思い出で待ってて

雨野

思い出で待ってて

 通学路を歩いていた。あまりの暑さに少し気が遠くなり、ぼうっとした瞬間、車が猛スピードで走り抜けていく。ほんの少しの風が心地よい。

 やかましいことこの上ないセミの声。サウナの如き暑さと湿気。青色の絵の具で塗りつぶしたような空。体に張り付く制服。手をかざしても眩しい太陽。

 今まで体験したことのないような夏が容赦なく僕を襲った。


 そして、今、僕の手に握られている一通の手紙。


 僕の記憶の再生はいつもここから始まる。


――――――――――――――――――――――――――――――――


 人間の頭というのは厄介なものである。今僕が最も厄介だと思っているもの。それは記憶だ。覚えて欲しいことは覚えてくれないくせに忘れたいことはなかなか消えてくれない。これには非常に苛立たしいものがある。鉛筆で書いたり、消しゴムで消された文章、の様にうまくはいかないのだものだ。誰だって教師が書いた板書の内容を一発で覚えてしまいたいものだし、嫌なことは課金して手に入れたハズレキャラの様に消してしまいたいものだ。

 僕…桜井侑斗は人間の、いや自分の頭の性能の低さに憤慨していた。僕が所持する脳みそは両親の頭の性能を足して2.5で割った程度の能力しか持たず、教科書やらノートやらを見つめては四苦八苦する毎日を送っている。何が言いたいのかというと、僕の目の前にはテスト期間が迫りつつある、ということだ。

 勉学に勤しむ学生である僕には覚えたところであまり役には立たないであろうが薄っぺらいテストの内容には書かれるであろうことが山のようにある。正確に言えば毎日の授業から生成されていく。塵も積もれば山となる、と言うやつだ。できれば山ほどではなくそこらへんの岡だとか、砂場の山とか、それくらいにしておいてほしいものであるが教師たちは中々に非情である。テスト範囲は教科書がある限り伸び続け、覚えるべきことは出席日数を消費するたびに天高く積み重なっていくものである。

 さて、話が長くなったが、その極悪非道な教師たちが繰り出すテストを前にして、僕、桜井侑斗は重大な問題に直面していた。学生生活、いや、人生に関わる重要な問題である。


 それがこの手紙の存在である。


 この手紙が自宅のポストに入っていたならば話は単純である。先月課金したソーシャルゲームの請求書に間違いはない。もちろん僕のくじ運の悪さでは結果は誰もが推測する通りであり、僕は今月のお小遣いをほぼほぼゼロで過ごすことになった。

 しかしこれは違う。もう発見された場所からして違う。学校の、見慣れたぼろい靴箱の中で発見されたのである。次に文字である。コンピューターで打たれ大量印刷によって生み出されたフォントではなく明らかに女子の筆跡であった。封筒には桜井侑斗様、と書かれている。そう、つまりこの僕宛である。


 手紙。靴箱。女子。


 このいくつかのキーワードから僕の超低性能な頭脳は珍しく高速で答えをはじき出した。


 これはラブレターだ。


 この冬眠生活を続けてきた僕にもついに春が来たと言うわけである。そんな生活を続けすぎ、積もり積もった雪は万年雪として圧縮され氷河としてどこかを彷徨っていそうな気もするが、まあ秀でた容姿を持たない分少し遅れただけであり、その苦情やら助言やらは僕の両親にまとめて言っていただきたい。


 さてそのような理由から、僕は授業が終わると脱兎のごとくすさまじい速度で家へ帰り、靴を脱ぎ捨てると六畳半の我が部屋へと籠った。


 いざ開封の儀である。

 そして僕は明日から始まるであろう桃も薔薇もストロベリーチョコレートもびっくりなピンク色の毎日に胸を膨らませ、やたらと分厚いその手紙の封を切り、中身を見た。見たのだったが。


 中身は、僕が想像していた薔薇色のものではなく、とても奇妙なものだった。

 

 僕の記憶の再生は続く。


――――――――――――――――――――――――――――――――


 僕が期待したのはうら若き乙女が書いたであろう美しい文字で、拝啓、から始まる文であった。しかし前述の通り、それは非常に奇妙なもので、手紙、と呼ぶにはふさわしくないようにも思えた。なぜなら中身はただひたすらに箇条書きだったからだ。

 それも今まで見たことのないような内容の箇条書きである。


 黒髪、短髪、眼鏡、色白、少しのそばかす、三白眼、尖った鼻、尖った犬歯、薄い唇、尖った耳、やせ型、細い腕、なで肩、細身、平べったい胸、小さな手足、浮き出た鎖骨、制服、紺色の靴下、赤いリボン…。


 そこには延々と『人の特徴』が並べられていた。

 そこにはただひたすら『情報』だけがあった。

 そこには感情はなかった。


 家電の説明書のような形で、ただただステータスや、使い方を載せただけのようなものであり、まだ説明書の方が使い手のことを考えている分人間味に溢れているように思えた。この意味不明な文章、いや箇条書きが便箋10枚に、携帯電話の契約書も逃げ出しそうな細かい字でびっしりと書き込まれている。

