◆ 4日目(1)

 午前中は会議の資料作りや電話対応で忙しくしていたし、ドリンクが効いていたのか眠たいことを思い出さずにすんでいた。なんだかんだで昼を食べ損ね、眠気覚ましも兼ねてビル内のコンビニで軽食パンとコーヒーを買って戻る。「今頃昼か?」と笑う同僚はチョコレートを口に放り込んでいた。

 ちょっと肩を竦めて、そのチョコを横から掠め取る。その甘さが異様に美味く感じて、疲れてるんだなとぼんやりと思った。


 緊張の糸が切れたのはそう時間が経たないうちだった。

 腹が満たされると、飲み慣れたコーヒーくらいでは眠気に勝ってくれないらしい。画面は見ているものの、手が止まり、気が付くととんでもない桁の数字が入力されている。


 ――ダメだ。


 幸い、急ぐものでもない。終業時間まではもう少しあるのだから10分だけ……と、俺はトイレに立った。一番奥の個室に座り込み、スマホのアラームをかけて目を瞑る。

 驚くほどあっさりと、俺は意識を手放した。


 …・…・…・…


「ふつかめー? ここのところ疲れてたし、今日は帰った方がいいんじゃない? もうあと三十分くらいなんだからさ」


 俺に言われたのかと思って、ぎょっとして目を開けた。

 視線が高い。目に飛び込んできたのは簡易ベッドに横になる女性と、その女性を心配そうに覗き込む女性だった。医務室かと思ったが、医師も看護師も居る様子はなく、簡易机はあるがそれらしい薬や設備が置いてあるわけでもない。仮眠室か休憩室のようなところだろうか。


「三十分くらいここで休んだら、帰らせてもらうよ」


 苦笑交じりのその声は、もう何度も聞いたものだった。

 また、あの夢を、見てる。


「もうっ、律儀なんだから。でも、急に動くのも心配か。荷物持ってこようか? 机に何か入れてる?」

「スマホくらいかな。後はロッカーだと思う」

「了解了解。まっすぐ帰るって言っとくから、こっちは心配しないで」

「ありがとう」


 女性が出て行くと、リコは手の甲を血色の悪い額に当てて目を瞑り、深く息を吐き出した。

 随分顔色が悪い。倒れたんだろうか。

 夢でしか会わない人物なのに、俺は彼女のことを酷く心配している自分に気付いた。夢を見ている時間はそれほど長くないはずだ。なのに、彼女を見下ろす時間は濃密に自分に纏わりついている。

 リコが動かなければ俺も動けない。することも無く、見る物も無く、暇を持て余した俺はふと思いついて彼女を呼んでみた。


 ――リコ。


 自分の声も聞こえては来なかった。俺は空気も震わせられないらしい。彼女もぴくりとも動かない。

 何だというんだ。どうしてこんな夢を見るんだ。何か意味があるというのか。

 もどかしいのは、意味があって欲しいと思う気持ちが大きいからか。彼女がどこかに存在していてあって欲しいと思うからか。例え、彼女に会えたのだとしても、彼女は俺のことを知らないのに――


 ――リコ!!


 びくりと、彼女が目を開けたのは多分、俺の声が聞こえたからじゃない。同じタイミングでドアを開けて先程の――恐らく同僚の――女性が入って来たからだ。

 リコは体を起こし、足をベッドから下ろした。


「大丈夫? はい。荷物。送って行こうか?」

「ありがとう。でも、横になってたら大分良くなったよ。サヨ、デートだって言ってなかった?」

「え? あ、うん。いいのいいの。いつも待たされるし、たまに待たせたって」

「それにしたって逆方向だし。大丈夫、大丈夫。そこまでじゃないよ。無理そうならタクシー捕まえるから」


 にこりと笑う幾分血色の戻ったリコの顔を見て、サヨと呼ばれた女性は迷いを見せつつ、そう? と首を傾げた。立ち上がり、しっかりとした足取りで部屋を出るリコの後を追いながら、ほっとしたようにひとつ頷くとエレベーターまで彼女を見送り、気を付けてね、と手を振る。

 ビルから出てそのままタクシーを拾うのかと思いきや、リコは駅に向かって歩き始めた。

 本当に大丈夫なのか、タクシーを探すより電車の方が早いと思ったからなのか、彼女の後ろ姿しか見えない俺には判らなかった。


 駅近くのコンビニ前の赤いのぼりが、不意に変わった風向きにくるりと回る。ぼんやりしていたのか、リコは自分に近付いた旗に驚いて、大げさに飛び退いた。

 のぼりに気付かないくらいぼんやりしている割には、足取りはしっかりしているようだ。俺は少しだけほっとする。


 改札を潜り、階段とエスカレーターとどちらにするか少しだけ迷って、エスカレーターを選んだ彼女。下りきると階段方向に歩き出した。恐らく、いつもは階段を使っているのだろう。この位置だと中程の車両になるだろうか。俺はいつも二両目に乗っているので、例え同じ電車に乗っていても、なるほど顔を合わせないはずだ。

 リコは階段下から少し行った辺りでぴたりと足を止める。電車の進行方向を向く彼女に釣られてそちらを見ると、最後尾の車両の赤いライトが遠ざかっていくところだった。少し早い時間とはいえ、人が少ないと思ったんだ。行ったばかりだったんだな。


 電光掲示板を見上げてみると次の電車は十数分後。彼女はそのまま最前列に立っていた。

 快速列車通過の構内アナウンスに続けて、線路内立ち入りの影響で遅延が発生している旨が告げられる。なんだか、色々タイミングが悪いな。次の列車は時間通りに来ないかもしれないのか。椅子にでも座って待ってた方がいいんじゃないかと気を回してみても、それを彼女に告げる術もない。


 もやもやしながら彼女の背中を見つめていると、階段を転げるように騒がしい一団が駆け下りてきた。学生か。あの制服はどこの高校だったか……思い出す前にリコが目元を覆って俯いたのが目の端に見えた。大丈夫か? 何もできないのは解っていたが、彼女に手を差し伸べる。自分でも見えない手を。


「ぅ、わ……!!」

「あっ!」


 階段の方がざわりとざわめいた。なんだと振り向く前に足元につんのめったように高校生が転がり込んできた。あっと思う間もなく、そのまま彼はリコにぶつかり、体勢を崩してたたらを踏んだ彼女は吸い込まれるように線路に落ちて行った。俺が、伸ばした手で彼女を掴んだにも関わらず。


 届いていたのに。

 掴んだはずだったのに。

 俺の見えない手は、虚しく彼女をすり抜けた。


 甲高い警笛の音と、ブレーキ音。耳を塞ぎたくなるような音の洪水の中で、驚愕に見開かれる運転手の青褪めた顔までいやにはっきりと見えていた。

 車体にぶつかった衝撃で彼女は弾けて跳ね飛ばされ、血飛沫が辺りに降り注ぐ。あちこちで悲鳴が上がり、通過するはずの電車は徐々にスピードを落とした。金属が焼ける匂いがぷんと辺りを満たす。

 つんざくようなブレーキ音が聞こえなくなり、駅員が慌ただしくホームを右往左往し始めるまで俺は動くことはおろか、視線を動かすことも出来なかった。心臓の鼓動だけが速く高く鳴り続けている。


 ……これは、夢、だ。

 これは夢だ。これは夢だっ。これは夢だ! これは夢だ!!


 こ れ は ――

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