* 奏多 *


 彼と抱き合うと、潮の香りがしてくる。彼の体臭は海そのものだ。


 きっと海岸で産み落とされ、ずっと波をゆりかごにして育ったのだろう。

 人間の姿をしたイルカかもしれない。或いは、やさしい顔して内実は獰猛な部分もあるから、シャチか。

 抱き合うといつも海。ゆらゆら揺れて波の中。私は引きずり込まれて溺れていく。


 毎日、海岸で撮影している奏多の部屋には、写真がたくさんばら撒かれてる。

 青い世界、グレーイッシュトーンの波、空、雲。無作為に散らばる色。

 海のそばではいつも、世界は落ち着きなく動いているんだ。そんな部屋で抱かれるのが、私にとって何より海を感じられることだった。

 

 彼の手はやさしい。決して乱暴に私を抱いたりはしない。

 その癖、容赦はない。私の奥の奥まで届く長い指先。関節を軽く曲げただけで、芯に届く曲がり角を作り、私は快楽で口が閉じられなくなる。

 私が高校生だと知ったところで、きっと彼は1ミリも変わることはないだろう。


 彼の両手が私の胸の先を何度も撫でる。

 レンズを絞るように回して、私のスイッチを入れていく。

 せつなくて止められなくて、無限に望んでしまう。ねぇ、誰に対してもそうなの?


 私は瞬時に裸にされる。何もかも剥ぎ取られる。

 彼は洋服など目もくれずに、部屋に入った途端に私の衣を取り去ってしまう。

 どんなに着飾っても、試しに黒の下着を付けてみても、彼の前では何の意味もない。


 ある日、彼と天婦羅を食べたことがある。海岸沿いのお蕎麦屋さん。

 奏多は一瞬の躊躇もなく海老天の衣をはいで、海老を取り出した。

 まずその丸裸になった海老をむしゃむしゃと齧り、それから徐に衣も天つゆにつけて、何も変わったことなどなかったように素早く食べてしまった。


 外で天婦羅なんて食べたのが初めてだったから、それが正式な作法なのかもしれないと周りを見渡したけど、誰も衣をはいだりはしていなかった。

 お皿の上に取り残された時、衣は所在なく見えた。まるで海老天が脱ぎ捨てたカリカリのスーツみたいで、滑稽でもあった。


 私は、時々その海老になった気分になる。

 元は半透明だった生きた身体。高温の油で揚げられ、色鮮やかな朱の艶姿にされ、ぷりぷりの状態に持っていかれる。

 そして、余すとこなく、がぶりとやられる。私はいつしかそんな風に世界から消えるのかもしれない。


 海の匂いの中で、自身も潮を吹く。あの成分は何なんだ。感じた身体の液体の正体は。私は奏多が入ってくる瞬間を待ってる。胸がどきんとするんだ。

 海のくじらが迎えに来たように、私はあの人のお腹に打ち上げられて、胸を掴まれ、何度も揺さぶられる。身をよじって、悲鳴を上げる。


 奏多は私よりも、私の髪に愛着がある。背中まである黒髪を愛おしそうに撫でる。

 肌もすきだ。私の動く心臓よりも、表皮の方に吸い付く。

 いいんだ。私の本質に興味を持って、だなんて言えない。

 私はよく知っている。私は空っぽなんだ。だから、このままが似合う。

「夕映さんは知ってるの?」

「知る訳ないだろ」

「知られたら、どうなるのかな」

「夕映には俺が必要だから」

 私には?と聞かずに、首に手を回す。なぜ私はこの人に抱かれるのだろう。

 執拗に迫って来るくちびるに、胸が熱くなる。言葉はいらない。



「体使って、モデルに抜擢されたらしいよ」

 私に構うのに飽きてきたクラスメイトたちは、そう噂した。まるで私の行動を監視したかのように。

 噂を流したのは相川君なんだろう。その目は、私を手に入れたいと伺ってきていたものね。まただ。周りの悪意しか感じられなくなる。


 彼ならもしかしたら、奏多の家にまで付いて来た可能性だってある。

 開け放しの窓から、私たちの絡まる肢体を観察していてもおかしくはない。見られていたのなら犯されたも同じ。

 きっと毎晩、彼の夢の中で私は彼を誘惑し、私から望んで抱かれていることだろう。誰しも都合よく相手を牛耳ることが可能な、その頭の中で。


 ね、来て。私をすきにして。そう彼の中の私は恥じらいながらも大胆に誘うのだろう。

 私の分裂。まるで派遣された私。それを不快と思うか、思わないかは、女によってきっと違う。

 空想の上で抱かれたところで、私は一片も減りはしない。寧ろ、熱を帯びた視線が私を裸にするのを、面白おかしく見ている。


 私と言う人間は、どうしてこうも冷めているんだろう。冷静を装っているんだろう。その実、いつだって喪失感でいっぱいで、欠けていくピースを必死で埋めないとやっていけはしないのに。平気なはずがないじゃないか。それでも。