 さて、僕はこの手紙を3回ほど読み直し、お付き合いがしたいなどというロマンチックな単語が無いことを確認し、最後にパソコンに打ち込んでからGoogle検索にかけてやろうかなどと考え、散々脳内会議を繰り返した結果、得られた結論は『がっかり』であった。浮いた話の少ない大量生産型男子高校生の一般的な反応である。

 次に何なのだろうこれは、という気持ちが浮かび上がる。意味不明なものを渡された大量生産型男子高校生の一般的な反応その2であるが、答えは出ない。

 そして最後に浮かび上がった気持ちは『気持ち悪い』である。これはもう大量生産型男子高校生の一般的な反応ではなく、ストーカー行為に怯える一般人の反応である。自分が変な汗が出ているのを感じた。

 これが小説や映画のような物語だというならこれは呪いの手紙であり、ここらで鏡から飛び出してくる悪霊やら窓を叩き割って入ってくるゾンビが出てくるはずである。しかしここは安全さだけには定評のある国日本であり、さらにいくつかの不満はあれどノックなしには入ってこない両親を有している我が部屋である。あんな本を読むなりそんなことをする程度の身の安全は保障されている。いや、されていてほしい。

 自分に言い聞かせながら、窓の外を確認し、自分の後ろに呪われた何かが存在しないことを確かめ、僕は手紙をごみ箱に捨てようとした。こんな絵にかいたような不吉な一品は今すぐに捨てるべきである。

 ところが、だ。

 手紙は僕の手を離れようとしなかった。そこで僕は、自分の指が手紙を強く握りしめていることに気付く。

 捨ててはいけない気がした。なぜだろうか、なんだか自分の一部を捨ててしまうように思えたのだ。自分を構成する何か、すごく身近なもの。それを捨ててしまうような気がした。それをうまく言葉で言い表せないのは、今までこんな経験が無いからである。一流のオカルトマニアであれば週3くらいで呪いの手紙を入手できるのかもしれないが、こちらは極めて一般的な男子高校生である。不思議な気持ちになるのも無理はない。


 僕はその不思議な気持ちを抱えたまま、手紙を机の引き出しへ放り込んだ。そして、晩飯までの時間はゲームに費やすことにする。先ほどテストが近い、などということを長々とお話ししたような気がするが気にしてはいけない。そんなテストなどという教師による矮小な嫌がらせより画面の中の世界を救うことが先決である。

 僕はテレビのスイッチを付けた。


――――――――――――――――――――――――――――――――


 夢を見たのはその日のことである。いや、正確に言うと、その日から、である。


 僕はあらゆるものがぼやけた世界にいた。まともに前が見えない。ふわふわした地面に僕は立とうとして、床が存在していないことに気付く。よろめく。同じようにふわふわした壁に手をつこうとして、今度は壁が存在していないことに気付く。

 その空間には何かがあるようで、何もなかった。地面も壁も空も、僕が意識した途端にぼやけて消える。

 遠くに、いや正確に言えば遠いのかすらわからないが、人影が見えた。

 その人物は手を振り、僕に何かを呼びかける。

 その声は届かない。

 彼女はまた何かを叫ぶ。

 また僕には届かない。

 その人物は手を振り、必死に叫び続けている。

 

 僕はその人物を知っている気がした。


 誰だっただろうか、いつだっただろうか。どこだっただろうか。自分が巡らせた記憶は地面や壁、空に投影され、ぼやけて消えていった。


 そうだ、彼女は。


 

――――――――――――――――――――――――――――――――


 翌朝ひどい気分で目が覚めた僕は両親がいないことをいいことに、「体調が悪い」といった考えるのに3秒もかからない言い訳で学校を休むことに決めた。

 夢の内容は全く覚えていないが、ひどくうなされていた気がする。ベッドから転がり落ちたぬいぐるみや枕、いつの間にか止められていた3つの目覚まし時計がその証拠である。間違いなくこれは亡霊の仕業だ。いや、これはサボっているわけではない。むしろこの先に控えるテストに万全の体調で挑むための、いわば未来への投資である。

 我ながらザルに失礼になるくらいに穴だらけな言い訳をしながら僕はゲームのスイッチを付ける。昨日寝る直前まで進めたゲームは、勇者様御一行が突然現れた山賊一行に負け、生き埋めにされたところで止まっていた。このままでは勝てないのでレベルを上げるためにフィールドを歩き回る。出てくるモンスターを倒し、経験値を入手する。そんな単純作業を続けた。

 同じような作業を繰り返していると、その内これ前もやったな、という気分になるものだ。その次には飽きてきたな、という気分になる。そして最後には睡魔というモンスターが襲いかかってくる。これはもう世界の理である。気付いた時には僕が操作する勇者達は無残にも全滅していた。敵が急に強くなるエリアのため、生半可な力では歯が立たないのだ。所持金が減るのが嫌なので、僕はゲーム機の電源を落としてリセットする。テレビからの音が消え、部屋にはほんの少しの静寂が訪れた。

