いつもの月曜日

かみたか さち

いつもの月曜日

「腹、へったなぁ」


 空を見上げ、細野が呟く。その声で猪狩は、月曜日の放課後というささやかな充実感を噛み締めた。

 三々五々下校する生徒たちが、私立高校の正門から吐き出される。

「細野、カラオケ行こうぜ」

 追いかけてきた細野の柔道部仲間が誘った。細野が、一歩後ろを歩く猪狩を示して断る。

「相変わらず、分からん組み合わせだよな」

 じゃあ今度、と手を振り、柔道部員は反対の道へ歩いていった。


 個人でインターハイ出場を決める柔道部の主将・細野と、常に俯き加減で影の薄い文学少年・猪狩いがり。名を交換した方がいいと揶揄されることが多い。つるむ理由をあれこれ聞かれた時期もあったが、いつも細野のひとことで終わった。


「なんか、気が合うんだよなぁ」


 その言葉に、猪狩の心は何度も救われていた。


 猪狩は、細野が見上げる空へ目をむけた。昼間の青さがようやく薄まった、初夏の空。

 もう一度、細野は大声で空腹を訴え、催促するようにチラリと視線を送ってきた。


 へっているのは、細野の腹ではない。


「なんか食う?」

「おう」


 柔道で鍛えた体に似合わない満面の笑みが、通り過ぎかけたファミレスへの階段を上っていった。


 いつもの月曜日。『学習日』と称して全部活が休みと定められた日の夕方の、猪狩と細野の風物詩。

 まっすぐ向かう窓際のテーブル。オーダーは入店前から決まっている。ドリンクバーと、細野は唐揚げ、猪狩はポテトフライ。小遣いが限られるので、アプリのクーポン使用。


 オレンジジュースを取ってきて鞄からライトノベルを取り出す猪狩の前で、細野は窓を背にスマホをいじる。テーブルに肘をつき、さり気なさを装って顔の前まで持ち上げるスマホの画面も、猪狩も、細野の眼中にない。あらゆるものを通り越した彼の視線がいく先を、猪狩は知っている。


 客の少ない店内で、テーブルを整えたり、たまに入店する客へ明るいあいさつをするアルバイトの女子高生。


 フライの匂いが近付くタイミングを狙い、猪狩は本から顔を上げた。


「週末だっけ、試合」

「お、おう」

「また上位狙えそう?」

「階級によるけど、今のところ大丈夫だろう」


 猪狩の肩越しに、スパイシーな唐揚げと山盛りポテトが置かれる。野菜ジュースをあおる細野の顔は、酔ったみたいに首まで赤い。


「ご注文は、以上でよろしいですか」


 マニュアル通りの澄んだ声にも、彼はしどろもどろに頷く。百戦錬磨の黒帯が、立ち去る背中も直視できず、飾りのパセリを一本つまみ上げている。


「いつ、告白すんの?」


 猪狩は、小声で聞いた。


「やめてくれよ、そんな。見ているだけで癒されるだけでいいんだから」


 満ち足りた細野を、猪狩はニヤニヤと見る。学内ではみられない、腑抜けた細野の顔。猪狩のへっていた部分も、満たされていく。



 月曜日ではない放課後はいつも、猪狩はひとりで帰る。家までの歩道を、石畳風に並べられたブロックを踏みつけながら歩く。


 しかし、入梅したこの日、異変が起きた。例のファミレスの前で、日常が崩れる。

 公立高校の制服。下ろした長い髪。おずおずとかけられる声。

 周囲を見回したが、猪狩の他に通行人はいない。彼女の目にしか見えない誰かがいるのかと、首を傾げて通り過ぎようとした。


「月曜日に来店される猪狩くん、ですよね?」


 胡散臭そうに見る猪狩に、彼女は咳払いをして背筋を伸ばした。


「ご注文は以上でよろしいですか」


 毎週聞いている声だった。


 いきなりの告白。付き合って欲しいという言葉が、猪狩の耳に入らず、肩の上を滑っていく。


「いつも猪狩くんが読んでいるシリーズ全部、私も好きなんです。だから、趣味があいそうだなって」


 細野ではなくて。


「あの人は、その。私、見た目で判断されて、そのあとオタクっぽいって嫌われたことあって」


 頭の中の何かに、ピシリとヒビが入る。


 たまたま店に寄ったとき、足の悪い年配の客に優しく手を貸していた姿。はしゃぎすぎる幼児を柔らかく、しかしきっぱりと叱る声。テーブルの縁まで、丁寧にクロスで拭く眼差し。

 行動に現れる細やかさに心惹かれたと、真っ赤な顔で猪狩に打ち明けた細野を、彼女は知ろうとしていない。


「だけど、なんか彼、怖い感じで」


 モジモジ俯く彼女は、細野を見た目で判断していることに気が付いていないのだろうか。


「彼は、そんな人じゃない」


 言い残して、猪狩は背を向けた。ほんのり夕方の色になった湿った空気を掻き分けて、歩く。

 歩道のブロックが一片、はずれかけていた。



 定期テストが終わった。いつもの月曜日も、終焉のときを迎えていた。


「猪狩、ごめんけど、今日は」


 柔道部を引退した細野が他校の生徒に告白し「友達から始めるなら」と承諾された話はすでに、男子生徒の間に稲の根のように広く浸透していた。


 それでも『なんで』と言いかけた猪狩は、心の中で舌打ちした。


 細野の恋が実ったら、『よかったな』と肩や背中を掌で叩き、『いいよなぁ』とか言いながら爽やかに笑おう。そう考えていた。鏡の前でシュミレーションまでしたのに、猪狩の表情筋は引きつっていた。


 細野の太い眉が八の字になる。


 大丈夫か?


 音にしない声が、猪狩には聞こえたような気がした。


「やだな。僕なら、平気だよ」


 おそらく、細野の中の猪狩は、クラスで仲間はずれにされていた小学生のままなのだろう。ただひとり、細野が普通に接し続けてくれた。そのまま高校まで付いてきてしまったが、猪狩は知っている。


 細野の選ぶ進路と、猪狩の目指す将来は違う。


「平気だよ」


 正門を出て、左右に別れる。カーブミラーに、ファミレスの彼女が映っていた。細野のいつもの帰り道は、左。ファミレスと猪狩の帰り道は、右。


 夕方になって尚太陽に炙られた月曜日の放課後に、ひとり歩道のブロックを踏みしめる。熱せられた歩道は、積もった腐葉土のように頼りなく感じられた。


「はら、へった、なぁ」


 そっと細野を真似てみた。


 受け止める者のない呟きは、顎から流れて転がり落ち、ブロックの隙間に入り込んでいった。そのまま誰にも気付かれることなく、朽ちてしまうだろう。

 それとも、いつか種となり、鮮やかな葉を天に向かって広げる芽となることもあるだろうか。


 電信柱で蝉が鳴いた。


 へっているのは、腹ではない。

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