* 遥果 *
「今すぐ会える?」
ちょうど授業が終わったばかりの水曜の放課後、夕映さんから呼び出された。
学校のすぐ近くの海岸で待ってるからって。
夕映さんは、砂浜に降りる石段に座って海を眺めていた。
私は強風に髪が弄ばれているのを押さえながら、目の前に立つ。
「ほんとに高校生だったんだね」
はためく制服姿の私を見て、彼女はにやりと笑う。
「余計なお節介を焼く人がいてね。ここの制服着てる遥果を見たって」
「高校生じゃだめなの? もう18よ」
「だめじゃない。ちょっと見てみたかっただけ。可愛い」
「奏多も、知ってる?」
「そうね。彼もその場にいたわ」
夕映さんは立ち上がって、私の髪を撫でる。
「奏多が遥果に惹かれてるのは、最初から知ってる。『夕映の代わりに彼女抱くけど、いいか』って聞かれた」
「で、いいよって答えたの?」
「はは。別に許可なんて、奏多にはいらないんだ」
奏多は嘘つきだ。本当のことなんて別に意味がないけれど。
「遥果は、私のことがすきなんだと思ってた」
わかってて、奏多とのことずっと知らんぷりしてたんだ。夕映さんは残酷だ。
私を撫でるその指先。あなたに触れられたくて口紅を選んでいたことも、きっと知ってて。今日は制服だから何もつけていない、無防備な私。
「行こうか」
私の腕をとって、自分の腕を絡ませる。
遠くまで海沿いの道を歩いてから、怪しい界隈に足を踏み入れた。女二人で入るラブホ。しかも、私は制服姿。
至近距離で香る夕映さんの甘い匂いに気絶しそうになる。奏多を通して微かに香っていたあなたに、やっと辿り着いた。
ねぇ、もしかしたら、夕映さんも奏多を通して私を感じてくれた?
「奏多はどんな風に遥果を抱くの?」
黙っていた。意図がわからない。嫉妬で私を滅茶苦茶にしたいのかな。
「脱いで」
脱がせてもらえない屈辱にふれ、それでも私は言う通りに下着姿になり、ベッドに横たわった。あなたに仕返しされるのなら、それも仕方ないから。
「きれいな白い肌。まるで陶器のお人形」
夕映さんは歌詞を語るように、私に向かって口ずさむ。
すっと私の肌に触れるその感触は、奏多とはまるでちがって、壊さないように細心の注意を払うかのようだ。でも、氷の冷たいピンで止められたまま、私は人形みたいにぴくりとも動けない。
私は海のdoll。波に浮かぶお人形。
ただ揺られて、見知らぬ土地に運ばれていく。
そのメロディは、その言葉たちは、私であり、あなただ。
いつだって、私は夕映さんの身代わりだった。
奏多が全て剥ぎ取るのなら、夕映さんは着たままの私を愛でる。自分はワンピース一枚脱がないままで。
彼女は私の裸の写真を持っていた。奏多からもらったのだと言う。
事を終えて眠っている私の姿。いつのまにかシャッターを切られていたんだ。もし売られていても防ぎようがない。
でも多分、奏多はこれを夕映さんだけに見せた。そんな気がした。そうじゃなかったとしても別に後悔はない。自分が選んだ人に何をされたとしても。
迷っていた夕映さんの背中を押したのが、この写真なのだろうから。
いつまでも見つめていたら正気でいられなくるんだよ、魂を映したものは。
*
それからはじまる、彼女と二人で過ごす日常。
彼女の部屋で制服を脱ぐ。いつも私だけが裸体を見せる。狡い人なんだ、夕映さんは。
ねぇ、私はあなたが喪失した時間ではないよ。
私とあなたの生まれた時間差がたとえ6年だとして、それはあなたが失った時間ではないんだ。人には人の、あなたにはあなたの時がある。
「遥果が羨ましいわ」
どうして自分の美しさに目を向けないのだろう。
あなたが心身を削って世の中に出したその歌の中に、あなた自身が削り出されてなどいないよ。
あなたが勝手に自分が減っていくように思っているだけで、あなたには、それだけのものが零れているのに。
私に届いたあなたの輝きは失われない。どうしたら、それをわかってくれるの。
言葉を尽くす。夕映さんに賛辞のキスを贈る。ほんの少し息を吹き返したようにみえると、私は心底嬉しくなる。
彼女は人前ではいつも優しさであふれている。歌っている姿は、薄絹をまとったような天性の女神。
けれど二人きりの時、中身は迷ったままの邪気に覆われている。受け身にみえてあなたは、きちんと蜘蛛の巣を張り巡らせている。罠を張る。
私はかかった獲物だ。もちろん自ら志願して捕えられたのだけど。その強さは、私などでは到底敵わないくらいに。弱そうに見せる必要なんてないのに。
何かを生み出す人の辛さなんて私にはわからない。いつ枯渇するか震えている可哀そうな歌姫。
その両腕を掴んで身体中を舐めまわしたい衝動に駆られるけど、あなたは拒否して硬直してしまう。なぜ。