 我が家の電話がけたたましく鳴ったのはその時だった。ベッドから出ない生活を謳歌していた僕は嫌々ながらリビングまで歩いていき、受話器を取る。

「ちょっと侑斗、あんた学校休んでるの?」

 母だ。両親が共働きのこの家は、僕にとってはサボりライフを構築するためのうってつけの環境である。

「いやいや、風邪だよ、風邪。夏風邪。」

 そうこれは風邪だ。ちょっと熱と咳が出ないだけである。母がどうでもいいことを受話器の向こうで話し続け、僕は携帯をいじりながらそれに生返事を続けた。

「まぁいいけど…新聞とか家に入れておいてね、ちょっと今日は私も父さんも帰り遅くなるから」

「はいよ、じゃあね」

 電話を切り、僕は玄関へ向かった。郵便受けに突っ込まれているものを乱暴に引き出し、居間のソファに放った。ミッションコンプリート。

 同時に、郵便物の中から白い封筒が転がり落ちた。

 宛名は、「桜井侑斗 様」。

 非常に嫌な予感がした。そして嫌な予感とは大抵当たるものだ。

 それは昨日僕の靴箱へ投函され、ぼくの乙女心をもてあそんだ偽恋文と同じような封筒であった。一つ違うことと言えば、封筒の裏に差出人の名前が書いてあることだろうか。そこには『犀川』とあった。

 昨日のような背筋が寒くなる思いはもう金輪際御免であり、正しい行動としては読みもしないでこの手紙を破り捨てることであろう。

 だがなぜだろう、その真っ白い封筒からは変な圧力を感じた。

 僕はそれを読まなくてはいけない。その不思議な気持ちが僕の手を動かした。


 手紙の封を切る。

 そこには前回と同じように、ただただ感情のない箇条書きの文章が並んでいた。


 鼻の先をかく。鎖骨を親指で叩く。歩くときは左足から。左利き。ペンだこがある。箸の持ち方が変。猫をなでるときは鼻から。犬には嫌われることが多い。道の端を歩く。二人以上で歩くときは後ろを歩く。学校は自転車で通う、教科書のほとんどは机の中。ものをよく落とす…


 もうたくさんだ。前の手紙よりもさらに意味が分からない。

 僕はまた昨日と同じように背筋を寒くしてから3回ほど手紙を読み、またもや目当ての単語がないことを確認し、最後にGoogle検索でこの文字列たちを『呪いの手紙』か何かどうかであるかを確認しようとしたがやめた。無意味だ。

 しかしこれはいったい何なのだろうか、と考える。こんな人間の特徴や癖やらを送ってくるとはよほど特異な人物であろう。もしこれが本人のことであるなら、よほど自分に自信のある人物のようであるが、それにしては手紙を読む限りは中々に貧相な肉体とひねくれた性根を持ち合わせているようである。なにせこの僕を期待させて弄び続けているのだから。

 それがこの、『犀川』という人物なのであろうか?いったい何のために。

 何回目か忘れるほど背筋が寒くなり、そのまま考え続けたなら本当に夏風邪になりそうであるため、ぼくは思考を停止した。

 部屋に戻り、再びゲームをつける。手紙はやはり捨てるのが偲ばれたので机の引き出しに乱暴に放り込まれた。どうかこれ以上増えないことを祈ろう。

 コントローラーを持つ。唐突に視線を感じた。

 後ろを振り向くが、そこにはもちろん自室の扉があるだけである。部屋にはテレビの音以外に音はしない。ゆっくりとドアを開いて廊下を確認するが、ゾンビが待ち受けていたり、意味が分からない罠がしかけてあったりもしない。

 気のせいであろう。

 安全第一、とつぶやき、僕はゲームの中の世界を救いに出かけた。

 

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 さて、いささか展開が早すぎる気もするが、三通目の手紙が来たのは次の日のことである。水曜日。それは理想的な惰眠をむさぼる生活から抜け出した僕の靴箱の中に放り込まれており、またもや不思議な圧力を放っていた。

 さらに四通目の手紙は次の日の帰り、自転車のかごに放り込まれていた。木曜日。

 五通目は次の日、学校に行こうとした瞬間に通学鞄の中からぱたりと零れ落ちた。金曜日。

 六通目は次の日に着ようとした服のポケットの中。土曜日。

 七通目は以前と同じように自宅の郵便箱の中に。日曜日。

 中身は全て同じような、『ある人物』の特徴が嫌と言うほど書き連ねてあった。差出人は全て『犀川』である。

 もうたくさんだ。

 七通目の手紙の三回目の朗読を終え、僕はまた一通り背筋を寒くした。一週間連続で冷やされた背中は真夏の暑さを軽々と跳ね返せる段階に来ている。手紙の内容を読み、清い交際を願う乙女の片鱗を感じないことを確認してから手紙をいつもと同じく机の引き出しに乱暴に放り込んだ。

 僕は決意した。こんなストーカー行為を繰り返すこの『犀川』という偏屈な輩に鉄拳を喰らわせるか警察に突き出してやらねばと。

 積もった一週間分の手紙が崩れた音がした。

 そもそもこの『犀川』という人物はいったい何者なのか。休日にも服やら鞄やらに欠かさず手紙を入れてきているが、部屋に入れるわけがないので、ある程度僕の行動を予測し、先回りして手紙を書いていることになる。中々に筋金入りのストーカーである。

