◆ そして始まり

 彼女がちゃんと存在していたことと、彼女を助けられたという高揚感で、その週末はいつになくテンションが上がっていた。

 体は全身打ち身だか筋肉痛だかわからない痛みでひーひー言っていたが、その体をおして自主残業するくらいには気分が良かった。

 何もかも放り出していった机はパソコンがシャットダウンされている他は変わりも無く、これが現実だと突きつけられた気分になる。


 彼女を助けた晩から夢はもう普通の夢しか見ていない。少し寂しい気もしたが、そうだろうなという気はしていたので諦めて安眠を甘受していた。

 彼女の夢を見ない日が続くと、彼女との繋がりをもう少し作っておくべきだっただろうかと後悔のような何かが湧いてくる。こちらの連絡先を一方的に渡しただけだし、向こうが連絡してくるとは限らない。あの場で礼は言われてる訳だし……


 次に偶然出会うまでどの位かかるだろうか。今まで重ならなかったモノが急に重なり出すとは思えなくて、高揚していた気分は少しずつ鈍い痛みに置き換わっていった。


 会いたい。


 夢でもいいから。


 人間、勝手なものだ。つい数日前までなぜこんな夢を見るのかと言っていたくせに。

 鈍い痛みに耐えきれなくなって、いっそ駅で彼女を待ち伏せしてしまおうかと思い始めた頃、部屋のテーブルの上で俺のスマホが震えていた。




 シャワーを浴びて脱衣所に出たところで、スマホの呼び出し音に気付いた。取るものも取りあえず、裸のまま慌てて飛びつく。

 仕事で何かあったのかと思ったのだ。


「はい。もしもし」


 電話の向こうで、息を呑むような気配がした。


「もしもし?」


 肩でスマホを挟むようにして腰にバスタオルを巻き付けた俺は、一度耳から離して相手を確認する。知らない番号だった。

 間違いか?


『……あの』

「はい」

『ホシヤナギ、さん、ですか?』

「あ、はい」


 女性の声に少し鼓動が速くなる。


『私、先日駅で助けていただいたハコザ――』


 落とした。

 派手な音を立ててフローリングに転がったスマホ。慌てて拾い上げようとしてまた逃げられた。

 ああ、情けない。


 すいません、手を滑らせて、と正座して頭を下げる。そのまま妙に畏まって話を進めたが、正直あまり覚えてない。週末に最寄駅近くのファミレスで会う約束をしたことだけはしっかりとメモしてあった。

 通話が終わっても、俺はしばらくぼんやりとそのままの格好でいて、芸人並みのくしゃみが出てからやっと我に返ったのだった。


 …・…・…・…


 約束の日、彼女は『前へならえ』のような形で腹部から伸びる板状の拘束具を軽く掴むようにして腕を固定されていた。昔は三角巾でお腹の前に腕を横にして吊っていたと思ったのだが、時代は変わるらしい。この方が次の脱臼を起こしにくくなるということだった。

