俺はナイフ

いりやはるか

俺はナイフ

 ぷつっと肌が弾ける感触。

 その瞬間いつも俺は全身が粟立つのを感じる。肉と血のプールの中に自分の体がめり込んでいく感触。あとはいっきに筋肉繊維と骨の隙間に、自分の体を滑り込ませていくだけだ。ここが俺の腕の見せ所となる。


 目の前にどくどくと脈打つ心臓が迫る。

 俺は自慢のステンレスモリブデン鋼製の硬い体を強張らせて、その中へ全身を飛び込ませる。飛び上がるほどそれは熱いが、俺の冷たい身体が激しく動くそいつを逃がさずに切り裂くと、あたりは急に静かになった。


 勝負、あったな。


 体が引き戻され、俺は再び眩しい光のもとへ舞い戻る。

 全身はぬらぬらと鉄臭い赤に覆われたが、この汚れも仕事の証だ。

 いきなり心臓を一突きにされた男が、びっくりした顔でこちらを見ている。それは驚くだろう。見知らぬ男に出会い頭でいきなり刺されるなんて思って生きている人間は、この世にいない。男はその顔のままゆっくり後ろに倒れて行った。即死だろう。苦しまずに死んでいけるだけ有難いと思わなければいけない。


 俺はナイフ。

 職業は殺し屋だ。いや、正確に言えば殺し屋が仕事に使うナイフ、の仕事をしているナイフだ。何だかわかりにくいな。

 しょぼくれた金物屋の店先で二束三文で売られていた俺を、兄貴がスカウトしてくれた。大量生産の、それも東南アジア生まれの俺なんかをどうして相棒にしてくれたのか、本当のところは俺にもわからない。時々兄貴は仕事以外の時も俺を取り出してじっと見つめている時がある。そっちの趣味があるわけじゃないが、そういう時の兄貴の顔はおかしな気分になっちまいそうなほど男前だ。男が惚れる男、ってとこか。


 報酬はまちまちのようだが、兄貴はそれほどいい暮らしをしている様子は無い。そもそも、商売道具だって俺一本だ。他の道具は使わない。手口はいつも同じ。ターゲットの生活リズム、行動パターンを調べ上げ、そいつが普段使っているルートで最も人通りの無いポイントを見つける。そこに待ち伏せて、俺で心臓を一突き。

 もし俺があの金物屋で近所のババアにでも買われていたら、一生こんな経験は出来なかっただろう。毎日毎日ネギだのキュウリだのを刻む毎日だったに違いない。俺の体には兄貴が自ら彫りを入れてくれた龍の紋様がある。そこらの刃物には無いイカしたタトゥーだ。俺はこいつを心底気に入っている。

 ある日、いつものように兄貴が俺を研ぎ石で磨いてくれている時、仕事の電話が入った。相手はかなり大柄な男のようだ。腕が鳴る。俺の身一つでその巨体を沈めて見せる。


 リサーチが始まった。見張ること数週間。男が一人きりになる瞬間を発見した。毎週水曜日の早朝、男はジョギングをしに近所の河川敷に出る。途中で公衆トイレに寄る瞬間が狙い時だった。

 兄貴と一緒に小便臭い個室の中で息を潜めて待つ。やがて大げさな息遣いが入り口の方から聞こえてきた。兄貴が音を立てずにゆっくりとドアを開く。男が朝顔に向かってみっともない格好で背を屈めていた。俺の出番だ。兄貴の鼓動が手のひらから俺の全身に伝わってくる。大丈夫、今度だって上手くやれるさ。


 兄貴の腕の筋肉がピクンと動いた次の瞬間、俺は男の体内に飛び込んでいた。そのまま分厚い脂肪も筋肉も切り抜け、いっきに心臓へ到達する。成功だ。しかし、何かがおかしい。俺は自分自身の体の異変に気が付いた。何かおかしい。体がむずむずする。兄貴の腕が俺の体を引き抜こうとした時、それは起きた。


「あっ」


 普段滅多に声を出さない兄貴が小さく声を漏らした。

 理由はすぐにわかった。俺の体は、刃の部分が体の中に残ったまま、柄だけが見事にすっぽ抜けていた。兄貴が勢い余って後ろにすっ飛び、たたらを踏む音がする。いけない、このままじゃ証拠品が男の体に残っちまう。俺はなんとかこの男から飛び出せないかと身を捻ろうとしたが、意識はあっても所詮は刃物。自分では動けない。兄貴は俺を取り出すかどうか迷っているのだろう。普段ならすぐ姿を消すはずなのに、まだ男の背後で戸惑う気配がする。男は既に朝顔にもたれたままずるずると崩れ落ちている。真っ暗な体内で俺は自分自身の安物ぶりを恥じた。まさか、こんな大事な場所ですっぽぬけるなんて!やがて兄貴が走り去る音と同時に、男の体は地面に大きな音を立てて倒れた。


「なんだこの三徳包丁。何かだっせえ彫り物してあるぞ」

 検死官は俺を引き抜くとそう言った。俺を三徳包丁呼ばわりするのは構わない。だが、兄貴が俺に入れてくれた彫り物をダサいだなんて誰にも言わせない。そう思っても俺の体は今や持ち手を失い握ることさえ出来ない。


「これ証拠品。きっとここから足付くだろ」


 ああ、兄貴すまない。俺がヘマしたばっかりに。ごめんよ、兄貴。やっぱり俺はかっこいいナイフじゃない。安物の三徳包丁だったよ。

 ジッパーのついたビニール袋に入れられた俺はそのまま小さな金属製の箱に放り込まれた。


 それきり、二度と俺の目が覚めることはなかった。

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俺はナイフ いりやはるか @iriharu86

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