 それに加えて問題が2つあった。

 1つ目は以前感じた視線、である。それは日々強くなり、そろそろ見つめられ続ける僕本体に火が付きそうなほどだ。意識しすぎなのかもしれないが、どこにいても見られている気がする。その視線はどこにいても僕につきまとっていた。学校。家。外出先。後ろを振り返ってみても誰もいないはずなのに、である。

 2つ目は、依然見た夢のことである。毎日同じ夢を見るのだ。何もかもがぼやけた空間で、あの『人物』が僕に対して何かを叫び続ける。そんなシンプルな夢を。毎朝毎朝そのせいで枕やぬいぐるみはベッドから転がり落ち、目覚まし時計は止められている。甚だ迷惑である。


 聡明な頭脳を持つ僕は犯人捜しを始めた。ここまで見事に僕の生活にマッチしたストーカーを実行できる、且つ学校にも侵入可能な人物。それはもちろん同じ学校の人間のはずだ。だとすれば教室の座席表で『犀川』を見つけてしまえばいい。簡単な話である。

 見つけ出したら最後、厳罰に処すべきである。この冴えない男子高校生に期待させた罪は重い。これは絶対に許されないことである。その罪を白日の下にさらけ出し、全方位に向かって懺悔の言葉を叫ばせてやりたいものだ。ただし可愛い場合のみ情状酌量の措置を与えてもよいとは思う。そのためにもまずはこの人物を発見せねばならない。

 その日、僕は犯人確保のために3時間早く学校へ向かった。これは誰よりも早く学校に入り込み、靴箱の近くに張り込むという古典的な作戦である。惰眠を貪ることにかけては誰にも引けを取らない僕にとってこの3時間は何よりも大切な時間である。バイトの早朝手当レベルで許される罪ではない。許すまじ『犀川』。

 学校に到着し、靴箱を開けた。手紙はない。とりあえず一安心である。

 僕は自分の靴箱の後ろに身を隠し、登校してくる奴らを片っ端からチェックすることにした。僕の靴箱に手をかけるやつがいないかを確認していくが、この時間に来る奴らなど部活の早朝練習の奴らばかりである。最初は犯人への憎しみで冴えていた僕の頭もだんだんと眠くなってきた。ついうとうとしてしまう。


「桜井君?」

「な、なんだ?」

 唐突に声を掛けられ、僕は跳び起きた。学校の玄関なんかで寝ていたら間違いなく不審者、または急病人である。何事もなかったかのように立ち上がり、理性的な返答をしようと僕は口周りの涎を吹いた。あたりを見回す。

 誰もいない。

「あれ?」

 もう一度見回すが、やはり誰も居ない。さらに一回。もう一回。空を飛ぶ秘密道具のように回転してあたりを見回すが、周囲には誰もいなかった。

「おかしいなぁ」

「何が?」

「いや、声がしたんだけどさ、誰もいない、あれ」 


 確かに、声がした。それも、すごく近くから。


「聞こえてるの?」

 さらに自分の周りを3周ほど見回し、全く人気のないことを確認してからやっと異常事態に気が付いた。

 女の声だけがしている。僕は背筋が寒くなった。ここ数日寒くされ続けた背筋はもう真冬に近い。

「お前、なんだよ、どこにいるんだよ」

 声が無人の校舎に響いた。靴箱の周りには不自然なほど人気がない。

「私の声が、聞こえるのね?」

 『彼女』の声は、信じたくないものだが、僕の右、真横からしていた。つまり、『彼女』は僕の隣にいるのだ。そこには何もない。何もないはずである。


「やっと成功したわ…。長かった。本当に」

「今は声だけ。まだ足りない。まだ私が足りないの」

「もうすぐ完全に重なる。まだ少しのずれがあるみたいね」

 『彼女』は一人で話し続けている。

 一方僕は動くことができなかった。今まで経験したことがないものがすぐ隣に存在している。そんな単純な恐怖が僕の全身の関節を固めてしまっていた。

 自分の足元がどろどろと音を立てて崩れてていく感覚。

 時間も空間も溶けていく。

 そうだ、これはいつも見る夢の中の感覚に似ている。地面も、壁もない世界。そこであの『人物』が僕に叫びかける。

 あの人物は『彼女』だったのだろうか。


 どれくらい時間が経ったのだろうかさえもわからない。動けずにいる僕の横で『彼女』がゆっくりと微笑んだのが分かった。

「これで、やっと会いに行ける。もう少しで。だから」

 声は少しずつ離れていく。

「待っていて。もう少しだけ」

 『彼女』の声と、その存在が少しずつ消えていった。それと同時に僕の体が、氷が溶けていくように動き出す。自分でもびっくりするくらいの荒い呼吸をしていた。

 時計は始業直前の8時をとっくに回り、僕は靴箱の前に立ち呆けていた。体中汗でびっしょりになっている。大勢の生徒が僕を心配そうに見つめている。当然だ。3時間近くも靴箱の前に立ち続けているやつがいたらそれは間違いなく不審者か靴箱を住みかとするホームレスのどちらかである。