代わりに、思う存分私に触れることで慰められるなら、いつでもこの身を投げ出すつもりだ。あなたの目でピン止めされて、いつしか標本の蝶になる。見くびっていたのかもしれない、あなたの苦しみを。
「ほしいもののためには、たとえ傷ついたって構わない。いや、傷つかないと所有できないことを知っている。遥果、あなたはそんなことを全身で訴えてた。最初から」
動けない、身体が言うことを効かない。その目は力強い。
「あなたのことを束縛なんてしないわ。そう理解ある女を演じて奏多に近付いてくる蟻たちの多いこと。そんな約束なんて、ずっと守るものでもないわ。縛りたければ縛ればいい。解きたいなら、無理矢理リボンを引っ張ればいい。覚悟がないから自分に言い聞かせるのよ」
手に入れたいものを、手にしたはずなのに。
なのに、何故あなたは、私は、虚しいのだろう。
奏多に近付いたのは、このゴールに行き着くためだったのに。
私は今、奏多が恋しくて仕方ない。ただの手段として選んだあなたが心底愛しい。
*
叩きつけるような夕立。走り抜けると尚更痛いけれど、バシャバシャと水たまりを駆け抜けて、ドアを叩く。
雨に濡れたまま、制服のままの私を奏多があわてて迎え入れる。
気がついた時には彼の家に来ていた。この先の運命を受け入れるために。
「知ってたんだね、奏多」
彼は黙ったまま、大きなタオルで私をくるんと包む。私は唇を受け入れる。ああ、なつかしい。この艶めかしい感触が恋しかった。
そのままバスルームに連れていかれて、手をかけられる。
でも、どうしたの? いつもの速攻型じゃない。
セーラーの青いスカーフをゆっくり引いて、一つだけ衿のボタンを外す。
露わにされた鎖骨に、慈しむように這わせていく指先。身体中に痺れが来るように、私の中の血流が騒ぎ出す。
少しずつくるくるとハイソックスを脱がされる。濡れているからなかなか進まないのか、わざとなのか、わからない。
いつもと違う奏多の行動は、もしかしてこの制服のせい?
脇の下のファスナーが下ろされ、両腕をつかんで上げられる。
「いい子だ。じっとして」
捲り上げられて胸をさわられると思ったら、セーラーをきちんとハンガーにかけてるから、めちゃくちゃ笑った。
「ほら次、スカート。きちんとしないと皺になるよ」
今日の奏多は、中の人が交代したんだろうか。
下着を脱がさないままに、シャワーを浴びせられた。
「渇かないと帰れないね、お嬢さん。未成年なのにね」
思わず、私はもう18だと告げる。近いうちに成人の規定も変わるでしょ。
「いつも何て言い訳してたの、帰らない時は」
「深夜までバイトしてるって。いないことに気づかれないことも多いよ」
「そんな訳ないだろう」
「母は帰宅した時、私を確かめたりしない。別に私になんて興味がないの、あの人は」
身体にぴったりと張り付いたまま、私は撫でまわされていく。その愛撫に愛はあるのか。あってもなくても、欲しいものは欲しい。
水圧でくっついた布が気色悪い。肌にアイロンで押し付けられたかのようだ。
だから、自分から手を入れて、空気を入れる。
それが合図のように、濡れた布の端から彼に手を入れられて、電流が走る。指先で探られていく。紛れもなく快楽。今日は、頑なに、脱がされない方のステージ。
奏多のストライプのシャツが縦に揺れる。張り付いた布に二人で欲情していく。
下を見たら、石鹸の泡が波のように流れていくのが映った。
*
次の日に、シーツを洗う。真っ青な空の下。
ガラガラ洗濯機を回して、自分のや奏多のも混在させて。その間に私はシャワーを浴びてくる。
ブザーが鳴って、庭の物干し竿に二人でシーツを干して、風に吹かれたそれを見ている。
私の髪もたなびいていく。短冊のようにさらさら鳴る。今、この時。
「ねえ、何時間で渇くかな。1時間? シーツと私の髪、どっちが先に渇くかな」
しばらく顎に手を当てて考えていた奏多が、あって声を上げた。
「待ちきれない? 別にシーツなしで、どこでも抱くけど?」
「バカじゃないの。誘った訳じゃないよ!」
「嘘つけ」
「嘘じゃない」
「お前は俺がすきだから、嘘をつくだろ」
これだから、自意識過剰の男はイヤだ。私は誰にだって嘘をつくのに。
彼が西瓜を切って、庭に運んできた。
今年初めての西瓜だ。生まれてから数えても片手で足りる。
かぶりつく口の端から甘くなっていく。西瓜を持つ手に赤い汁が滴る。
奏多の腕にも流れて行くのが見えて、私はそれをなぞっていく。甘い、野菜の、この夏の汁。
「お前、JKだってバレてから、清々しいくらいやることがこどもっぽくなったな。笑うようになったし」
そう言って、こどもにするみたいにくしゃくしゃと頭を撫でられた。やだ、西瓜の手のままで。
*
夕映さんと奏多が、私のバイト先に保護者ぶって偵察に来た。表の顔をして。