 自分、自分、自分ばかり。

 誰かのことを想って、誰かのために生きたことがない。これからも、この先も。



 海の上の歩道をふらふらと歩く帰り道。

 今は波が穏やかだ。どんな日もこの道を通る。バス停の手前で山道を登って戻っていく。潮のべたべたした匂いを身体中にまとわせて、ただ黙々と。

 そしてまた次の日、高い場所から降りてくる。海を望む坂道を行ったり来たりを繰り返す日々。息をはずませ、自分を手繰り寄せる。


 学校が海の近くであることは、私には必要なことだった。

 授業中でも波の音が鼓動のように聴こえてくれば、なんとか息をつける。窓を開ければいつだって潮風が肌を包み込む。荒れ狂う日さえ素晴らしい。


 海沿いの駅で降り、海沿いの学校に通い、海沿いのコンビニで働き、海沿いのライブハウスで酔いしれる。海、うみ、それが今の私の全てなんだ。

 奏多の背中に張り付いたシャツがすきだ。汗の匂いは海の香り。

 そっと耳を当てて、しっとりした布の感触を確かめる。耳が冷えて心地よい。


 彼が今、仮初に住んでいる家からは、すぐ海に出られる。私の海の家。

 海を眺めながら、波の音を聞きながら、潮の風に煽られながら。

 嗅ぎ分けようとするけれど、私はだんだんと、何処からが奏多で、何処からが海なのか、わからなくなる。

 彼はまるで両生類。海でも陸でも自在に呼吸ができる。

 私が何処にいても、彼は動物の勘で探り出してくれるような錯覚を起こす。


 鏡の前で自分を曝け出してみる。

 形のいい胸。自分の身体の中でここがいちばんすき。

 つんとして、私の手に少し余るくらいの程よい大きさ。このくらいが好みだ。

 触った感触もとてもいい。持ち上げてから手のひらに落とした重さが桃くらいで、両手で掴んでみると、やわらかい。女であることの充実。


 月に数日、硬くて張ってしまう日があるけれど、中から熟し過ぎてはじけてしまうかのようで、その張りがまた生きた証となる。

 勝手に月日が経ったことを数え上げる。私はどのくらいこうして生きていくのだろう。

 この先は果てしなく遠いのか、それともあっけない程に近いのか。わからないことを考えてみるのは嫌いじゃない。


 奏多が私の胸を探りに来る。後ろから、前から、手で、唇で、指先で、何度も、何度も。だから、この胸はあなたのものだ。

 心は置き去りにされても、私はその行為によって生かされている。



 うっかり朝まで奏多の家で眠ってしまった。とうとう帰り損ねた。もうどうせ言い訳はできないから家には連絡しない。気づかない可能性だってあるから。


 キッチンからいい匂いがしてきた。

 脱ぎ捨てられた奏多のシャツを羽織って行くと、彼は麺を茹でていた。

「おはよう」

「何を作っているの」

「たらこスパゲティ」

 大きな皿の上に、たらこの中身とバターの欠片が乗っている。その上に茹で立てのスパゲティがトングで盛られた。湯気がもわっと上がって、たらこのピンク色が鮮やかになる。

 それをさっと混ぜてから、奏多は魔法のようにちぎった大葉を散らす。ピンクと緑のきれいな配色。

「イカがあるとうまいけど、今日はシンプルに」


「初めて男の人に料理を作ってもらった」と言うと、奏多は「料理って程のものじゃないけどな」と笑った。

「底の方にたらこが固まってるから、よく混ぜろよ」

 フォークでかき混ぜてる私の横で、奏多がスプーンも使っていたから、その真似をする。まずはスプーンとフォークでスパゲティをぐっと引き寄せて、それからスプーンの上でフォークに巻きつけるのか。

 器用だね!って言ったら、片頬で苦笑している。私は世間を知らないらしい。


 たらこの塩味と大葉の香りが合わさって、喉に入って来る瞬間がたまらない。コンビニのより具は少ないのに、断然こっちがいい。

 人が作ってくれるごはんって、こんなにおいしいんだ。知らなかった。

 私は、その後黙ってその一皿を堪能した。お行儀悪いけど、お皿も舐めてしまうくらいに、泣き出したい程ずっとすがりついていた。

 私があまりに「おいしい、おいしい」って一口ごとに連呼するものだから、奏多は呆れながら、満更でもない様子だった。


 この日以来、奏多は時々、私にごはんを作ってくれるようになった。パンケーキとかイングリッシュブレックファーストとか、お洒落なものも登場する。時にはおやつにドーナツを揚げてくれたりまで。世の中のお母さんというのは、みんなこうなんだろうか。


 私はコンビニからファミレスにバイトを変えた。海沿いのファミレス。

「もっと食を見てみたくなったの」って告げたら、彼はきょとんとした顔をして、「ファミレスだとあっためるだけじゃねーの?」と笑った。

 でも、私にはこのくらいの段階を踏むのがいい気がするの。急にレベル上げると転げ落ちるでしょ。免疫がないんだから。


 奏多の隣で、手先を見ているのが一番楽しい。

 少しずつ手伝うようになって、レタスを洗ったのが新鮮だった。ちぎると、音が感触として伝わってくる。パリッ、シャリッと響く。

 たべるって生きることなんだ。抱き合うくらい、実感を伴うこと。




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