 必死に眩暈を堪えながら汗を拭く。

 自分の手に手紙が握りしめられていることに気が付き、反射的にそれを地面に叩きつける。手紙の差出人の名前が、黒い瞳のように僕を見つめた。


『犀川彩子』


 周りがざわざわと騒がしくなる。

 くそっ、と一言呟いて手紙を掴む。周囲の視線が痛いほどに刺さるのを感じた。

 教室へ向かう。この『犀川』という人物を見つけ出さなくてはいけない。

 

 始業のチャイムが鳴った。


――――――――――――――――――――――――――――――――


 上の空、という言葉がぴったりと当てはまる状態で朝のホームルームを終え、僕は片っ端から教室を回った。教壇に置いてある教師用の座席表を確認していく。

 常識的に考えて幽霊などいるはずがない。何らかの手段で声だけを伝えてきたに違いない。『彼女』の姿が見えなかったとか、表情が分かった気がしたとか、気づいたら3時間が経っていたなどというのは超常的な現象でもなんでもない。きっと僕の体調が悪いだけである。少し自堕落な生活をつづけた報いだ。そう自分を無理やり納得させようとした。本人さえ見つけてしまえばその納得はより強固なものになるはずである。


 目的の人物は意外なほどすぐに見つかった。2年5組。出席番号16番。窓側の一番後ろの席。犀川彩子。こいつだ。

 しかしそこには誰の姿もなかった。

「なあ、犀川彩子ってやつ、どこにいるか知らないか?このクラスなんだけど」

 僕はたまたま教室から出ようとした女子生徒を捕まえ、質問する。

「犀川…?」

 きょとんとした目で聞き返される。

「そう、こいつ。あれ、君ここのクラスの人だよね?」

 座席表を指さし、もう一度尋ねる。

「そうですけど…うちのクラス犀川なんて人いませんよ?」

 女子生徒が怪訝そうな目で僕を見る。

「いや…この座席表に載ってるじゃん?ほら、犀川って。あそこの窓側の、一番後ろ」

 僕は少し声を荒げた。自分に余裕がなくなってきたのを感じる。苛々としているのだ。しかし返ってきたのはただでさえ無い僕の余裕をさらに削り取る一言だった。

「そこに…席なんてないですよ?座席表にもそんな名前なんて…」

 女子生徒の表情がどんどんと曇っていくのに気付いた。これは警戒を強めているのだ。

「わかったもういい、ありがと」

 教室の奥へと進んでいき、今度は窓側にたむろしている男子生徒の集団に話しかける。

「なあ、この席の奴が今どこにいるか知らないか?」

 物に当たるのは好きではないが、いら立ちを隠せない。机をばん、と叩いた。

 叩いたはずだ。ここには確かに机と椅子があり、座席表には犀川の名前がある。

 あるはずだ。それなのに。

 その男子たちも、先ほどの女子と同じような反応を見せた。

 大丈夫か?といったような表情。悪ふざけか何かかと思っているのか、笑いかけてくるやつもいる。

「ここの席だよ!ここの」

 机をばんばんと叩く。叩いているはずだ。ここには机がある。しかしそこまで言いかけて、言葉に詰まった。

 確認が必要だ。

「ここに席って、あるよな?」

 男子生徒達は無言で首を振った。そんなばかなことがあるかよ、と言いかけて、教室中の人たちの視線を感じる。一瞬でこの空間には居たくない、という気持ちで僕の頭の中は一杯になった。

 礼を言い、とぼとぼと教室を出る。少し遅れて、後ろから笑い声とひそひそ話が聞こえた。内容を必死に耳に入れないようにして走り出す。

「探してくれてるのね」

「でも無駄よ」

「まだ、足りないの」

 また声が聞こえてくる。いや、声など聞こえない。聞こえない。大丈夫だ。僕は大丈夫。必死に言い聞かせる。教室の鞄を取り、そのまま早退することにした。


 僕の記憶の再生は続く。


――――――――――――――――――――――――――――――――


 家の鍵というカギをすべてかけ、カーテンを閉めると、僕は自分のベッドに潜り込んだ。こういう幽霊に追いかけられている時なんかは両親が共働きなのが恨めしいものだ。しかし一般的にこういう時は訪れない。

「やっと成功したの」

 また『彼女』が話しかけ始めた。この狭い部屋にいても存在が見えない『彼女』はもう確実に幽霊なのだろう。

「何なんだよお前は、どうして俺につきまとってんだよ」

 必死に問う。僕の声は情けなく震えた。

「失礼ね。あなたが私を作ったの」

「作った?」

「そう。送った手紙、読んでくれたでしょう?」

 そう言って『彼女』は手紙を目の前にぽとりと落とした。


 白い腕が見える。

 見えるはずのないものが。

 『彼女』が、見える。

 