波が夕陽を砕いて、窓際に何度もまぶしい光が弾けていく、そんな午後。
どうせ、あれでしょ。今度はファミレスの制服姿を見に来たんでしょ、奏多は。あいつが制服フェチだったなんて。
「私はシードルにバニラアイスのっけてね」
「俺は運転あるから、ジンジャーエールにのせて」
「あの、メニューにありません。二人ともフツーにクリームソーダとか、頼めないんですか?」
夕映さんの唇が可愛くつんと尖る。
「シュワシュワ度がねー。『大人のクリームソーダ』とか作ってほしいよね」
あるのは、メロンソーダ、レモンソーダ、トロピカルソーダ。です。
仕方ないから私が作ってみたよ。こっそり厨房でシードルにブルーキュラソー入れて海の世界。イルカも気に入ってくれそうなキレイな色。
夕映さんは、嬉しそうにストローで氷をカラカラ言わせて、眺めてる。
「夕映の方はいいけど、俺のは……。即効で水替えレベルの水槽の色だよ」
確かにね、ジンジャーエールは茶色だから、濁っちゃったね。
夕映さんの方にクリームをいっぱいのせたから、ズルイって奏多が悔しそうにそれを掬う。彼女がおいしそうに唇を舐める。二人はお似合いだ。
私のバイトが終わるのを待って、三人で海岸にやって来た。
ただただ夕闇が落ちるまで、波打ち際で戯れていよう。光を反射する砂浜が、キラキラを閉じ込めるまで。
奏多が私たちを映す。カメラを持つと途端に真剣な顔つきになるのね。その目がすきだ。その腕に抱かれたくなる。
夕映さんが屈託なく笑う。それを、奏多がまぶしそうに見つめる。
あのね、私は、何者でもない私を受け入れてくれたあなたたちがすきなんだ。たとえ埋め合わせのピースでも構わない。半端に転がっていた、気になる形でいいの。
きっと生きていくって、そういうことなんでしょ? 行く末が見えなくて簡単でなくても、わかった振りをしてやり過ごしてしまう。
奏多の部屋で、初めて三人で寝る。潮の匂いのシーツの上で。
灯りを全て消して、窓から射す月明かりだけで探り合う。
彼の愛撫は焦らしながら、笑ってしまうくらいに公平を保っていて。私たちは交互に声を挙げる。波が寄せたり引いたりするのと同じ。遊びながら。
これはまるで私の大嫌いな共有。なのに、おとなしく待ってしまう。胸が苦しくて、淡くて、ただただ人形になって。
ね、さすがに差し込むのは交互には無理ね。
私は夕映さんに譲ることにして、立ち上がってキッチンに水を飲みに行く。
そのままデッキに出て、裸のまま、海を眺める。私はあまり泳げない。
ダダッ、ポーンとくぐもった音が聞えてくる、夏の終わり。
遠くの雷鳴なのか、ここからは見えない打ち上げ花火の音なのか。音がしない時間に耳を傾けて確かめたくなる。
裸足のまま家を出た。月が雲に隠れてしまったせいで、まだ目が慣れない。
思ったより坂道の角度がキツクて、速度が上がって足がもつれる。いつしか、つかんだ足裏の感触で、砂浜に出たことを知る。
これが生きているという感触だ。のせて、ほろり。私の重みに耐えかねて、砂が沈む。
さっき降った雨が沁み込んで、足が重たい。今きっと私だけが踏みしめている地続きの砂浜。一人占めの感覚が心地よくて、震えが来る。
駆け抜けてきた疾走感。若さゆえの過ちの多さ。
最後に石につまづいて、倒れた。
砂だらけの自分を丸ごと洗い流せたらと波の方に近付くけれど、清めるどころか、一波一波が通って来た人のようで、余計にえぐい気分になる。
この身体と一緒に生きていくしかないんだ。丸ごと。自分ごと、汚れたまま。洗っても落ちはしない。
波まであと少し。月が顔を出し、海を照らし始めた。
暗闇に代わって、突然の薄白の世界。波がふざけたフリルのように近づいてくる。
白いのは波の花。手で掬ったら消えてしまう儚い泡。
痛っ。
ちくりとしたのは貝殻か、起こしてしまった蟹の子のハサミか。硝子か、身体の奥か。
今、私の愛している人たちは一つになっている。執拗に繋がっている。
感じながら、一方で私を探している。手に入らない方への執着で心を締め付ける。全身で家から放出されたそんな気配を感じるんだ。
きらきら、月に照らされて、夜の海が私を呼んでいる。
私は一歩ずつ裸のまま近づき、奏多の代わりに海水が身体の奥に入ってくるのを感じていた。
遠くから声が聴こえてくる。私のことを呼ぶ、二人の声。
18才。私は確実に何かを喪失していく。それはもう取り返しがつかない。
誰もが通るのに、誰もが気づかずに、過ぎていくその瞬間を。
夕映さん、あなたの熱を帯びた瞳に魅せられて。
奏多、あなたの射貫くような強い瞳に、私は自分を晒されていく。
fin.
海のdoll 水菜月 @mutsuki-natsumi
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