 彼女の肩は脱臼していたのだという。後ろから強く引きすぎたのが悪かったらしい。痛々しい姿に俺は恐縮しきりだった。

 頼んだコーヒーが来てから、改めて自己紹介から始める。あの日渡せなかった名刺を彼女の前に差し出した。


星柳ほしやなぎ すばる……さん。あ、会社、近いんですね」

「そうなんですか? どちらにお勤めか、聞いても?」


 白々しいかな、と思いつつ、知ってますとも言えないので聞いてみる。あぁ、と彼女は鞄から名刺入れを出して、片手で器用に1枚取り出した。


箱崎はこざき 璃子りこといいます。この度は本当にありがとうございました」


 さらりとしたストレートの髪がテーブルにつきそうになる。

 すぐに頭を上げて、持参していた紙袋をテーブルに差し出した。


「ほんの、気持ちなんですけど」

「わざわざありがとうございます」


 一応それは受け取ってから、ちらりと彼女の固定された腕に視線を投げた。


「……でも、それはこちらのせいですし……治療費、回して下さい」

「いえ、そんな! 駅員さんにもお話聞いたんですけど、星柳さんが掴まえてくれなかったら、私、快速に撥ねられてたって」


 ふるふると左右に細かく首を振る。


「あの時、私貧血気味でぼんやりしてて……だから、そんなこと気にしないで下さい」


 君が助かって良かった。喉まで出かかったけど、飲み込んだ。

 沈黙が落ちる。

 どうする。このままだと、じゃあって立ち上がられてそれっきりだ。

 俺はコーヒーを一口啜ると、彼女が何か言う前に早口で告げた。


「じゃあ、何か手伝えないかな?」


 彼女はきょとんとこちらを見た。


「何か?」

「片手じゃ買物とか――重い物持つのも大変でしょうから……週末くらいしか手伝えないけど、荷物持ちとか?」

「い、いえ、そんな。悪いです」

「俺が、気持ち悪いんですよね。怪我させたままっていうのが。あ、信用ないなら、ご両親でもお友達でも一緒してくれて構いませんから」


 ちょっと、強引かな、とは思ったけど、他に思い付かなかったのだ。

 彼女は少々怯んで、視線を彷徨わせた。


「別に、病院への送り迎えとか、ご両親の足代わりでもいいですよ。何か、させてほしい」

「……じゃぁ……何か、あったら……」


 おずおずと承諾する彼女ににっこり笑って、俺は厚かましくもLINEの交換をお願いした。多分、これ以上は押せない。連絡も、もしかしたら来ないかもしれないけど、これが精一杯だろう。やるだけはやった。

 半分諦めの気持ちでスマホをしまい、じゃあと立ち上がろうとしたところで、今度は彼女が口を開いた。


「……あの……以前に、お会いしてるってことは、ないですよね?」


 どきりとした。

 ガラス越し、鏡越しに目が合って何度か振り返られたことを思い出す。とても、本当のことは言えない。

 少し彼女を見つめてから、俺は答えた。


「無い……と思いますけど……先々週くらいにコンビニ前でぶつかった方に、そういえば似てるかも」

「え!?」


 彼女もまじまじと俺を見た。


「あ、覚えが無ければ人違いですね。俺も急いでたんで、よく覚えてなくて」


 ははっ、と笑ってみせる。

 彼女はなんだか複雑そうな表情をしていたが、やがて少しだけ微笑んだ。


「確かに、コンビニ前でぶつかった人はいます。私も、よく覚えてないんですけど」

「そうですか。きっと、そうですね。その節は、失礼いたしました」


 深々と頭を下げたら、彼女が小さく笑った。

 今度こそ、じゃあ、と伝票に手を伸ばした。彼女もほぼ同時に手を出していて、数瞬早くそれを掴んだ俺の手に彼女の手が重なった。慌てて彼女は手を引込める。


「ごめんなさい」

「あ、いいですよ」

「……そんな。呼びだしたのはこちらなのに」


 鞄に手をかけた彼女をやんわり牽制して、俺はできるだけ軽く笑った。


「最近、財布持ち歩くの面倒くさくて、電子マネーしかないんです。小銭貰っても困るんで」

「じゃあ、私が」


 もちろん伝票は渡さない。


「どうしても払いたいなら、次に会った時にお願いします」


 暗に次を口にする俺に、彼女は一瞬動きを止めた。その間にさっさとレジへ伝票を差し出してしまう。

 軽い電子音が鳴って支払いが終わってしまうと、ちらりと見た彼女がとても困った顔をしていて、思わず口元がほころんだ。

 可愛い、と思ってしまったのだ。


「……ごちそう、さまです」

「いえ。これくらい。では、失礼します」


 さて、俺の目論見通りに事は運ぶだろうか?

 とりあえず、彼女からLINEが入ったら、第一関門突破だな。


 その為には今日は振り向けない。振り向いちゃいけない。

 俺はまだ彼女にそれほど興味を持っていてはいけないのだ。ここからが、始まりなのだから。


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 それから数日間、時々鏡の向こうやガラスの向こうから視線を感じる気がするのは…………気のせい、だよな?




 <結>

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ゆめ×うつつ ながる @nagal

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