 暗い部屋の中。そこには腕が2本だけ浮いていた。

 この真夏の日々に恐ろしく似合わないほど白く細いその手は、当たり前だがこの世界のものとは思えなかった。

 2本の腕は糸で吊ったような不自然な動きではなく、昔からそこにあったように滑らかに動いた。

「手紙、読んでよ」

 その腕は落とした手紙をつまむと、僕の目の前に運び、くるくると回した。先ほど投げ捨て、握りしめたためにできた封筒の皺、『犀川彩子』の名前、そして僕の名前。それだけの少ない情報で頭がパンクしそうになる。

「これで、ずっと一緒にいれる。今度はやっと、成功すると思うの」

「成功?さっきから言ってるそれ、どういうことなんだよ、わからねえよ」

 うふふ、と彼女が笑った。いや、笑ったような気がした。知っているでしょ、と言いたげに。


 そう、僕は薄々気づいていた。

 先ほどの犀川の「僕が彼女を作った」という言葉。

 彼女は、僕の頭の中に『自分』を作ろうとしたのではないか?

 

 自分の存在を情報として、手紙へと詰め込み、それを僕が読む。

 それが蓄積されることで、僕の頭の中には『彼女』が出来上がっていく。プログラミングの様に。

 彼女がどんな存在か。どんな挙動を、行動をするのか。彼女はどんな姿か。どんな服を着るのか。どんな話をするのか。好き嫌いは?仕草は?一日の生活は?


 そうだ、それらは全部、今まで読んだ手紙に書き連ねてあったではないか。あの、膨大な量の文章に。箇条書きされた、感情の感じられなかったあの文章に。


 それを読んだ僕の頭の中で、その膨大な情報は蓄積され、『彼女』を構築したのではないだろうか。

 本当は存在しない人物。『犀川彩子』を。


 だとすれば、だ。僕はこの現象から逃げる手段が無い。人間の頭とは不便なものであり、忘れたいものを簡単に忘れることができない。むしろ忘れたいことほど頭の中に残るものであるからだ。


「手紙、読んでよ。桜井君。」

 『彼女』の手がさらに近づき、遂に僕の頬に触れた。

「読むわけないだろ!」

 反射的に手が『彼女』の腕を跳ね除け、られずすり抜ける。手紙がぽとりと目の前に落ちた。

 そうだ、この手紙を読まなければいい。これ以上『彼女』の情報など蓄積させなければいい。こんな手紙など破り捨ててしまえばいい。机に無駄に溜まった手紙も燃やすなり寺や神社に持って行き、供養してもらえばいい。それで解決するはずだ。

 そう思いながら読んだ手紙の内容はたった一行だった。


 学校で待っています


 なぜ、僕はこの手紙を開封しているのか。

 気づいた時には開いたままの手紙が手の中にあり、『彼女』の腕は煙のごとく消え、時計の針は午前二時を回り、僕は通学路にたたずんでいた。


 僕にはもう、何一つ理解できなかった。


 夏の深夜にふさわしい生暖かい風が吹いた。


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 真夜中の学校へ忍び込む。これは明らかにおかしいことだ。一歩間違えれば犯罪、なんてグレーゾーンではなく、完全に真っ黒の犯罪である。もちろんそんなことは分かっている。しかし足は学校に向かって進み続け、僕は自分で自分の体を止められなかった。足元はいやにふわふわとした感覚で、体はやけに重い。一歩歩くごとに、体を引っ張る糸が切れていく人形のように、僕の歩みはぎこちなく、のろのろとしていた。

 

 動かない頭で必死に考える。

 なぜ僕はあの手紙を読んだのか。

 なぜあの幽霊は僕にこんなことをするのか。

 なぜ僕は確信しているのだろうか。今、彼女が、教室のあの席にいると。


 答えは出ない。いや、出ないのではなく、元から設定されていないようにも思えた。初めから、僕がそんな疑問を持たないように設定されている。そんな気さえもした。


 家から学校までの短い道のりは、怖いほど静かだった。音を出すものが全て息絶えてしまったような静寂があたり一面に漂い、僕は雑音を出してはいけない感覚に襲われた。よく考えれば午前二時である。大抵の人間は寝ている時間だろう。


 踏切に望遠鏡を担いでくる輩もいないし、苦笑いして手を握る奴らもいない。みっつ数えて世界が消えるわけではない。動いているものはコンビニとガソリンスタンド、そして自動販売機くらいだ。普通の夜ならば。


 しかし今日は普通ではない。今の僕は幽霊に導かれている。

 

