記憶と主観

ある人がそこにいるという感覚は間違いなく五感から得るもので、厳密に言うと視覚/聴覚/嗅覚/触覚/味覚に拠るわけですが、つまり突き詰めればそれは情報です(味覚で他人の存在を確かめることがないというツッコミはさておいて)。他者の存在は五感によってもたらされる情報によってのみ感じ取ることができるわけです。例えば目の前に存在している友達は構成する情報を五感で受け取ることによってそれと感じ取れます。もっと話を進めると、目の前に存在していない友達はどうでしょうか。かつて五感で得た情報を記憶として処理した、いわばそれも情報です。過去に分類されるものはすべてただ過ぎ去った情報でしかないため、確かに存在するという確信があったとしても記憶が確かにあったということにはなりません。記憶が曖昧なのか曖昧なのが記憶なのかはわかりませんが、そのあれをあれすればあったものがなかったことになったり、転じてなかったことがあったことにできたりするかもしれません。
なんとなく関係があるようなないような前振りが長くなってしまいましたが、この話はそういう記憶の曖昧さ、認識のファジーさに関するお話かなと思いました。このお話は彼あるいは彼女が自身の中に彼あるいは彼女を作り出してしまうお話です。誰から誰のという具体的な話は本編を読んでくださいという感じになってしまうのですが、ともかくこのお話の主軸に置かれているのは感情が認識に及ぼす何がしかみたいな感じだと思います。思い込みがフィジカルに影響を与えることはあると聞きますし、ましてメンタルならなおさらでしょう。メンタルによって見え方が変わってくるのが主観というものです。主観によって観測されることが客観によって観測されないことはあり、とはいえその客観だってなにかの主観なのですから、どこから見た主観が真なのかはやはり主観によってしか判断し得ないというお話でもあるかもしれません。
彼あるいは彼女が何かの主観には存在して何かの主観には存在し得なかったとしてもそれを判断するのはやはり自身の主観になるということだと思います。物語上の主観を通した情報を読者の主観によってどう介在させるかはどうやっても読者次第なのでしょうから。
僕の主観で語るとするならば彩子ちゃん超可愛いじゃんヤンデレっ子萌える!となるのですが、誰の主観を挟むでもなく益体もないことは分かるのでこの辺にしておこうと思います。
さて、この物語はもとぷに企画に投稿されたものです。というかもとぽんさんは主催者側です。お疲れ様でした。よかったら他の参加作品も読んでみてくださいね。
もちろんこの作品もですよ!
個人的にはタイトルの意味とオチがうまくはまってすごく好きです。
人によって様々なことを考えられる作品だと思いますので是非~。