい。

「詳しい事情を説明する気はないの?」

「するさ。次会ったときにな」

 言って、今度は箸でキジ肉を口に運んでくる。自然と口を開けてそれをいただこうとして、正気を取り戻した。食べさせてもらってどうする。

 明花は箸ごと受けとり、自分でキジ肉をぱくりと食べた。優しく甘い脂がほんわりと口に広がる。至福だ。

「泊まっていくな?」

「……念のため確認しておくけど、ほんとうに変なこととかしないんでしょうね?」

「宮女は王のもの、だろ」

「そう、わかった。こうなったら肝を据えるわ」

 悪い人じゃない。そんなふうに思う。

 なんだかよくわからないが、たぶん高官なりの思惑があっての事だろう。無意味にこんなことを王だってきっとお許しにならない……はずだ。

 それでも彼は、脅しも命令もしなかった。もしそれをされていたなら明花はどこまでも反発をしたかもしれない。けれども彼は正三品という官位にありながら、明花の言葉で返事を待った。

 誠意を見せられると背を向けられない。それが明花の性格だ。

(おもしろいのと都合、のおもしろいってやつがものすごく気になりはするんだけど!)

 だけど、腹をくくる。

「あーもう! こうなったら数日ぶりの立派な食事を満喫してやろうじゃない。ここで寝るなら夜中まで朴尚宮パクサングンの腰を揉まされることもないし、ぐっすり眠れる。うん、お得! ……お得と思いたい!」


 こうして明花は後苑で一夜を明かすはめになった。

 まさか翌日、予想もしないたいへんな事態になるだなんて、この時は想像も及ばなかったのだった。

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