 僕の歩く先にはどこかに最低限の明かりがつき、通り過ぎるとそれはぱちん、と音を立てて消えた。

 また少し歩くと、次のどこかに明かりがつく。看板。自動販売機。踏切。通り過ぎるたびにその光は消え、僕の背後は真っ暗になった。

 僕の後ろの世界は、もう不要だとでもいうように。幽霊が明かりをつけたり消したりしているのだろうか。

 僕はもう理解を諦めていた。


 学校までの道のりは無限に動き続ける歩道の様に思え、また、人生ゲームの最後の数コマのようにあっという間にも思えた。気付いた時にはもう学校の目の前に立っていた。

 学校の校門は完全に開かれている。おそらく入り口も、教室にも鍵はかかっていないのだろう。


 校門を通り抜ける。

 校舎の窓という窓に一斉に明かりがついた。暗闇に似合わないその光量はさながら誕生日を祝うケーキの様である。

 校舎に入ると同時に、廊下の電気がぱちぱちと順番についた。


 一歩歩くごとに体中から変な汗が噴き出ていることに気付かないふりをしながら、平静を装いながら、僕は2年5組の教室の扉を開けた。

 そこには嫌と言うほど声を聴き、その姿に怯えた彼女は居なかった。

 そこには、ここに来るまでに見てきた無人の世界があるだけである。

 だが、僕は確信している。


 『彼女』は、あの席にいる。


 見えていないだけなのだ。いや、思えば、見えなかっただけで『彼女』はずっと僕の隣にいたのだろう。先ほどのように僕の周りをふわふわと飛び回り、時折頬を撫で、そして時々手紙を書き、どこかぼくの目につく場所に置いていたのだろう。

「いるんだろ?」

 震えた僕の声が、誰もいない教室に響き渡る。普段生活している教室は、こんなに広いものだったのかと思った。

「会いに来てくれて、本当に嬉しい」

 教室の隅に置かれた机。本当は存在しない机。その周りに白いもやがかかる。それは少しずつ動き、綿あめができるように絡まっていく。人の形をなし始めた。

「誰なんだよお前は、何の目的でこんなことするんだよ」

 白い人型は少しずつ色を付けていく。先ほど見た手。そして足。細い体。

 それは手紙に書かれていたあの特徴そのもので、僕は『彼女』と会うのが初めてではないような気がした。

「やっと会えた」

 口元が、鼻筋が、髪が。

「長かった。」

 リボンが。靴が。制服が。順番に形を作り、色をつけた。


 僕の目の前で『彼女』は完成した。


「何日ぶりかな。何回目だったか、忘れ





















 僕の記憶の再生は、ここで終わった。


――――――――――――――――――――――――――――――――


 何も存在しない空間。それを作り出すのはおそらく非常に困難なことだ。そもそも波を伝搬する媒体が存在しないなら光も音もない。高校物理の授業を聞けばわかるはずだ。

 だから、その空間は想像の中でだけ存在するだろう。


 そして私は今そこにいた。『彼』と二人で。

 

私達は向かい合い、風に舞った風船のようにふわふわと空間を漂った。


「ねえ、桜井君。はじめて会った時のことを覚えてる?」

 私は問いかける。

「春。高校の入学式の日。終わった後に、私は校庭であなたとすれ違ったの」

 『彼』は何も答えない。

「その日は風が強くて、桜が舞ってたわ。とても綺麗だった」

「私は教室に忘れ物をして、取りに帰る途中だった。私は、あなたに一目惚れをしたの」

 『彼』は俯いたまま、糸の切れた人形のように動かなかった。

「それからは、毎日が楽しかった。同じ世界にいたこと。同じ学校にいたこと。世界中が、変に輝いてた。あなたがいるってだけで」

 私は何も反応を見せない『彼』へ、届いていないであろう告白を続けた。

「でも、あなたは居なくなってしまった」

 これは、いったい何度目の、告白になるのだろうか。


 彼は唐突にいなくなってしまった。それからすぐの、夏の日に。交通事故、轢き逃げにあって。犯人はいまだに見つかっていないらしい。次の日にクラスで報告。その何日か後に葬式。私は悲しむことさえできなかった。


 その時から、私はこの世界に興味が無くなった。

 よく悲しい感情のことを『心に穴があく』なんて表現をされることがある。その時の私の感情はそれに近かったかもしれない。心には彼の形の穴があいた。

 あとはもう、誰もが想像する通りだ。泣いて、吐いて、悔いて、彼との思い出を擦り切れるくらいに頭の中で再生した。それらがもう二度と更新されていくことはないという事実を、私は受け入れられなかった。

 いや、受け入れなかった。

 彼が居なくなってから数日が経ち、私は決意したのだ。

 

 私は彼を作ることにしたのだ。

 私の、想像の中に。


 私が生きるこの世界で、『一番正しいもの』とはなんだろうか。

 それは、私の感じたこと、そしてそれが蓄積された記憶のはずだ。

 私の人生というものは、私の記憶によって形成されている。世界に彼がいなくなっても、私の頭の中に、彼が生きているという記憶があれば、それはきっと正しいのだ。


 記憶が、私の世界を作る。


 私は彼との思い出を徹底的に思い起こし、『彼』を『作った』。

 私は考え続けた。『彼』の姿を。仕草を。服装を。声を。話す内容を。考えることを。自分の部屋で。教室で。歩く道で。コンビニで。喫茶店で。プールで。歩道橋の上で。彼と初めて会った校庭で。

