この言葉を誰に用いたいかと言えば、「僕」に対してです。
子供ゆえの無知、
子供ゆえの無力。
そして、
子供ゆえの無警戒。
鮮やかな朝顔の色をした顔料が、べたりと僕の心に塗りたくられてみれば、それは筆舌に尽くしがたい腐臭を帯びており。いきなりそれを浴びることになってしまえば、この先の彼の人生は、どのようにねじ曲がってしまうのか。
いや、もう一つ踏み込まねばなりませんね。
そのねじ曲がり方は、果たして僕の故郷に親和する形を帯びるのか、あるいは排斥し合う形を帯びるのか。いずれにせよ、もはや心に平穏は訪れなさそうだよな、と思ってしまい。
そして、最後に言わねばならないのは。
なんでしょうね、「そこに生まれただけ」なんですよね。
たったそれだけの事実がただただキツく、えげつないです。
乱れ咲く朝顔が一つ一つ繊細に異なる表情をみせるように、この作品の随所に散りばめられた「朝顔」という言葉にはいくつもの意味が宿る。その不気味な青白さは、あるいは少年であり、あるいは罪を思い返す現在の彼であり、あるいは祖母であり、あるいは少女の父であり……しかし要するに、田舎そのものであった。豪奢な館を、蔓を伸ばし這い回り犯す、静かな魔物であった。そして、少女では、決してなかった。
少女だけが異邦人だ。都市の血を半ば持つ少女は、しかし田舎から逃げきれぬ血も半ば持っていた。母は、彼女を捨て置いて消えたことを見逃してはならぬ。魔物の重圧に縊り殺されたのが、縛られた異邦人たる少女ではなかったか。彼女の肌に呪いのような青を刻みつけたのは、誰でもなく、また、誰でもあった。
「朝顔」を踏みつける青みがかった少女の脚を、美しいと見るのは、やはり罪であろうか。田舎に育った私の、罪を突き付けられたがゆえの、祈りであろうか。それでも傷は美しかった、と……。
少年の回想にも、このような祈りが秘められているとみるのは、自らと彼をひきつけ過ぎか。しかし、惨状を奥に秘めて清廉なワンピースとカーテンの重なりを、妖しいと言わずして何と言おう。この白を語り直してしまう彼の眼には、祈りの影が差している。
この作品を朝顔の咲く季節に読まなくてよかった。
禍々しい効能を秘めながら、静謐に咲く花は、おそろしい。
だいたい都会から田舎に帰ってくる人間なんてろくな奴はいないんですよ、なんて田舎住まいの私は思ってしまうわけです。娘一人父一人で田舎に暮らすというのがどれだけ奇異なことか……というのは都会の先進的な方々からすれば差別と偏見に満ちた発言なのでしょうが、実際田舎に住む人間はそういう差別と偏見に満ちた目で見てくるわけで、「きれいなきれいな彩花ちゃん」は「都会から来た向こう側の人間」だったという、その憧れの裏返しで誰にも助けてもらえないわけですね。
だから本当は主人公の「僕」の家族の鈍感さこそ救いだったわけなんですけど、「僕」はそれを活かすどころか、逃げてしまった。
しかし小学生の「僕」にそこを頑張れと言うのも酷な話だし、他ならぬ彩花ちゃんから「僕」は学校での居場所を壊されたわけで――そして子供にとって学校にいづらくなることほど恐ろしいことはなく――
救いなどどこにもありはしなかったのだ……。
空色の朝顔と白いワンピースの対比がとても鮮やかで美しい話でした。