わたしの優しい鼓動を聴いて

泉坂 光輝

あなたの優しい声を聴かせて



 昏睡こんすいとは、意識を失い、周囲の刺激にも反応を示さず、深く眠り込むことです。

 しかし、昏睡状態から回復した患者が当時を鮮明に語ることができた症例があることを皆様はご存知でしょうか。

 そこから世間では、昏睡状態でも「聴覚」は残るのだと語られるようになったそうです。




 わたしは残った力で息を吸い込み、ゆっくりと吐き出したあと、もう自分には呼吸をする力すらも残っていないことを悟りました。


 どれだけ息を吸い込んでも、水中で溺れるような息苦しさが募るのです。


 わたしは途方に暮れるほどの月日を、この身体を蝕む病と戦い続けてきました。

 けれど、その戦いもあと少しで終わります。それは、嬉しいような悲しいような、不思議な感覚でした。



 わたしの意識が澱み始めてから間もなく、夫へ連絡が入れられたことはスタッフ同士の会話から読み取れました。


 あの人は間に合うでしょうか。



 その時、硬い扉を叩く音と共に、呼吸を乱した人物が病室に飛び込んで来るのがわかりました。



和音かずね……!」



 その慌てた声を聴いて、わたしはそれが夫であると確信しました。


 時刻は午前4時前、きっと彼は柔らかい黒髪に寝癖を携えて、わたしの手を握っているのでしょう。

 冷えるわたしの手のひらに、彼の体温が移動してくるのがわかります。


 よかった、間に合った。そう思った直後でした。



 手が離れ、彼は酷く取り乱したように声を荒げました。



「どうしてもっと早く連絡をくれなかったんだ! 息が止まってからじゃ遅いんだよ!」



 彼の声が上から下へと崩れ落ちるように移動していきます。

 その言葉に、わたしは愕然としました。




 確かに、わたしの呼吸はほんの少し前に止まっていました。


 それでも、わたしにはあなたの声が聴こえています。だからどうか、そんな悲しいことを言わないでください。


 わたしの心臓が止まるまで、わたしの脳が機能しなくなるその時まで、あなたの声は確かに届いているんです。

 その最期の5分間を穏やかに過ごせるように、どうかあなたの澄んだ声をわたしに聴かせてください。


 わたしが生きる最後の記憶を、あなたの優しい声でいっぱいに満たしてください。


 辛い病床の記憶をも吹き飛ばしてくれるような、愛情たっぷりの甘く優しいあなたの声で。




 ようやく落ち着きを取り戻した彼は、再びわたしの手を握ります。

 その時、わたしの指先が微かに動きました。



「和音、わかるのか」



 わたしは心の中で頷きました。



「もっと早く来てやれなくてごめん」



 いいえ、そんなことで謝らないでください。



「たくさん頑張ったね」



 ありがとう。

 わたしと一緒に戦ってくれて。



 彼はわたしの胸に、そっと耳を押し当てました。


 弱く響くわたしの心音を聴きながら、彼は優しい声で言葉を紡ぎ続けます。

 それは、とても温かい二人だけの時間でした。



 緩やかに落ちていく心拍数を感じながら、彼は少しだけ嗚咽を漏らしたあと、甘い声で囁きました。



「愛してるよ」



 はい、わたしもあなたのことを──。




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わたしの優しい鼓動を聴いて 泉坂 光輝 @atsuki-ni

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