 私の思い出は、なに一つの不自由なく私の世界へ溶け込んでいった。考え続けた『彼』の動作や声は、その内に私の考えを超え、話し出し、ついには自由に動き出した。


 彼は、私の世界に戻ってきたのだ。


 しかし、ここで問題が生じた。『彼』が私を認識してくれないのである。『彼』を失い、私は世界への興味を無くした。そのせいだろうか。私が作る『彼』の世界と私の存在する世界はほんの少しだけずれ、『彼』は私だけを認識してくれないのだ。おそらく『彼』の見ている世界には私の存在だけが欠けているのだろう。

 こんなに近くに居るというのにこれほど残酷なことはない。

 私は『彼』の周りを歩き続け、何度も話しかけ、『彼』に触れ、私を見つけてくれることを願った。


 しかし、それは叶わなかった。『彼』は私のほんの少しだけ遠くを見つめ、どこかへ笑いかけ、呼びかけてもこちらを振り向くことはなかった。何をしても。


 そしてある日、私は『彼』を、いや、『彼のできそこない』を殺した。

 そう、リセットだ。ゲームのセーブデータを消す様に。そしてもう一度作り直すことにした。完璧で、私を見つけてくれる『彼』を。


 その次も、またその次も失敗を続けた。『彼』は私を見つけてくれない。

 数々の失敗の果てに、私は1つの結論を出した。私という存在を、『彼』の世界で成り立たせるものが必要だ、と。

『彼』が、私を認識するために。


 私の存在を知らせるために私はありとあらゆることをした。物を目の前に落とす。窓を揺らす。テレビをつける。その内『彼』は怯えだした。当たり前だ。これではまるで幽霊だ。

 私を感知した『彼』が私の存在を拒絶すると、『彼』は糸の切れた人形のように動かなくなった。おそらく、『彼』が拒絶することを私の心が無意識に許さないのだろう。だから、無意識に『彼』のこの先の動きを止めてしまうのだ。


 失敗だ。

 私はまた『彼』を殺した。


 失敗を、何度も何度も繰り返した。

 だから私は『彼』を何度も何度も殺した。

 それでも諦めきれなかった。彼に会いたかった。


 失敗を何度繰り返したことだろうか。私は少し違うアプローチをすることにした。


 『私』を作るのだ。


 私が『彼』を頭の中で構築したように、『彼』の頭の中で『私』を構築する。そして、その『私』と私が完全に重なる時、『彼』は私を認識するのではないか。私はそう考えた。

 存在を伝える手段として、手紙を選んだ。あの、彼が少しだけいなくなってしまったあの夏の日に、渡せなかった手紙。それを最後に渡せるように。

 長い長い、手紙を書いた。

 何通も何通も、手紙を書いた。

 

 だが、また今回も失敗のようだ。

 『彼』は、もう動かない。この『彼』、いや、『彼のできそこない』は、私を見つけてくれない。

「これで、話は終わり」

 何もない空間、無いはずの地面に立ち、私は言った。

「ごめんね、またうまくいかなかった」


 その言葉と同時に『彼』の体が塵のように崩れ出した。リセットが始まったのだ。「何もない空間」には少しずつ光と音が戻り、私の想像の中に作られた、この世界の時間は巻き戻っていく。

 彼と初めて会った春の日に。


 空間が裂け、一気に光が差した。同時に春の風に連れてこられた桜の花びらが吹き込む。それは崩れていく『彼』と混ざり、何度目になるかわからない、美しく、そして悲しい景色を作り出した。

 思わず『彼』に手を伸ばす。最後に手に触れたのは、彼の一部か、桜の花びらか。


 数秒もすると『彼』は完全に消え、そこには春だけが残った。

「何度でもやり直す。必ず、もう一度、会いに行くから。だから」

 彼がいない世界で、私は必死に叫ぶ。喉も胸も、張り裂ける様に痛かった。


 ぼやけた空間。そこに彼は居ない。


「思い出で、待ってて」


――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 聞きなれたチャイムの音が鳴り、私は現実に引き戻された。目の前の黒板にはこの先の人生で何の役にも立たないであろう数式が並んでいる。授業が終わったのだろう。周りの生徒たちはくだらない話をしている。そんな話、今日の夜ご飯の時間には忘れているだろう。無駄だ。こいつらは、この空間は、無駄の塊だ。


 私は一つ舌打ちをして、目を瞑る。周りの景色も音も消え、私が居る世界の情報と、彼の思い出が同期されていく。慣れたものだ。少し経てば、彼は私の目の前で喋り、動き出す。

 

 彼はあの夏の日に、死んでなどいない。

 私は自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。

 

 彼は生きているのだ。

 少なくとも、私の記憶の中で。


――――――――――――――――――――――――――――――――


 通学路を歩いていた。あまりの暑さに少し気が遠くなり、ぼうっとした瞬間、車が猛スピードで走り抜けていく。ほんの少しの風が心地よい。

 やかましいことこの上ないセミの声。サウナの如き暑さと湿気。青色の絵の具で塗りつぶしたような空。体に張り付く制服。手をかざしても眩しい太陽。

 今まで体験したことのないような夏が容赦なく僕を襲った。


 そして、今、僕の手に握られている一通の手紙。


 僕の記憶の再生はいつもここから始まる。

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思い出で待ってて 雨野 @mtpnisdead

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